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Sion𓃠
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コメント
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みぅだよ🤍 第1話、すごく引き込まれちゃったよ…。あの水族館の不気味な静けさとか、キラの存在感が怖いのに綺麗で。特にキラが「人間は久しいから」って言ったところで背筋が冷えたんだけど、そのあと柊斗がずっとついていくのが面白くて。 最後の「君自体がバグ」って台詞、ゾクゾクした…まだ1話なのに二人の関係性が尊いよ。続き気になる🖤
——大きな水族館。 誰もいない、広く薄暗い妙なほど清潔な空間。幅約40m、奥行き約30mはありそうな大水槽の前に柊斗は一人で立っていた。 水槽の中でジンベイザメがゆっくりと泳いでいる。
キラ
いつの間にか隣にいた。
柊斗
柊斗はちらりと隣を見た。さっきまで誰もいなかったはずの場所に、白い髪の少年が立っていた。いつからそこにいたのか、足音も気配もなかった。
柊斗
素っ気なく、しかし律儀に答えた。無表情のまま、水槽のガラスに右半身が薄く反射している。黒い髪が青い照明に染まって、どこか異質な色彩を放っていた。
大水槽の中では、ナンヨウマンタが翼を広げたように動いている。床まで届く青い光が、二人の足元を静かに揺らしていた。水族館特有の水圧が耳を押すような、あの独特の静寂——ポンプの微かな振動だけが空間を満たしている。
柊斗
柊斗の目が隣に立つ白髪の少年を改めて捉えた。奇妙な奴だ、と思った。気配がなさすぎる。それに——こんな場所で、一人。
キラ
柊斗からの質問には答えずキラは、後ろで手を組み後退しながら、また同じようなことを言った。
キラが一歩、また一歩と後退していく。柊斗はその動きを目で追いながら、少し考え込むように黙った。
柊斗
水槽のガラスに手を当てた。冷たい。右側から微かな霜がガラスの表面を這った。
柊斗
ジンベイザメがちょうどガラスの近くを通過した。柊斗の手の先、数十センチの距離を白い巨体がすり抜けていく。
青い光が脈打つように明滅した。水槽の奥でナンヨウマンタが影のように漂い、小さな魚の群れがその銀色の腹の下を縫うように泳いでいく。圧倒的な水量。ガラス越しに見える景色は、まるで海の断面をそのまま切り取ったようだった。
柊斗はガラスから手を離し、キラの方へ向き直った。後退を続けるその白い姿が、薄暗い空間の中で妙に浮いて見えた。
柊斗
柊斗は一歩、前に出た。キラは気にせず遠ざかり続ける。
柊斗
柊斗の瞳が、後退し続けるキラを真っ直ぐに射抜いた。
キラは無言のまますくっと笑い、くるっと体勢を変えて奥へ進んでいく。
キラの背中が青い闇の中に溶けていく。その足取りは迷いがなく、まるでこの水族館の構造を完全に把握しているかのようだった。
柊斗は一瞬、その場に残された。水槽のポンプ音だけが耳鳴りのように響いている。
柊斗
呟いて、けれど放っておく気にもなれなかった。あの笑い方。くるっと背を向けた瞬間の、犬歯がちらりと覗いた口元。普通の人間の笑い方じゃなかった。
柊斗は歩き出した。キラが消えた方角へ、大水槽沿いをなぞるように進む。途中、サンゴ礁コーナーや冷たい海コーナーの入口を通り過ぎた。ガラス越しに色とりどりの魚が泳いでいるが、柊斗は足を止める気にはならなかった。
やがて空気が変わった。温度が下がり、光が極端に減っていく。深海コーナーへの通路だ。足元のライトは最小限で、壁の案内板だけがぼんやりと「深海200m」と示していた。
その暗がりの先に、白い髪が見えた。柊斗は足を速めた。
柊斗
キラは足を止めなかった。 柊斗は更に足を速めた。暗闇の中で白い髪だけがぼんやりと浮かんでいる。追えば追うほど、キラとの距離が変わらない気がした。
柊斗
深海コーナーのエリアに入った。完全な暗闇。特殊な青色のLEDが足元を僅かに照らすだけで、視界がほぼゼロだった。柊斗は右目を軽く凝らした。 その暗闘の奥から、何かが光った。タカアシガニの長い脚が青い闇の中でシルエットを作り、ダイオウグソクムシが水槽の底でじっと蹲っている。生物に影響を与えない最小限の光量——人間にとってはほとんど何も見えないに等しい。
柊斗は立ち止まった。暗闇に目が慣れるまで数秒かかる。ようやくキラの輪郭が、深海水槽のガラスの前に浮かび上がった。
柊斗
柊斗はキラの方へ近づいた。青いLEDの光がキラの白い髪と肌を淡く照らしていて、その冷たい美しさに一瞬だけ足が止まった。 キラは振り向いた。だが足を止めない。またゆっくりと後退するようにしながら口を開く。
キラ
柊斗は片眉を上げた。暗闇の中で、キラの真っ黒な瞳がこちらを見据えている。生気を感じない顔。なのに口元だけが柔らかく弧を描いていて、その不均衡さが妙に引っかかった。 柊斗はキラへ、一歩。また一歩。距離を詰める。
柊斗
深海コーナーの最奥部。特殊な青色のLEDが、ちょうど二人の立つ位置を僅かに照らしていた。水槽の中ではダイオウグソクムシが微動だにせず、まるで化石のように沈んでいる。光のLEDの冷たい青がキラの白髪に反射して、まるで深海魚の鱗のように見えた。 柊斗はふと気づいた。この暗さの中で、キラはまるで見えているかのように正確に後退している。一度も壁にも、水槽にもぶつからない。
柊斗
キラ
質問が唐突だった。キラは相変わらず後退しながら、あの感情の読めない黒い目で柊斗を見ている。
柊斗
言ってから、自分の言葉に引っかかった。覚えてない。水族館に来た理由なんて、思い出そうとしても靄がかかったように曖昧だった。
柊斗
深海コーナーの青黒い闇の中で、柊斗の呟きは小さく反響した。タカアシガニの水槽が背後にあるはずだが、振り返っても何も見えない。ダイオウグソクムシだけが、至近距離の水槽でぼんやりとシルエットを浮かべている。
柊斗は足を止めた。記憶を辿ろうとするが、靄どころか——そもそも思い出せない。家を出た記憶。電車に乗った記憶。何も。
柊斗
キラの方を見た。暗闇の中、後退を続けるその白い輪郭。こいつは最初から答えを知っているような顔をしている。
キラはニッコリするでもなく、無表情で口を開く。
キラ
柊斗の思考が止まった。 建物。出口。入口。そのどれを辿っても、何も出てこない。霧の中に頭を突っ込んだような、あの空虚さ。
柊斗
自分の口から出た言葉に、柊斗自身が違和感を覚えていた。知らないはずがない。ここに来たのだから。でも——方法がない。歩いてきた道も、乗った電車も、何も。
青暗い光の中、ダイオウグソクムシが水槽の底でぴくりと触角を動かした。まるでこの会話を聞いているかのように。柊斗の右手が握り込まれた。無意識の警戒反応だった。
柊斗
声が低くなった。右手は既に臨戦態勢に近い。
柊斗
キラは無表情のまま、くすっと。答えずどんどんと奥へ進む。
キラが闇の奥へ溶けていく。白い髪が青黒い光の中を最後に一筋だけ見せて、それも消えた。柊斗の周囲には深海コーナー特有の重苦しい沈黙が降りた。
柊斗は舌打ちした。追うか、ここで待つか。判断は一瞬だった——追う。
深海コーナーを抜け、暗い通路を進む。足元に表示される「→ 発光生物コーナー」の案内灯が、唯一の道標だった。壁に手を当てながら進むと、不意に空気が変わった。完全な闇。目が慣れるまで何も見えない。
来たのは発光生物コーナーだった。光を完全に遮断した部屋。入った瞬間、外界の全ての光源が断たれ、一切の視界が奪われる。数秒後——闇の中に、ぽつぽつと緑と青の光の粒が浮かび始めた。
ヒカリキンメダイの群れだ。数千匹の発光魚が、頭上も足元も頭上も、全方位を取り囲むように舞っている。まるで深海の宇宙に放り出されたような光景。光の粒子が酸素を含んで明滅し、ゆっくりと形を変えながら漂い続けていた。
柊斗は息を呑んだ。綺麗だ、と素直に思った。が——すぐにキラの姿を探す。この光の中なら、あの白い髪は目立つはずだ。
いない。
柊斗
キラ
キラは柊斗のすぐ後ろにいた。顔を覗き込むように。
柊斗の心臓が跳ねた。 振り向いた瞬間、真っ黒な瞳が至近距離にあった。吐息がかかるほど近い。発光する粒子の光に照らされて、キラの顔は人間離れした冷たさを帯びていた。白い肌。白い髪。黒い目だけが底なしの穴みたいにこちらを見返している。
柊斗
柊斗は反射的に半歩下がった。右側の壁に背中がぶつかる。ヒカリキンメダイの緑と青の光の粒が、キラの周囲をゆっくりと旋回していた。数千の光点が白い髪に散って、まるで星屑を纏っているように見えた。
完全に暗闇を再現した部屋。唯一の光源は、魚たちの発光だけ。光が届きにくいため、数メートル先はもう闇。柊斗の壁に背を預けた距離は、キラとわずか数十センチしかなかった。 柊斗は壁に張り付いたまま、キラを睨み上げた。心拍が速い。驚きのせいだ。恐怖ではない。断じて。
柊斗
キラは柊斗からの睨みを一切気にしなかった。
キラ
人間。 その単語が柊斗の脳裏に引っかかった。柊斗の目が僅かに細まる。
この空間の暗闇は深かった。数メートル先はもう完全な闇。ヒカリキンメダイの群れが作る光の粒子だけが唯一の光源で、それすら魚の動きに合わせて流動的に形を変えていく。キラの白い髪と肌だけが、その光を吸い込んで仄かに浮かび上がっている。
柊斗
柊斗の声が低く、静かに響いた。冗談ではなく、本気の問いだった。暗闇とキラの存在が、柊斗の中で一つの結論を形作り始めていた。
キラは柊斗からの台詞に肩を竦めた。
キラ
はぐらかされた。また。 焦凍の苛立ちが、募る。
柊斗
柊斗は壁から背を離し、キラとの距離を詰めようとした。だがキラが後退しているのか、そもそも動いてすらいないのか、暗闘の中では判別がつかない。ヒカリキンメダイの粒子が間を漂い、キラの輪郭を曖昧に溶かしている。
発光生物コーナーの闇の中、空気が微かに揺れた。魚たちが一斉に方向を変え、キラの周囲を避けるように流れが変わる。本能的な回避行動だった。数千匹の発光魚が、まるでひとつの意思を持っているかのようにキラから離れていく。 柊斗はそれに気づいた。魚がこちらを避けている。いや——キラを避けている。
柊斗
キラ
質問に質問で返された。柊斗の眉間の皺が深くなった。 だがキラの声には敵意がなかった。むしろ、純粋な好奇心のような響きがあった。真っ黒な瞳が柊斗を見つめている。ヒカリキンメダイの粒子がキラの周囲だけを避けるように流れて、その顔だけが闇の中に浮かび上がっている。
柊斗
答える義理はなかった。だが、何故か口が勝手に動いた。この状況で名前を隠して意味があるとも思えなかった。 魚たちの発光が一瞬、揺らいだ。まるで柊斗の名前に呼応するかのように、粒子の群れがざわりと波打つ。
柊斗
キラ
柊斗
キラ。柊斗はその名前を口の中で転がした。 本名じゃねぇだろ、とは言わなかった。柊斗はフルネームで名乗ったのに、こいつは下の名前だけ。しかも「じゃあ」と前置きした。偽名を選ぶのに迷ったかのような間。 ヒカリキンメダイの群れが完全に左右に分かれ、キラと柊斗の間に一本の暗い道ができた。魚が避けている範囲を証明するかのように、キラの周囲半径約二メートルだけが完全な闇だった。
キラ
不思議な人。 今日二度目のその言葉。柊斗は小さく首を傾げた。
柊斗
柊斗はヒカリキンメダイの粒子が作る道の中に立ち、キラとの距離を詰める。一歩。もう一歩。キラが避けないなら、こっちから詰める。
柊斗
事実、キラが僅かに体の向きを変えるだけで、周囲の魚の密度が変わった。まるで磁石の同極を近づけたときのように、光の粒子が押しのけられていく。
近付いてくる柊斗にキラは不思議そうに首を傾げた。
キラ
柊斗も首を傾げた。反対側に。キラと同じように。
柊斗
完全な闇。ヒカリキンメダイの粒子はキラの周囲数メートルから完全に退避し、二人の間だけが真の暗黒だった。柊斗の視界からキラの姿が消えている。声の方向だけが頼りだった。
柊斗
柊斗は一歩近付いた。
柊斗
さらにもう一歩。
柊斗
近付いてくる柊斗にキラはぱちぱちと瞬き。
キラ
不思議な人。また同じ台詞。そしてキラは残りの一歩を詰めた。一歩どころか二歩。至近距離で顔を覗き込む。
キラ
近い。 またこの距離だ。キラの顔が柊斗の目の前にある。真っ黒な瞳が柊斗の両目を交互に見ている——右から左へ、左から右へ。品定めでもするように。 柊斗は瞬きひとつしなかった。キラの吐息が唇に触れるほどの距離。紅茶の匂いがした。こんな暗闇の中で、魚すら寄り付かない得体の知れない存在から、紅茶の香り。
柊斗
動かない。退かない。 キラが顔を覗き込んでくるなら、柊斗もそのまま見返した。柊斗は176cm。キラは170cm程度。身長差六センチ。柊斗が見下ろす形になる。
二人の間の空間が異様に濃密だった。ヒカリキンメダイが完全に退避した暗闇の中、柊斗の氷の粒子が二人の周囲だけを漂い、その微かな光がキラの顔を青白く照らしている。人形のような造形。睫毛の一本まで数えられそうな距離。
柊斗はキラの顔を見下ろしたまま、右手を伸ばした。キラの顔の横——耳元の空気を掴むように、冷気を纏った指先がキラの白い髪を一房、かすめた。
柊斗
髪に触れた指が感じたものは、あまりにも低かった。冷たいというよりも——温度がない。熱を吸い取るわけでもない、ただの虚無。 柊斗の指が止まった。
キラ
指をキラの髪から離さなかった。温度のない髪。いや温度がないんじゃない。温度という概念そのものを拒絶している。
柊斗
柊斗は指を離し、キラの瞳を覗き込んだ。覗き込むのはキラの癖だったが、今度は柊斗がやり返す番だった。
柊斗
断定だった。質問ではなく。
柊斗
柊斗は指折り数えるように事実を並べた。そんな柊斗の話をキラは聞いているのかいないのか、すっと手を伸ばし柊斗の頬に触れた。
キラ
頬に触れた指先は、何もなかった。
冷たいとか、温かくないとか、そういう次元の話ではない。触られている感覚すら希薄だった。なのに確かにキラの手が柊斗の頬にある。温度のない掌が、柊斗のの左頬に触れている。
柊斗は動かなかった。 心臓が跳ねたのは二度目だ。一度目は至近距離に現れた時。今度は違う。触れられて初めて実感した。こいつは人間じゃない。確信に変わった。
柊斗はキラの手首を掴み返した。反射的に。逃がさないように。
柊斗
掴んだ手首にも体温がなかった。脈もない。
キラは、また無表情のままくすっと笑った。柊斗に掴まれた手を気にせず歩き出す。
手首を掴んだまま、引きずられるように歩かされる。柊斗の方が。身長差六センチの相手に、腕一本で引かれている。
柊斗
キラの手首を掴んでいるのは柊斗の方だ。だがキラは気にしていない。掴まれた手をぶら下げたまま、暗闇の中をすたすたと歩いていく。迷いがない足取り。
二人は発光生物コーナーを抜け、次のエリアに入った。空気が変わる。温度が上がり、湿度が肌にまとわりつく。壁の案内板に「→ クラゲコーナー」の文字。そしてその手前——深海コーナーへの通路に差し掛かる。 光が一切ない。完全な闇。足元にすら光源がなかった。文字通り何も見えない空間。
——深海コーナー。 タカアシガニの長い脚が闇の中からぬっと突き出していた。ダイオウグソクムシの水槽が足元にある。暗闇の中、特殊な青色のLEDだけが水槽を照らしていて、深海の生物たちが微かにシルエットを浮かべている。
柊斗
キラの手首はまだ掴んだままだった。 不意にキラは口を開く。
キラ
2,500種。 柊斗はその数字を頭の中で反芻した。深海コーナーの青暗い光の中、ダイオウグソクムシが水槽の奥でぼんやりシルエットを浮かべている。
柊斗
皮肉ではなかった。純粋な感想だった。キラの手首を掴んだまま、柊斗は水槽に近づく。特殊な青色のLEDが焦凍の右半身と左目を照らした。
柊斗は水槽の前を通り過ぎながら、周囲を見回した。暗い。ヒカリキンメダイのエリアで見たのと同じ暗さ。だがキラはここでも迷いなく歩いている。やはり見えている——いや、そもそも目に見えるもので世界を捉えていない。
柊斗
柊斗の問いにキラは答えない。
キラ
柊斗の足が一瞬止まった。キラの手首を掴んだまま、青暗い光の中でキラの横顔を見た。
柊斗
水槽の中でダイオウグソクムシが微動だにしない。死んだように動かないその姿が、この会話の不穏な空気に妙に合っていた。
柊斗はキラの手首を少し引いた。立ち止まらせるように。
柊斗
キラは手を引かれたまま、シーラカンスの水槽前で止まり、そして掴まれていない手でガラスに触れた。
キラ
シーラカンスの水槽。特殊LEDの青暗い光の中、七対の鰭を持つ古代のままの姿を保った魚が、ゆっくりとひれを動かして漂っていた。生きている化石。数億年前から姿が変わっていない魚。
キラはガラスに触れている。柊斗に手首を掴まれたまま、もう片方の手で水槽に触れている。その姿が妙に絵になった。
柊斗
柊斗はシーラカンスを見た。変わらない。進化から取り残された存在。 深海コーナーの青暗い空間。特殊LEDが水槽の中をぼんやりと照らしている。タカアシガニの脚が洞窟のような水槽の奥に見え、ダイオウグソクムシが底で化石のように蹲っている。
そしてキラが撫でているシーラカンスの水槽。青白い光がキラの横顔を照らし、その真っ黒な瞳が水槽の中を見つめている——ように見せかけて、実はガラスに映った柊斗の方を見ているかもしれなかった。
柊斗はその視線に気づいた。ガラスの反射。水槽にキラの顔と焦凍の顔が並んで映っている。
柊斗
ガラスの反射越しにキラの黒い瞳が柊斗を捉えていた。指摘されて悪びれるでも言い訳するでもなくキラはまた歩き出す。
柊斗はまた引っ張られる。手首を掴んだまま歩いているのは自分のはずなのに、主導権は完全にキラにあった。
柊斗
キラは答えない。深海コーナーの青暗い通路を進んでいく。右に曲がり、左に曲がり。このエリアの構造を完全に把握している動きだった。
深海コーナーの奥に進むにつれ、光量がさらに減っていく。特殊LEDの青すら間引かれ、水槽の中のタカアシガニのシルエットが闇に沈んでいく。足音すら吸い込まれるような静寂。ポンプの低い振動だけが床から伝わってくる。 深海の水圧を再現した空間——人間の本能が潜在的恐怖を覚える暗さと静けさだった。
微かな光を反射して、通路の輪郭が浮かぶ。道は二手に分かれていた。 左は「→ クラゲコーナー」、右は「→ 淡水コーナー」。
キラはどちらでもない方向、通路の脇にある案内板すらない細い隙間に向かって歩き出した。
柊斗
通路の脇。壁に見えるその場所に、人ひとり通れるかどうかの隙間がある。案内板にも載っていない。柊斗は氷の粒子を隙間の中に放り込んだ。光が奥に吸い込まれるように消えていく。
柊斗
壁の隙間。案内板にない、パンフレットにも載っていない空間。人が通ることを前提にしていないような幅だった。だがキラは躊躇なくその細い裂け目に身を滑り込ませた。 柊斗はは渋々ついていった。肩が擦れる。キラの手首はまだ掴んでいる。離さない、というより、離したらまずいという直感があった。
隙間を抜けた先は、想定と違う場所だった。
小さな部屋だった。 水族館のどの案内板にも記載されていない隠し部屋。広さは六畳ほど。壁は全面ガラスで、その向こうに巨大な水槽が広がっている。水槽ではない——大水槽だ。最初に見た、あの幅40m奥行き30mの大水槽の裏側。
*ただし、このアングルから見る大水槽は別世界だった。ジンベイザメの腹が真上を通過していく。ナンヨウマンタの翼がすぐ目の前を横切っていく。巨大な口がガラスに手をついても届かない距離にある。客が正面から見る「表」の景色とは真逆の、裏側の断面。
柊斗 見上げた。大水槽の裏側から見る魚たちは、腹が上下逆で、遊泳方向が反転している。奇妙で、少し気持ち悪い。
柊斗
キラの手首を離した。離してから、しまった、と思った。
離された手を見て、キラは柊斗に手を差し伸べた。
キラ
柊斗は差し出された手を見た。白い、温度のない手。指が長く、関節が細い。 柊斗は眉を寄せた。その言葉の意味を咀嚼するのに数秒かかった。今いる場所。案内板にない隠し部屋。帰れるかどうか。
柊斗
大水槽の裏側から見上げる景色は圧巻だった。ジンベイザメの腹が真上をゆっくりと通過していく。巨大な口が裏側のガラスのすぐ向こうにある。あんな距離、普通なら水圧で潰されている。つまりこの部屋は——普通の空間ではない。
柊斗はみ渡した。六畳ほどの空間。壁面は全てガラス張りでその向こうに大水槽の内部が広がっている。足元は——床がなかった。正確には、床に見える部分が透けている。ガラス張りの床。見下ろせば、深い水の層が足元の遥か下に見えた。大水槽の底部だ。 柊斗は下を見た。 足元の遥か下、大水槽の底部に——何かがいた。巨大な影が、ゆっくりと動いている。
柊斗
視線をキラに戻した。差し出された手。掴め、と言っている。
柊斗
キラは問いにも答えず、手を掴むのも待たずに歩き出した。 キラが歩いていく。隠し部屋の奥へ。案内板にない方向へ。柊斗は舌打ちした。
柊斗
だがキラは振り返らない。ガラスの床が足元に透けている。その下の巨大な影に、柊斗の目が釘付けになった。
床のガラス越しに見える大水槽の底部。深度にして十数メートルは下。そこに——いた。ジンベイザメではない。もっと大きい。もっと原始的な何か。体長は優に10メートルを超えている。鱗のない、ぬるりとした灰色の肌。目がない。口が異常に大きい。尾びれが体の後端まで伸び、全身がゆっくりと脈動するように蠢いている。
ダイオウイカ——いや、それよりもっと古い何かが、大水槽の底部に佇んでいた。
柊斗は足を止めた。いや、止まった。
柊斗
ガラスの床の下から、目のない顔がゆっくりと上を向いた。こちらを見ている——のか。目がないのに。
柊斗
声が鋭くなった。恐怖ではない。断じて。断じて。
キラは足を止めて、また手を差し伸べた。
大水槽の底部で、目のない巨体がゆっくりとこちらを見上げている。ガラスの床一枚隔てて、あの巨大な口と柊斗が同じ空間にいる。 キラが手を差し出している。三度目。あの白い、温度のない手。 柊斗は一瞬だけ視線を落とした。ガラス越しに。あの巨体がぴくりと動いた。
脈動が変わった。底部のそれが、ゆっくりと方向を変えている。頭が——いや、顔のない頭部が、まっすぐ上を向いた。ガラスの床の直下。柊斗の足元、数メートル下。目のない顔の表面に、裂け目のような口が横一文字に走った。 ずん、と。 床のガラスに衝撃が走った。下から何かがぶつかった振動。柊斗の足元が微かに震える。
二度目の衝撃。今度はさっきより強い。ガラスに髪の毛ほどの亀裂が走った。
柊斗
柊斗はキラの手を掴んだ。迷いのない動作だった。キラの手はやはり冷たい。何も感じない。だが確かに握っている。
柊斗
キラは握られた手を無言で握り返し、歩き出した。 同時に三度目の衝撃が来た。 今度は段違いだった。ガラスの亀裂が蜘蛛の巣状に広がり、柊斗とキラの足元のガラスが軋んだ。底部のそれが、口を裂けるように開きながら浮上してくる。10メートルの巨体がゆっくりと、しかし確実に水中を上がってきている。
柊斗
四度目。 ガラスの亀裂が大きくなる。柊斗はキラの手を強く握った。
柊斗
だがキラはペースを変えなかった。同じ速度。同じ歩幅。焦りが一切ない。 鼻歌まで歌っている。 床のガラスに亀裂が走り、目のない化け物が突き上げてきているこの状況で、キラは鼻歌を歌っている。柊斗は信じられないものを見る目でキラの横顔を見た。
柊斗
五度目の衝撃。 ガラスが悲鳴を上げた。亀裂の端から水が滲み始めている。海水の匂いが足元から立ち昇る。底部のそれが、あと数メートルの位置まで浮上していた。あの巨大な口が、ゆっくりと開いていく。
柊斗
水の滲みが広がっていく。革靴の底に海水が触れた。 キラが向かっている先——隠し部屋の壁面に、小さな扉があった。案内板にもない、ドアノブすらない継ぎ目だけのパネル。キラは迷いなくその方向に歩いている。ガラスから水が足首まで浸かり始めた。
キラは、パネル前で足を止めた。振り向く。どこか淋しそうな顔。
キラ
柊斗
柊斗が反応する前に、キラはパネルを押した。目がやけるような光が二人を包み——
——柊斗が目を開けたときにはそこは自宅のベッドだった。一人。時刻は昼の13時。
天井を見上げた。 見慣れた天井だった。自分の部屋。自分のベッド。朝日が——いや、昼の光が窓から差し込んでいる。 柊斗はゆっくりと上体を起こした。右手が布団を握っている。掌が汗で湿っていた。
夢だ。いや、夢じゃない。右手の感触を覚えている。温度のない肌。白い髪。鼻歌を歌いながら床が浸水していく中で笑っていたあの顔。 ——バイバイ。 あの淋しそうな顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
柳田柊斗の部屋は簡素な学生の部屋だった。机の上には教科書が積まれ、壁には何かのメモが貼ってある。時計の針は午後13時を指している。平日の昼。学校がある時間帯。 柊斗は右手を見た。何もない。掌を開いて、閉じて。
柊斗
ベッドから出た。机の上に一枚の紙が置いてあった。見覚えのない紙。手に取ると、それは——水族館のパンフレットだった。表紙には広大な建物の外観と、各コーナーの紹介が載っている。
「ようこそ——世界最大級の海洋生物水族館へ」
柊斗はパンフレットを睨んだ。 館内マップが開かれた。あの通路、あのコーナー。全部載ってる。
「キラ」。あれは誰だったのか。
パンフレットの館内マップを広げた。指で各コーナーを辿る。 日本近海コーナー、外洋コーナー、サンゴ礁コーナー——あのヒカリキンメダイがいた発光生物コーナーは、サンゴ礁コーナーの隣にある。 深海コーナー。 あの隠し部屋に通じる通路があった場所だ。パンフレットには載っていない。隠し通路。その存在すら公式には存在しない。
柊斗はパンフレットを裏返した。最後の案内ページ。営業時間、アクセス、注意事項。その最下段に小さな文字。
「※館内ではぐれたお客様は、スタッフまでご連絡ください」
はぐれた。あの水族館には客がいなかった。スタッフは。誰もいなかった。キラと柊斗だけだった。
午後13時の陽光は平和で、日常的で、あまりにも普通だった。窓の外で鳥が鳴いている。隣の部屋からテレビの音が薄く漏れている。世界は何事もなく回っている。 柊斗はパンフレットを握ったまま立ち上がった。
柊斗
あの名前を口にした。偽名だと本人が認めた名前。 「じゃあ——キラで」
焦凍は靴を履き替えた。パンフレットをポケットにねじ込む。
柊斗
午後13時半。 柳田柊斗は家を出て電車に乗っていた。パンフレットに載っている住所を頼りに。 電車の中で、柊斗はパンフレットを何度も見返した。館内マップは詳細だった。入口から各コーナーを繋ぐ通路、水槽の配置、非常口の位置まで記載されている。だが——あの隠し部屋はどこにもなかった。通路の脇にある、あの壁の裂け目。案内板にない、パンフレットにも載っていない細い隙間。
電車の窓から外を見ながら、柊斗は考えていた。
キラは最初からおかしかった。気配がなかった。足音もなく隣に現れた。暗闇で正確に歩く。魚に避けられる。体温がない。脈がない。温度がない。 「じゃあ——キラで」 「君が久しぶりの人間」 「バイバイ」 淋しそうな顔。
電車が目的の駅に着いた。駅から徒歩10分。住宅街を抜けた先に、それはあった。 巨大な建物だった。パンフレットの写真より遥かに大きい。白い外壁に青いラインが入り、入口のアーチ型の屋根にはイルカのモニュメントが配置されている。「世界最大級の海洋生物水族館」の文字が、太陽の光を受けて輝いていた。
入口に立つ。自動ドアのガラスに柊斗の姿が映っている。 一歩踏み出した。 自動ドアが開く。冷気が頬を撫でた。水の匂い。薄暗い照明。既視感が全身を包んだ。
柊斗
パンフレットを握り締めて、柊斗は水族館の中へ足を踏み入れた。 水族館の内部は広大だった。パンフレットの説明通り、入口から見て正面に日本近海コーナーの入口があり、左右に各エリアへの通路が伸びている。天井は高くとられ、通路の壁面にも小型の水槽が埋め込まれていた。熱帯魚が緩やかに泳いでいる。
客は数人いた。カップルが日本近海コーナーでスマホを構え、小さな子供が母親にチンアナゴコーナーをねだっている。平和な水族館の日常。 ——だが、空気が違った。
柊斗は入口に立ったまま、周囲を見回した。明るい。あの暗さがない。人が普通にいる。普通の、当たり前の水族館。
パンフレットの館内マップを確認する。最初のエリアは日本近海コーナー。そこから外洋、サンゴ礁、深海と続いていく。 キラはいなかった。あの白い髪は、どこにも。
柊斗は日本近海コーナーに足を踏み入れた。相模湾を再現したエリア。アオザメ、イタチザメ、マイワシの群れが回遊している。青い水流の中を大きな魚が悠然と泳いでいく。家族連れが水槽を見上げている。
普通の、何の変哲もない水族館の光景だった。
外洋コーナーに入った。黒潮の海。ジンベエザメ。マンタ。巨大水槽——あの大水槽だ。40m幅、30m奥行き。最初に見たあの景色と同じ。
柊斗は水槽の前で足を止め、裏側を探った。ない。裏側に回る通路がない。ここは表だ。
柊斗
柊斗は考えた。 寝たら、会えた。ならまた眠ればいんじゃないか。 パンフレットの裏をもう一度見た。「※閉館後に館内を徘徊するのはおやめください。」その下に小さくもう一文——「何があっても当館管理人含め作業員は責任を一切取りません。」。
柊斗はトイレに向かった。閉館まで三時間。隠れる必要がある。
それから時間が経ち、午後16時半。 閉館のアナウンスが館内に響いた。残っていた客がぞろぞろと出口に向かっていく。カップルが名残惜しそうにイルカショーの写真を見返しながら退館し、母親が眠そうな子供の手を引いて出口に消えた。
午後17時。照明が落とされた。非常灯だけが通路を薄く照らしている。
午後17時半。清掃スタッフが最後の見回りを終え、通用口から退出した。セキュリティが正面玄関を施錠。監視カメラの赤いランプだけが点滅している。
——午後18時。完全な閉館。
男子トイレの個室。柊斗は便座の蓋を閉じてその上に座っていた。硬い。背中が痛い。もう二時間こうしている。 スマホを取り出した。午後18時。閉館から一時間。スタッフが完全にいなくなるまで、さらに待つ必要がある。
午後19時。 館内は完全な静寂に包まれていた。非常灯の薄い光だけが通路を照らし、水槽のポンプ音が建物全体に反響している。監視カメラの数は、パンフレットに記載されていた。正面入口に2台、各コーナーに1台ずつ。トイレ内には——ない。
柊斗はトイレを出た。薄暗い通路。非常灯の緑がかった光が足元を照らしている。人の気配はゼロ。 パンフレットの館内マップを広げた。あの隠し部屋。深海コーナーの脇にあった壁の隙間。そこから行けた。
深海コーナーへ向かう。
足音を殺す。革靴ではなくスニーカーを履いてきた。正解だった。タイルの床を踏む度に微かな反響が建物全体に響く。 深海コーナーの入口に辿り着いた。正規ルートは施錠されている。当然だ。閉館しているのだから。
柊斗は周囲を見回した。非常灯の光の中、深海コーナーへの通路は暗い。照明が完全に落とされている。
パンフレットを見る。深海コーナーの手前に、あの通路がある。あの「→ 深海コーナー」の案内灯があった場所。そしてその脇に——壁の隙間。 柊斗は案内灯の前まで来た。淡水コーナーと深海コーナーを繋ぐ通路。その脇の壁を手で探る。
——あった。
隙間。人ひとり通れるかどうかの裂け目。昼間なら見落とす程度の、壁の継ぎ目。だが非常灯の光の中では、その隙間が僅かに口を開けているのが見えた。
隙間に体を滑り込ませた。肩が壁に擦れる。狭い。暗い。非常灯の光が届かない。柊斗はスマホを開いた。微かな光を反射して、通路の奥が——
通路の奥が、完全な闇だった。昼間に入った時とは桁違いの暗さ。そして空気が変わった。湿度。温度。水の匂い。
柊斗
キラの手首を掴んだ時の感覚を思い出した。右手を開いて、閉じた。
隙間を抜けた先は、昼に入った時とは別の空間だった。
同じ通路。同じ壁。同じ案内灯。だが——何かが違う。非常灯すら消えている。柊斗のスマホの光が前方に散らばり、微かに光って空間を照らした。
深海コーナーの入口。正規ルート。閉まっているはずの扉が、薄く開いていた。
焦凍は扉に手をかけた。隙間から体を滑り込ませる。 ——暗い。 だが、ただの暗さじゃなかった。完全な闇。昼間に来た時は特殊LEDの青暗い光があった。今はそれすらない。深海そのものの暗さ。水深200mの再現。人間が本能的に恐怖を感じるあの暗さ。
タイルが水で濡れていた。
柊斗
足元に薄く水が張っている。靴底が浸かる程度。だが確かに、どこからか水が滲み出している。
深海コーナーの「表」の景色。 巨大な水槽が闇の中に聳えている。タカアシガニのシルエット。ダイオウグソクムシの水槽。だが水槽の向こう側に——あの隙間はない。壁がある。隠し部屋に通じる通路は、ここには存在しなかった。
柊斗は舌打ちした。違う。ここは深海コーナーの表だ。隠し部屋への通路は、深海コーナーの脇——あの通路。
柊斗は引き返した。隙間から元の通路に戻る。右に曲がり、左に曲がり——
足が止まった。
通路が、なかった。壁だった。行き止まり。さっきの隙間がない。壁しかない。継ぎ目すらない、のっぺりとした壁面。
柊斗
声に、僅かな焦り。 壁を拳で叩いた。硬い。冷たい。継ぎ目すらない。さっき確かにここに隙間があった。ここを通って、あの隠し部屋に辿り着いたはずだ。
柊斗
パンフレットを取り出した。非常灯の光すらない暗闇の中、スマホの光だけで館内マップを確認する。
館内マップには各コーナーの位置が正確に記載されている。深海コーナーの脇にあったあの通路。だがマップを見る限り、あの通路は「→ 深海コーナー」の案内灯があるだけの、ただの通路として描かれている。隠し部屋への記述はどこにもない。
柊斗はマップを睨みながら考えた。昼間、キラに手を引かれて通ったルート。深海コーナーから入って、右に曲がって左に曲がって、行き止まりの壁に隙間があった。
今、その道がない。
別ルートがあるのか。それとも条件があるのか。昼間と何が違うのか。 ——人。 昼間、この水族館にはキラと焦凍しかいなかった。今は柊斗だけ。スタッフもいない。本当に、完全に。
柊斗
焦凍は深海コーナーから離れ、別のルートを探し始めた。
日本近海コーナー、閉鎖。
淡水コーナー、閉鎖。
サンゴ礁コーナー、閉鎖。
ひとつも開いていない。 足元の水位が上がっていた。靴底が常に浸かっている状態から、足首に差し掛かった。水はゆっくりと、しかし確実に通路全体を侵食している。
柊斗
冷たい海コーナーの前を通った。ここも閉鎖。だが——扉の隙間から冷たい水が漏れ出していた。扉の隙間から。水が通路に流れ込んでいる元凶のひとつだ。
マングローブコーナー、閉鎖。 標本コーナー、閉鎖。 クラゲコーナー、閉鎖。 どこも扉は完全にロックされている。昼間とは構造そのものが違うとしか思えなかった。いや——構造は同じで、開いているべき扉が全て閉じている。まるで最初からそうなるように設計されていたかのように。
柊斗は足を止めた。足首まで水が来ている。冷たくて——いや、焦凍にとって問題は水温じゃない。この水は嫌な感じがした。ただの水じゃない。 ドーム型トンネル水槽の前を通った。ここも閉鎖。巨大な円蓋状の水槽の案内板が、暗闇の中でぼんやり光っている。
サメ・エイの海コーナー、閉鎖。
頭足類コーナー、閉鎖。
触れ合いコーナー、閉鎖。
全部閉まってる。
水位が膝に達した。
柊斗
水位が上がっていく。膝を越え、腰に差し掛かった。通路全体が水没し始めている。閉館後の水族館は巨大な水槽と化しつつあった。
柊斗は壁際に移動した。水を腰まで受けながら、柊斗は考えた。全部閉まってる。深海コーナーも、あの通路も、何もかも。昼間と違う。
何が足りない。
——キラがいない。それだけが違う。
冷たい海コーナーが近かった。扉の隙間から漏れていた水。今やその扉の隙間が広がり始めていた。
ぎぎ、と金属が軋む音が暗闇に響く。
柊斗は振り返った。冷たい海コーナーの扉が、ゆっくりと開いていく。中から冷気が溢れ出した。水と同じ冷たさ。だがもっと——深い。
扉が完全に開いた。
冷たい海コーナーは照明が点いていた。他のコーナーとは違う。青白い光が水没した通路に漏れ出し、足元の水面に反射して揺らめいている。
そして——冷気の中に、かすかに紅茶の香りが混じっていた。
柊斗
夢?でキラが顔を近づけてきた時に嗅いだ匂い。体温がない体からは出来ないはずの匂い。 柊斗は水を蹴立てて、冷たい海コーナーの入口に向かった。
冷たい海コーナーに足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。凍えるような冷気が肌を刺す。柊斗の息がわずかに白くなった。
コーナーは吹き抜けの巨大な水槽を中心に構成されていた。二階部分が存在する。螺旋状に上へ登る観覧通路と、その途中途中に設置された中小規模の水槽群。ペンギンのプール、アザラシの水槽、クリオネがひらひらと舞う円柱水槽。すべてが青白く照らされている。
そして——水没していた。 通路全体が。膝上どころか、腰近くまで水が来ている。 水が冷たい。この冷たさは海水じゃない。淡水だ。どこかから浸水している。天井の配管か、それとも——
焦凍は立ち止まった。
紅茶の香りが濃くなっている。このコーナーのどこかに、キラがいる。
ペンギンプールが目の前にあった。水面が凍りかけている。プールの縁に——何かが座っていた。
白い髪。白いシャツ。黒いスラックス。足をプールの水面に投げ出して、縁に腰掛けている。
柊斗の足が止まった。水を蹴る音が消えた。 ——いた。 キラがいた。ペンギンプールの縁に座って、水面に足を揺らしている。凍りかけた水面に、波紋が広がる。紅茶の香りが、そこから漂ってきていた。
柊斗
声が低い。怒りと安堵が混じった、妙な声だった。
キラが振り向いた。振り向いたキラの目が見開かれた。
キラ
柊斗は水を蹴立ててペンギンプールに近づいた。腰まで浸かった水が動きを鈍くする。 キラを見上げた。プールの縁に座っているキラは高い位置にいる。水面に足を垂らした白い脚。あの生気のない美しさが青白い光に照らされて、昼間よりさらに現実離れしていた。 柊斗はプールの縁に手をかけた。キラの隣。体勢を崩しかけたが、右手で縁を掴んで堪えた。縁に上半身を乗り出す形。キラとの距離が一気に縮まった。
柊斗
柊斗は息を整えながら、キラを睨んだ。
柊斗
柊斗の怒涛の様子にキラは瞬き二回。見下ろしたまま口を開く。ありえないもの、というより初めてみるものを見るような顔だった。
キラ
柊斗はプールの縁に肘をついて、キラの顔を見た。あの無表情。だがわずかに目が開いている。キラは驚いているのだ、これでも。
柊斗
柊斗はプールの縁によじ登った。腰から下が濡れている。水が滴るスラックスを手で払った。
プールの縁に並んで座る形になった。柊斗の濡れた右半身と、キラの乾いた白いシャツ。凍りかけたプールの表面が二人の足元で鏡のように光を反射している。奥で身を寄せ合ったペンギンたちが、微動だにしない。
柊斗は横を向いた。キラの横顔。青白い光が睫毛に影を落としている。絵になっているのが腹だたしい。 キラは見つめてくる柊斗に顔を向けた。
キラ
二度目の人は君が初めて。 その言葉が柊斗の頭の中で引っかかった。
柊斗
キラは答えずに足をぶらぶらと揺らしている。凍りかけた水面に波紋が広がる。
柊斗
冷たい海コーナーの青白い光が二人を照らしている。二階部分に設置された中規模の水槽が氷結した水面に映り込み、幻想的な光景を作り出していた。紅茶の香りがかすかに漂っている。水位が、さっきより僅かに上がった。
柊斗は足元を見た。水が縁に近づいている。このペースだと、あと数分でプール全体が再び水没する。
柊斗
視線をキラに戻した。相変わらず涼しげな生気のない顔。
柊斗
キラ
キラは縁から降り、立ち上がりながら言った。続ける。
この水は……ゲームで言うところのバグだよ。君が変な方法でまた来ちゃうから。
キラが立ち上がったその瞬間、足元の水面に張っていた薄氷がパリンと音を立てて割れた。
バグ。その言葉が静かな空間に響く。
冷たい海コーナー。クリオネやダンゴウオが小さな水槽で身を潜め、アザラシの水槽は静寂に包まれている。 本来なら涼しげで愛らしい生き物たちがいる場所。だが今のここは、ひどく冷たく、そして——崩壊の予兆を孕んでいるようだった。
柊斗
柊斗も立ち上がった。びしょ濡れの服が重い。
柊斗
真顔で謝った。皮肉ではない、本気だ。
柊斗
柊斗は奥で固まっているペンギンたちを見やった。動かない。先程からずっと。
柊斗
柊斗はぼんやりしているキラへ目を戻した。
柊斗
誠実だった。 そんな柊斗の台詞にキラは少し考えた。
キラ
細い指が、柊斗を真っ直ぐと指をさす。
キラ
柊斗はキラに指を差されたまま、瞬きをした。
柊斗
悪びれもしない。事実を述べるだけの声だった。
柊斗
柊斗は言葉を探すように視線を泳がせた。水面の光がキラの白い髪に反射して、まるでクリオネみたいに透けて見える。
柊斗
その通り。 本当は会えないはずだった。あの「バイバイ」で、本当にバイバイのはず。なのにこの少年は、自力でこの領域に来た。
遠くで、何かが崩れるような音がした。隣のコーナーの方角だった。
柊斗は崩落音の方を見てから、またキラに視線を戻した。
柊斗
柊斗が真っ直ぐにキラの黒い瞳を見た。同じく黒い目が暗がりの中でもはっきりと光っている。
キラは、ゆっくりと歩き出した。
キラ
キラが歩き出した。その足取りは迷いがない。凍りかけた水の上を、まるで水面を踏むことに何の抵抗もないかのように滑るように進んでいく。革靴が水を踏む音がしない。
閉館直前のアナウンス。 柊斗の記憶が巻き戻る。
あの時、館内放送の声が途中で歪んだ。 まるでスピーカーの奥で水が回っているような、くぐもった響き。そして最後に流れた一文は、通常の「またのお越しをお待ちしております」ではなかった気がする。何と言っていたか、うまく思い出せない。覚えているのは、背筋に走った妙な違和感だけだった。
柊斗はすぐにキラの後を追った。氷の壁がまた軋む。追いかける度に、水がくるぶしを掴むように纏わりつく。
柊斗
柊斗はキラの背中を見つめる。白いシャツに皺ひとつない。濡れてもいない。この空間の主だからか。
柊斗
足を止めなかった。キラとの距離を詰めながら。キラは足を止めずに肩越しに振り向いて柊斗を見た。
キラ
キッパリと言った。もう帰れないと。 柊斗の足が止まった。水がふくらはぎの辺りで揺れている。
柊斗
繰り返した。噛み砕くように。
それから、キラの背中に向かって歩みを再開した。水を蹴る音が通路に反響する。キラの足音は相変わらず無い。
柊斗
嘘ではなかった。柊斗自身も不思議なくらい、胸の中は凪いでいる。トイレの便器の上で三時間しゃがんでいた時の方がよっぽど辛かった。
柊斗
二人は冷たい海コーナーを抜け、緩やかに下る通路へ差し掛かった。壁面の案内板が青白い非常灯に照らされている。 矢印の先には「クラゲコーナー」と書かれていた。だがその文字が滲んでいる。水が上から伝い落ちて、インクのように案内板を侵食していた。
柊斗はキラに追いつき、横に並んだ。身長差はわずかだが、柊斗の方が少し高い。濡れた前髪が額に張り付いている。
柊斗
キラの横顔を見た。薄暗い通路で、その白い輪郭だけが妙にくっきりと浮かび上がっている。
柊斗
キラは柊斗を見た。何を言ってるんだと言いたげに首を傾げる。
キラ
キラの中に迷惑という感情はなかった。なぜか分からない。普通なら自分の領域に入ってこられ帰してやったのにまた自力で来られバグまで起こされたら腹が立つだろう。 だが不思議と、キラはこの少年のことが嫌じゃなかった。
柊斗はキラの顔をじっと見返した。
柊斗
視線を前へ向けた。水の中を歩き続ける。
柊斗
キラも前を向いた。変な人だと思った。言わなかったが。
案内板の「クラゲコーナー」という文字が、水に溶けて完全に崩れ落ちた。まるでその場所へ向かうことを拒絶するかのように。
通路が分岐していた。右へ行けばクラゲコーナー。左はさらに暗く、光の届かない場所——深海コーナーへと続いている。
キラが足を止めた。そして、当然のように左の深海コーナーへと向き直る。クラゲコーナーのある右側の通路からは、甘ったるいBGMの残骸のような音が微かに聞こえていたが、キラはそちらには見向きもしない。
柊斗もキラに倣って左の通路を見た。
柊斗
真っ暗な入り口。特殊な青色LEDの光だけが、深淵のような奥を薄らと照らしている。冷たい海コーナーよりもさらに空気が重く、そして静かだった。
柊斗
言いながらも、キラの後をついて深海コーナーへ足を踏み入れる。
キラ
柊斗は足を止めた。深海コーナーの真っ暗な入り口から、微かな冷気が漂ってくる。
柊斗
右側の通路——クラゲコーナーの方へ少しだけ視線を戻す。
柊斗
失礼だった。褒めているのか貶しているのか分からない。
キラ
柊斗は再びキラの方へ向き直る。
柊斗
深海コーナーへ足を踏み入れると、世界から完全に色が消えた。
水深200m以上の暗黒を再現したエリア。壁一面が黒く、特殊な青色LEDだけが頼りだ。通路のあちこちから漏れ出した水が足元を浸しているが、さっきまでの冷たい海コーナーのような殺伐とした冷気はない。代わりに、圧倒的な静寂と重圧があった。
柊斗は周りを見回した。暗さに目が慣れない。だが、紅茶の香りははっきりとここにある。
柊斗
柊斗は歩きながら、ふと視界の隅で光るものを見た。 「深海のプラネタリウム」と銘打たれた小部屋があった。
完全に光が遮断された水槽の中で、緑や青の小さな光の粒が無数に明滅している。ヒカリキンメダイの群れだ。魚の姿は見えず、ただ光だけが星空のように暗闇を漂っている。
焦凍はその水槽の前に立ち止まった。水没した床に反射して、光の粒が足元にまで広がっているように見える。
柊斗
柊斗は横に立つキラを見た。暗闇の中で、キラの白い髪と肌が、プラネタリウムの微かな光を反射して青白く浮かび上がっている。
柊斗
キラはゆっくり柊斗に顔を向けた。 瞬き三回。首を傾げる。
キラ
口説いてる。その言葉の意味を、柊斗は脳内で反芻する。
数秒の沈黙の後、柊斗は真顔で首を傾げ返した。
柊斗
言葉の裏をかくような気配は全くない。文字通りの疑問だった。だが、ふと水槽の光を反射するキラの黒い瞳を見て、少しだけ口角を上げた。
柊斗
キラ
深海のプラネタリウムの空間は、外から遮断されたように静かだった。
だが、その静寂は長くは続かなかった。
ゴウン……!
鈍い振動が、水没した床を下から突き上げた。水面に波紋が走り、プラネタリウムの小さな光たちが一瞬激しく乱舞する。
柊斗
柊斗は壁に手をついてバランスを取った。足元の水が膝下まで上がってきている。
柊斗
柊斗は壁から手を離し、キラに近づく。キラはよろめくこともなく立っていた。
柊斗
キラ
冗談を言いながら、キラは手を差し伸べた。あの時と同じように。白い、指先まで血の通っていないような、彫刻のような手。
柊斗は躊躇いなく、その手を掴んだ。
冷たい。 だが、嫌な冷たさじゃない。なんとなく。いやキラだから嫌じゃなかったのかもしれない。
柊斗
柊斗は握った手を軽く引いて、キラを自分の方へ寄せる。無意識に揺れから守るような体勢だった。
柊斗
キラの手を握ったまま、プラネタリウムの部屋を出て深海コーナーの通路へ戻る。
水が膝まで達していた。深海コーナーの暗い通路は、まるで本当の海底へ沈んでいくかのように水没していく。タカアシガニの巨大な水槽の前を通り過ぎる。長い脚が青いLEDの光の中で奇妙なシルエットを描いていた。 床下からの振動が断続的に続いている。どこかの水槽が割れたのか、遠くで大量の水が滝のように落ちる音が響いた。
繋いだ手から伝わるキラの体温——いや、体温の無さが、妙に心地よかった。
柊斗
柊斗は暗闇の中で、隣を歩くキラの横顔を盗み見る。
柊斗
バグで崩壊しつつある空間にいるというのに、柊斗の口調はただの深夜の館内デートを楽しんでいるかのようだった。
そんな柊斗を見て、キラは呆れたような感心したような表情をした。
キラ
柊斗は繋いだ手を少しだけ強く握った。
歩きながら、入り口でもらったパンフレットの記憶を引っ張り出す。
柊斗
前方に、深海コーナーの出口らしき明かりが見えてきた。
深海コーナーを抜けると、空気が一変した。
『サメ・エイの海コーナー』。 圧倒的なスケールだった。幅も奥行きもこれまでの水槽とは桁違い。頭上まで覆い被さるような巨大なアクリルガラスの向こうで、シロワニやアカシュモクザメが悠然と泳いでいる。
だが、ここもやはり異常だった。
本来なら水槽の中にいるはずのサメたちが、ひび割れたガラスの向こうで、水のない虚空を泳いでいる。逆に、観覧通路側——二人がいる場所は、完全に水没しつつあった。水はすでに腰の高さまで来ている。
柊斗は立ち止まり、頭上を泳ぐ巨大なシロワニを見上げた。
柊斗
独り言のように呟き、キラの手を引いて、通路の真ん中へ進む。