タクヤは、窓辺のテーブルに着いた。
品良く整えられた朝食。
安全については、メリルが小鳥で確認していた。
底なしの空腹。
しかし美味しそうと感じながらも、長く活動をとめていた身体が内側から食事を怖れている。
タクヤは、最初のスプーン一杯のコンソメスープを、時間をかけてなめるようにのみ込んでいった。
その水分と、塩気と、栄養が、身体を目覚めさせていく。
そしてタルトをひとかじりする。
バターの豊かな香りと苺のキラキラとした酸味が混ざり合って口に広がり、いよいよ生きていることを実感した。
ゆっくりと食事を進めるタクヤとはべつに、メリルはてきぱきと電話で各所に「王子お目覚め」の報告を始めた。
それはまるで、止まった王宮を目覚めさせていく滋養深いスープのよう。
そのうちの一つが城内の診療所だった。
事情を知ったドクターは「それはおめでたい。往診にうかがいます」と申し出てくれたが、メリルは「祈りが必要になるでしょうから」と伝え、タクヤ本人が訪ねるように話を進めた。
「タクヤ様、城内の診療所ですが、ご自身でむかわれるということでよろしいですね?」
「もちろん。自分の足で行ってみたい。身体を動かさなきゃだし、いろいろ見ると、思い出すこともあるかもしれないし」
「道をお忘れでしょうから、あとで地図をお描きしますね」
「おねがいします」
彼が食事を終え、シャワーをあびようと服を脱ぐと、初めて身体の異変に気がついた。
右足の後ろ側全体に、青い紋様のようなものが大きく浮き出ていた。
ゾッとして観察する。
一瞬迷ったが、医療行為までしてくれたメリルなら問題ないだろうと、下着姿のまま声をかけた。
「メリルさん、ちょっといい」
「なんですか?
「見て、これ。なんだろう、きもちわるい……」
タクヤの下肢を見たメリルは、硬い表情でうなずいた。
「聖印ですね。王家を継ぐものに現れる試練と聞きます。とりあえずそれも診療所の先生にご相談なさるとよろしいかと」
「もともとはなかったよね。眠っているうちにできたんだね。描かれたとかじゃないし、皮膚の凹凸もある。なんかこれ、龍の紋様に見えない?」
「ご自分で見るまで気がつかなかったということは、痛みなどはないのですか?」
「ぜんぜんないです。でも、あらためて見てみたら、ちょっとひどい。見てるだけでぐあい悪くなってくる」
「しっかりなさってください。診療所はここを降りて、バルコニーから庭園を通ってすぐですから」
「わかった」
タクヤがシャワーをあびている間に、メリルは地図を描いた。
タクヤは簡素な日常の服を着て、手書きの地図を受けとると、いよいよ一人で部屋を出た。
長い回廊をぬけ、バルコニーから、庭園の先の診療所の白い建物を見つけてホッとしたたところで、いきなり声をかけられた……
◆ ◆ ◆
「タクヤさまー、ご機嫌うるわしゅう!」
「あ、どうも……」
「朝からこんなところでタクヤ様とお会いできるなんて、ワタクシ、なんて幸運なことでしょう!」
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知らない女性との遭遇。
彼はとまどいを隠せなかった。
「あ、いや、幸運ってほどじゃないと思うけど」
「ね〜え、タクヤ様!」
「なに?」
「そんなに逃げなくても!」
「あ、いや、近いし」
彼はさらに一歩下がって、なんとか距離をキープした。
彼女は目を丸くして笑った。
「逃げると、おいたくなっちゃうわ」
「えっと、君は……?」
「あらいやだ、泣く子も黙るカリシア家ミルシードにございます。ミルシード・エス・ラ・カリシア」
彼女は礼儀正しく腰を下げた。
タクヤには心当たりはなかった。
「ミルシード?」
「そう。まさかお忘れですの?」
「いや……えっと、今日、ちょっと調子、悪くて。いろいろ忘れがちなんです、僕」
「なるほど。むしろ私の名前が思い出せないとあっては、真面目に心配になってしまいますわ。長くお眠りでしたものね。いつ、お目覚めに?」
「さ、さっき、かな……」
「なんと、まあ。そのニュース、もしかして、まだどなたもご存じないのでは?」
「それはどうだろう、秘書の人が、電話で連絡とかしていたし」
「でもでも、とびっきり新鮮なニュースであることにかわりありませんわ。わーお。で、どちらまで?」
「診療所……って言うの? ドクターに診てもらうことになってて」
「なるほど、そういうご事情ですのね。泣く子も黙るミルシードも納得いたしましたわ」
「ねえ、その『泣く子も黙る』って、なに?」
彼は疑問を素直に口にした。
その真正直ぶりに、ミルシードは手を口に当てて大笑いした。
「あらいやだ。ほっほっほ。美しすぎて、泣いている子も黙ってしまう、という意味に決まっているではございませんか。もう、タクヤ様ったら、ワタクシに本当のこと、言わせないでくださいまし!」
目鼻立ちのくっきりとした美少女のおふざけ。
ふと、彼の心を、何かが去来した。
なんだろう、この懐かしさ……
すると彼女は、放心している彼に、さらに顔を近寄せてきた。
「タクヤ様!」
「は、はい? ねえ、君、とりあえず顔近すぎない?」
「あのぉ、ちゃんと笑うべきところで笑ってくださらないと、ワタクシ、ただのバカみたいじゃございませんこと!」
「あ、ごめん。なにせ、自分、今日は、あれが、あれなもので、ははは」
「はいはい、お医者様ですわね、わかっておりますわ」
「そ、そうなんだ。診療所って、あれだよね?」
タクヤが指さす。
ミルシードは、ふと、首を傾げた。
「ああ……そうか。今は王宮の医療チームは誰もいませんものね」
「ん?」
「王の付き添いで外遊中だから。でも、考えようによっては、あの不気味な老人たちに診られるより、診療所の先生の方がずっといいかもしれませんわ。私もスベ先生には診てもらったことがあります」
「スベ先生?」
「スベリエ・ドクター。いい方ですわ。ねえ、ここの庭園って、ちょっと迷路っぽいの。ご案内いたしましょうか?」
彼女が腕をのばして先を指さすと、彼女の豊かな胸の豊かなふくらみが、黄色い生地を盛り上げて、彼の視線の前で強調された。
良いスタイル。美しい金髪。すっきりとした鼻のライン。
彼女は『美しすぎて』という形容を冗談として口にしたが、タクヤがすぐに笑えなかったのは、実際にとても美しい女性だったからだ。
「いや、もう大丈夫。自分で行くよ、ありがと」
「もうっ、今日はノリの悪いタクヤ様ですこと。別人みたい。まさに『深刻な寝起き状態』ね。あのね、私、本当のことを言いますと、すでに大遅刻なの」
「学校?」
「王宮内だから学習室ね。眼鏡の法学教師がいるの。『君、だれかが遅れると、もう一度最初から説明しなくてはなりません、わかりますか、時間の無駄なんですよ』って、ネチネチ怒られるの」
「それは大変そうだね」
「いちいちうるさいこと言わなくったっていいじゃない、どうせ数人かしか生徒いないんだし、って思いません?」
「ははは……」
「『ワタクシ、タクヤ様を診療所までご案内差し上げたものですから遅れてしまいました』という言い訳作り、したかったな……いじいじ」
「そんな言い訳を考えているより、授業があるなら、早く行ったほうがいいんじゃない?」
「おっしゃる通りね。でも、そうそう、ひとつ、ご提案。お昼、ご一緒しません? たとえば、そう、庭園の東、バラの広間で」
「バラの広間?」
「そう。いつも閑散としていて、もったいないですわ。咲きほこる花は、ちゃんと見てあげなくては。そうでしょ?」
「いちおう僕の予定については、秘書の人の確認が必要と思うけど……」
「でも、お昼くらいは、自由になされば?」
「ま、まあ、考えておくよ」
「よろしくお願いいたします。私、ダメ元で用意させますわ。だって、タクヤ様の好物については、もうバッチリ調査済みなんですもの」
美少女は目を輝かせてウィンクした。
タクヤは記憶を探る。
「僕の好物……なんだっけ?」
「ハンカチのフライと、モグラのお刺身ですわ」
「え……あれ……そ、そうだっけ……」
「あら、いやだ、冗談ですって。ほんと、今日のタクヤ様はノリがお悪いですわ。しっかりお医者様に診てもらってくださいませ」
「あ、はい……」
「でも……ここでお目にかかれてラッキーでした。お昼のことも、冗談ではなくてよ。こんな私でも、心配事はあるの。だって、最近、大人たちがヘンなんですもの」
「大人がヘン?」
「前からいろいろあるのは感じていましたが、最近、他国の政治家や企業関係者まで王宮に出入りして、なにやらビジネスの相談」
「悪いことなの?」
「悪巧み以外のなにがありまして?」
「は、はあ……」
「私、心配です」
タクヤは苦笑した。王宮の道順すら憶えていないのに、そんな心配事はとても理解できない。
それでも彼が記憶のなにがしかを探ろうとしていると、ミルシードは彼の肩をポンポンと叩いた。
「私、すでに大遅刻。お昼のこと、忘れないでくださいまいし。では、またのちほど!」
彼女は上品に腰を下げて、はずむように去っていった。
タクヤは、ホッとした。
美しいけど、疲れるミルシード。
彼女のことは思い出せないけど、それはべつにいいか……