あぁ
あの匂いだ
歯の浮くような甘い匂い
小さい頃僕の手を引っ張ってくれたあの子の匂い
陽菜
香水つけてみたの
陽菜
お母さんに内緒で借りてみたんだ
僕は陽菜ちゃんがお母さんの香水を無断で借りたことがバレないかひやひやしていた
朝陽
いいのかな
朝陽
勝手にそんなことしちゃって
陽菜
大丈夫、大丈夫
陽菜
ちょっと借りてみただけだから
陽菜
お母さんだって分からないわ
この匂いがきっと大人の匂いなのだろうと思ったが
夏のむせかえるような暑さのせいで陽菜ちゃんの汗と混ざった香水の香りは僕には合わなかった
???
ねぇ
???
大丈夫?
???
うなされてたみたいだけど……
大きなダブルベッドの向かいでバスローブ姿の女性が心配そうに見つめる
朝陽
あぁ、大丈夫だ
朝陽
少し嫌な夢を見てね
???
どんな夢?
???
話すと気持ちが楽になるかも
朝陽
いや、
朝陽
やめておくよ
朝陽
そうなったら昔話をしなくてはならなくなる
???
えぇ〜聞きたいなぁ
???
朝陽さんの昔話
朝陽
いや、遠慮しておくよ
タバコを咥え火をつける
朝陽
それよりも香水、変えたのか?
???
?
???
えぇ、
???
甘い匂いのするものも欲しかったの
???
いい匂いでしょ
???
先輩にオススメされてね
???
買ってみたの
朝陽
そうか……
こちらの反応が気にかかったのか 心配そうに見つめ、問いかけてくる
???
嫌い?
朝陽
いや、嫌いじゃないよ
朝陽
いい匂いだ
この甘い匂いはあの子の記憶
この甘い匂いは血の記憶
むせかえるような嫌な匂い
ふと衝動に駆られる
朝陽
そういえば名前聞いてなかったね
???
名前?
???
私の名前は美紅よ
???
前にも言わなかった?
朝陽
そうか……
名前ひとつに縋ってしまった自分に嫌気が差した
彼女が僕の記憶を上書きしてはくれないだろうか