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俺は上っていた
階数で言うと ここは5階になるだろうか
5階まで上がるのは 正直言うとかなり疲れてしまう
特に今なんかは 体育の授業が終わって間もない
授業では バスケットボールに全力で興じた
40分以上は走り回っていたはずだ
そのためか 現状と合わせてふくらはぎが悲鳴をあげてしまっている
悲鳴を無視して 目的地まで構わず足を進める
ダンッダンッダンッ
重い足取りは 段差の上面を強く打ち付ける
乾いた靴音がただ響いた
どうせ、あともうすぐだ
今なら、引き返すほうが辛い
こう言う考えは 俺の常套句だった
例えば 辛いことや苦しいことが目に見えている
しかし それを達成しなくてはいけないとき
それを達成しないと より辛くて苦しい状況に身を置くことになる
苦を後回しに それも倍増して保留しているだけだ
…………だったら
いま楽をして 一体、何になるというのか
だから俺は 課題もさっさと片付けてしまうタイプだ
その習慣のおかげか 普段の生活はそこそこ上手くいっている
友達もいるし テストやスポーツも上々
比較的 安定していると言える
しかし 周囲の友人はそうもいかないらしい
苦しいことがあれば 避けたり違う方法を取る
それもある意味で正しい
だから俺の考えは 悪く言えば愚直に過ぎるということだ
……まあ
それで結果は出せているのだから 文句は言うまい
……そもそも
俺はこう言う考え方を 身につけざるをえなかったんだ
必死に本気で生きるしかなかった
それしか 選択肢は用意されていなかった
俺だって 普通に生きていれば皆と同じように 課題だって後回しにしただろう
そんなこと想像してみたって どっちにしろ今の俺は
本気で生きていかないといけないんだ
大きな音を立てて ようやく目的地まで着いた
「よいしょ」と声に出して座り込む
それが妙に"おっさん臭い"と感じて 気恥ずかしくなる
馬鹿馬鹿しく思いながらも 周りに誰もいないか階下を覗き込む
誰もいなかった
ため息をついて片手に持っていた紙パックジュースを傍らに置き、首にかけていたタオルで顔を拭く
いい汗をかいた
不快感はなく さっぱりとしていた
神崎隼也
俺は顔を曲げて隣にある扉を見る
屋上へと続く扉である
神崎隼也
……また言ってしまった
膝を折って中腰になる
苦笑しながら ドアを開けられないか試みる
その冷たいノブに手をかけて ぞんざいに回しながら、押したり引いたりしてみるがダメだった
いつものことだ
神崎隼也
神崎隼也
神崎隼也(かんざき しゅんや)……
名前の由来は知らない
両親の顔も知らない
じゃあ 俺は家庭の何を知っているのか
それは何か 訳ありな家庭だったということしか 知りようがない
俺を産んだと同時に 母は死んだという
これも 具体的な理由は知らない
教えてくれなかった
赤子の俺を引き取ってくれたのは 母に関係しているということしか分かっていない謎の男だ
俺にとっては親同然で 愛情も十分に注がれて育ってきた
……でも、とにかく
過去について何も分からないんだ
それがいつも、もやもやする
……というのも
さっきの俺の考え方 必死で生きるしか道は無かったという話
その原因を遡ると どうやら過去の境遇に関係している
正直 俺の家は貧乏で苦労が尽きない
中学の頃から 新聞バイトで早朝から走り回り 少額ながらも生活のために稼いできた
本来はそのまま働くつもりだったが 先生の勧めや親代わりの男にも多少工面してもらって、なんとか高校に入れた
しかし 入学後も色々とお金はかかって アルバイトは増えていく一方だ
親代わりの男は 既に70代で体を病んでいるから 入院生活を続けている
だから 怠けている余裕がない
……それで
結局 なぜ生活が困窮したのかを考えると どうやら親代わりの男は母が死ぬのと時期を一にして職を失っている
俺の誕生をきっかけに ただならぬ事態でも起こったのか
その経過を全く教えてくれない
特に、母のこととなると 途端に口をつぐんでしまう
だけど唯一 母について教えてくれたことがある
男は呟くように何度も言っていた
それは
神崎隼也
神崎隼也
言葉に出してみる
けれども 詳細はやっぱり不明だ
一体、何があったんだろうか
神崎隼也
紙パックのジュースを飲む
バナナオーレだった
甘くてすっきりとした風味が 口と鼻を抜けていく
最高に美味かった
そこで暫くボーッとする
別に何もない
何もないが 俺はこの時間が好きだった
誰にも邪魔されることなく 難しく考えないで済むこの時間
ひんやりとする地面に 手を付けて無機質な壁面を眺める
外からは下校する生徒の声が響き 時折、階下を通る足音がする
そんな時間に こうやってただぼんやりとする
なぜだか 少しワクワクするし 少し寂しくもある
その感覚がたまらなく好きだった
次第に音もまばらになる
まだ、部活動の生徒の声はするが 帰宅部はとっくに帰っている頃だろう
恐らく 30分はここに居た
いい加減 立ち上がって帰ることにする
人が通らないから大したゴミもないが ズボンを手で払う
……さて
神崎隼也
神崎隼也
俺は歩き出した
エタノールの臭いが充満し 生命の延長と断絶を繰り返す境界
陰鬱で忌むべき 審判の鐘を鳴らすは心電図
コツコツと医師は廊下を歩み 死刑宣告を待つ如く恐怖する患者
内向的で苦悩に満ちた空気
生きとし生けるものを蝕む 悪循環で劣悪な世界
……というイメージは 近代ですらなく中世に埋没している
現代の病院というものは 場所にもよるのかもしれないが 少なくとも我が家より綺麗だった
明かりが全面に舞い踊り 全てを受け入れる慈母のようだった
走り回る医師や看護師たちは 確かに大変そうだった
しかし その目は明朗で確かな志がある
病室の前では 患者の談笑が漏れ聞こえる
昔話や世間話に花を咲かせ どうやら満開に至っている
それも シーズンは年中である
俺は予定通り 父が入院する県立総合病院まで立ち寄った
規模は県内でも最大であり 設備も充実している
だからか 受付も無駄に長い
ホールはザワザワと騒がしく 落ち着きがなかった
心もとなく待っていると 面会証を貰ってようやく見舞いができる
エレベーターを使って6階まで昇り 病室まで訪ねていく
そこまで来ると 流石に静かな空間に落ち着いていた
俺は病室を間違えないよう フロアの確認と表札のようになっている カードを見て名前を確認する
神崎隼也
神崎隼也
月に2回は来ているのだが 未だに慣れない
病院がこうも大きいと 不安になって部屋の確認を何度もする
分かっているのに、である
神崎隼也
神崎隼也
ノックをして確認する
部屋から 年寄りのしわがれた声が返ってくる
「ああ、隼也か。入りなさい」
声に応じて 俺は横開きのドアを開けた
個室も綺麗にされていた
程よい温度感にするため 木で造られた家具や小物で統一している
何度見ても 病院の設備は整備されている
患者への意識が強まったからだろうか
当の患者は ベッドの上で身を起こしていた
ニコニコとこちらを見て 手招きする
佐久間浩樹
神崎隼也
神崎隼也
佐久間浩樹
これが俺の親代わりである 佐久間浩樹
産まれた時から育てられたから 「父さん」と臆面もなく呼んでいる
愛想が良くて明るい
流石に昔より老けたし 体も自由が利かない
しかし 70代の割には元気な老人だ
父さんは呑気な調子で話し出した
佐久間浩樹
神崎隼也
神崎隼也
佐久間浩樹
佐久間浩樹
神崎隼也
父さんは末期がんだった
発覚したのが遅すぎた
いつものように ゆっくりと学校から帰ってきた
玄関の扉を開けて 「ただいま」と声を掛ける
だけど 応答がなかった
靴を脱いでいる最中に なんか変だと気づいた
それでも 眠ってるだけかもしれないと 自分に言い聞かせて居間に入ってみると
……そこで父さんは倒れていた
急いで救急に電話をし 病院に運ばれて……
4ヶ月ほど前から入院して 現在に至る
すごく焦った
この人が居なくなれば もう俺は一人だ
誰も愛せず 誰からも愛されない
完全な孤独感を覚えてしまう
産まれた時から両親が居なかった俺にとって、唯一の大切な家族だった
佐久間浩樹
佐久間浩樹
佐久間浩樹
神崎隼也
まあ 思ったより元気そうだけれど
神崎隼也
神崎隼也
見舞いの帰り道 日はもう暮れかけていた
夜になってくると途端に冷える
俺は抱き込むように 両手で制服のジャケットを寄り合わせた
暦では秋も終わる頃だ
そろそろ カイロでも持っていくか
カラスが旋回してカァカァと鳴くなか ぼんやりと考える
俺はいま高校1年生だ
あと2年で卒業……
卒業したあとどうする?
進学は選択肢に入るだろうか
奨学金を利用するとして すべて自分でやりくりする他ない
それはもう 慣れっこだし良いとして
行く価値があるのかどうか
就職したいという気持ちが強い
でも、国立大学を目指せば 将来的な生涯賃金は増えていくかも
それは職種によるか……
社会保障とか色々受けてるけど 生活もきついし父さんのことも考えると やっぱり就職した方が……
いや 先生の意見も聞いてみるべきか
インターンシップもやってみようか
判断はそれからにするとして……
思いを馳せていた時だった
神崎隼也
???
誰かとぶつかった
ぶつかった衝撃で女性は倒れそうになり 俺の服をつかんだ
咄嗟に女性の背中に手を回して 何とか姿勢を維持する
ギリギリで体勢を立て直し 転ばずに済んだようだ
社交ダンスでも踊っているような ポージングになっている
俺は慌てて女性から離れ すかさず謝った
神崎隼也
神崎隼也
???
???
俺は目を見張った
相手の女性は言葉で表すには足りぬほど とにかく美しかった
強いて特徴を挙げれば 壊れそうなほど繊細な細い指先 今にも消えてしまいそうな純白で透明な人形のような肌
小ぶりな顔立ちに綺麗な形のパーツが 完璧な配置で整えられている 美術品のような顔立ち
西陽がほのかに当たる彼女の姿は 思わず息を呑む儚さがあった
そう、例えるなら……
???
神崎隼也
???
天使?
一体、何の話をして……
???
???
???
神崎隼也
???
草木が跳ねるような 柔らかい音
魂を包み込んでしまうような 温かい音
その発生源である 薄く膨らみのある艶やかな口元
何も言えず、ただ凝視する
天使は囁く
???
神崎隼也
???
???
神崎隼也
???
神崎隼也
???
???
???
それだけ言うと 天使は優雅に景色と溶け込んだ
あれは、一体何なんだ
現実に起こったことなのか?
これは……夢?
頬を引っ張る古典的な確認の後 俺は痛みで現実に引き戻された
だけど、それでも、まだ
何が起こったのか分からない
俺はふらふらと歩き出す
しかし またすぐ立ち止まった
神崎隼也
制服のポケットからひらひらと 一枚の紙が落ちてきた
アスファルトの上に静かに落ちたので それを拾い上げる
紙には電話番号が書かれていた
裏も確認するが何もない
こんなもの 学校にいた時はなかったはずだ
なら、病院で?
いやいや、まさか
これは……
神崎隼也
あの人だ
名も知らない美しい女性
もう一度 女が立ち去っていったと思われる 薄暗い道を見てみる
しかし 既に姿は見えなくなっている
転んだ拍子に ポケットに入れたのか
待て、だとすれば
神崎隼也
神崎隼也
何とも言えなかった
嬉しい気持ちは大いにある 正直言ってドキドキする
だが
だが、どうしても 何か拭いきれない不安があった
俺は彼女を見て 何かに喩えようとした
そこに彼女は 天使の話を唐突にしだした
確かに 彼女は天使のようでもあった
天使のようでもあるのだが……
俺は彼女に対するイメージを 言葉に出してみた
神崎隼也
神崎隼也
日はとっくに暮れていた