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いつも通りの、静かな生温かい空気が肺を満たす。
いつも通りの天井が、ぼやけた視界に入ってくる。
いつも通り、遠方から聞こえてくる鳥の声が、耳朶を打つ。
いつも通り、夢と此方を彷徨っている。
いつも通り、障子から差し混む光は煌々と輝き、部屋の全てが眩しく見える。
世界はこんなにも鮮やかなのに、 自分だけが何時迄もこの風景に馴染めていない様な、疎外感。
この時間が、嫌いだ。
ああ。あさか。
ぼんやりとそんなことを考えた江戸は、 寝ている間に固くなった身体を布団から起き上がらせると、気だるげに伸びをする。
おひさまの差したこの部屋には、いつも通り、誰もいない。 障子の向こうにも、縁側の方にも、台所にも、誰もいない。
…『人恋しくなる季節は冬』だなんて、誰が決めたのだろう。 だってほら、今はもう外に桜が咲いている。
このままそんなことを考えていると、自分自身の輪郭がこの陽気で溶かされてしまいそうだ。
江戸
でも、何か考えようとする思考回路もこの朝陽に焼き切られ、 もういっそこのままだらだらと過ごしてしまおうか、とさえ思っていると。
こん、こん。
玄関の戸が、遠慮がちに叩かれた。
ぴくり、と耳を動かした江戸。
あれ、そっか。そうだっけ。きょうはーー
訪問者
江戸の数少ない知り合いであり、恋人でもある『彼』が訪ねてくる日だ。
嫌いな、朝の重たい空気も振り払い、 立ち上がると、彼の待つ玄関に足を向けた。
※和風の玄関がなかったので背景これです
がらがらっ
江戸
オランダ
粋な襯衣に、スラっとしたカルソン。 その上から外套を羽織るという、小洒落た紅毛服に 身を包んだ彼ーー和蘭陀の笑顔は明るくて、まるで朝の太陽だ。
でも、江戸は彼の笑顔が嫌いじゃない。むしろ好きだ。
それはきっと、自分が彼のことを慕っているからだろう。
江戸
オランダ
江戸
「じゃあさ、一緒に食べよ!」
一人暮らしで、他国不信な性の上、頑なに鎖国までしている江戸は、 誰かと食卓を囲む機会なんて滅多にない。
すぐ、彼からの提案に二つ返事で頷いた。
ーー今日は、いつもとは違う朝になりそうだ。
「お邪魔しまーす」と言いながら家に入って行く和蘭陀を見ている 江戸の口角は、いつもと違い、微かな笑みを湛えていた。
ーー暫くして。
寝巻きからお気に入りの藍色の着物に着替えた江戸は、 自室からぴょこりと台所へ顔を覗かせた。
そこから漂ってくるのは、甘い、いい香り。
かいだこともなければ見たこともないそれは 『ちょこれぇと』 というらしく、和蘭陀が持ってきてくれたそうだ。
今の日本では甘い、それも砂糖が使われているものは高級品だ。
「ちょっと待ってて」と言われた手前、ちゃぶ台の前でそわそわと待つことしかできない。
そのうち、ぐつぐつという音と共に、また別の、香ばしい香りが漂ってきた。
オランダ
オランダ
オランダ
江戸
オランダ
彼はいつもこうやって、異国の品々を持ってきては、 世間知らずな江戸に色々と教えてくれるのだ。
ほら、食べよ!
和蘭陀にそう促され、これまた彼が持ってきてくれた「すぷーん」という道具を使って食べる。至れり尽くせり、まさに据え膳だ。
そうやって和蘭陀と囲んだ朝食は、いつもと違う、味がした。
『ちょこれえと』のとろけるような余韻を楽しんだ後、久しぶりに散歩に出かけることになった。
和蘭陀が待ってくれているというので、ありがたく準備させてもらう。
自室にて、黒い布で目元を隠し、編笠を深く被る。 和蘭陀の前ならまだしも、外出する時はいつもこの格好だ。
というか、外では外したくない。
江戸
…引きこもりにとっては、散歩もまた、大冒険なのである。
座布団から立ち上がると、障子の向こうから、和蘭陀の楽しげな鼻歌が聞こえてきた。
江戸
ふと、足を止める。
やわらかな、あたたかい空気を吸い込んでみる。
いつも通りのこの部屋を、見渡してみる。
障子越しに聞こえてくる、貴方の歌に耳を澄ます。
現を生きる。此処に在る。
…おひさまが、やわらかく差し込んでいる
この部屋には、やっぱり誰もいない。
でも、この障子の向こうに、貴方がいる。
あぁ。この時間が、大好きだ。
ーー続く!