――オレは屯所を脱け出すその前に、そっと彼等に別れを告げる。
女神に妹よ……。彼女達の寝顔を眺めながら、オレは物思いに暫し浸る。
決意が鈍った訳ではない。
朝目覚めてオレの姿が見えなかったら、二人の心境は如何に?
やはり悲しむのだろうか?
特に泣き虫であるアカネは、きっとヒステリックに泣き叫ぶに違いない。
それを思うと……な。中々踵を返し難いというもの。
死に不安や恐怖も、ましてや生に未練も無い。全てを受け入れる覚悟は、この世に産まれ落ちた瞬間とうに出来ている。
だが彼女達を絶つのは悔いは残る。
「……済まんな」
オレは全てを振り切って、既に内臓をやられたよたつく足取りで、彼女等の元から立ち去った。
途中はずれ者の寝顔を素通りしたが、まあコイツには特に感慨に耽る間も無いだろう。
コイツが居れば二人は大丈夫だ。
そう確信しているからこそ、掛ける言葉は要らない信頼の証なのだ。
一言――『世話になった』と、心の中で言っておいた。コイツにはこれで充分。
冥王やミーノスにも立ち寄ろうかと思ったが、下手に歩き回って起き出されたら堪らない。
特に断腸の思いでもないが、残った未練を振り切って屯所の裏口から、そっと外へと出ていった。
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外へ一歩脚を踏み出すと、心地好い夜風が頬を撫でた。
見上げた夜空には満天の星々。
良いシチュエーションだ……。
星を眺めながら眠るのも悪くない。
オレはロマンチックでセンチメンタルエボリューションな猫だからな。
最期でも決して悲観せず、華のある最期を飾らんとするのが、オレ様ほし様の雄猫道。
そうと決まれば善は急げ。
今生の別れは既に済ませた。最早振り返るまい。
最期に目指すは命尽きる前に山頂へ。
まあ山頂という程大袈裟な山でもないが、屯所は山のふもとに位置するからな。
山頂まで歩いてほんの十分少々。この状態では倍は見積もらねばならんのが玉に傷。
まあいい……。
死出への旅路と思えばそれも一興か。
今は滅多に車も通らぬ、街灯も一切無いアスファルトで舗装された山道を、オレはがむしゃらに頂きへと目指して突き進んだ。
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――貴公等はもう気付いたであろう?
……その通りだ。オレの肉体は既に、この世には存在せぬ。
貴公等が今まさに目にしている、この優雅な毛並みを持つ高貴な猫の姿は、オレのアストラルボディ――即ち“星幽体”なのだ。
オレの全盛期をイメージしておる。傷処か染み一つなかろう?
『ほし様は幽霊だったのですね……』――近いが少し違う。これはオレの念体。精神体と云っていい。
だが、それも現世で維持するには時間が迫っておる。
そう――夜明けまでだ。
ヴァンパイアではないが、星幽体として活動出来るのは夜のみと決まっておるのだ。
ホレ、昼間に幽霊とか聞かんだろ?
だからこそ貴公等に遺しておきたかったのだ。この偉大なる猫の生き様を、存在が消える夜明けまでにな……。
オレの遺体は見晴らしの良い山頂で、既に土に還っておる。
だが、どうしても後世に伝えたくてな。波長が合う者を此処に呼び寄せたという訳だ。
今更ながらよく来てくれた。礼は言わぬが、ここは素直に喜んでおこう。
これまで貴公等が見て、感じてきたのは、オレの念導力が産み出した“ホログラフィー”によるもの。
――どうだ? 現実と見違えた程であろう?
分かっておる。そう褒めずとも崇めなくとも、オレに不可能は無い。
『こんなのって無いよ!』
『ほし様は無敵だと――永遠だと信じてたのに!』
まあそう言うな。貴公等の言いたい事も分からんではない。それ程までに貴公等がオレに抱く印象が鮮烈、かつ崇高だったという事なのだからな……。
だが生きとし生ける者、すべからくそれは訪れるのだ。オレとて例外ではない。
必ず終わりは迎える。だが決して変わらぬものがある。
『それって何ですか?』
『死んだら……全て終わりじゃないですか!』
そう慌てるでない。貴公等もまだまだ青いな……。
確かにそうだ。死は全ての綺麗事を濁流に押し流し、呑み込む。死の前では命等、本当にちっぽけな花火のようだと気付かされる。
だが死して尚、変わらぬもの――
それは確かにオレは『ほし』として、この世界を生きる証として存在していたという事。
女神――彼等はそのかけがえのないものをオレに与えてくれた。
肉体は滅びても、その魂は決して朽ちる事はない――って感じか?
死は全ての終わりではなく、新たなる始まりなのだ。
――ここでほし様御得意の『急遽御話脱線』といこう。
着いて来れぬ者は去れ――と何時もなら言う所だが、最早抜き差しならぬ所まできたのだ。強制的に着いてきて貰おうか。
さて……貴公等は『虹の橋』を知っているかね?
そうレインボーだ。マン・オン・ザ・シルバーマウンテン。即ち“銀嶺の覇者”――とまあ、今はそんな事はどうでもいい。
どうでもいいが、ブラックモアは良いぞ。これもはずれ者からの影響か……。
全く奴の“洋モノ”好きには参る……。この期に及んでまでオレを影響させたのだからな。
――とまあ、雨上がりに空に架かるアレだ。
これこそ正に自然が生んだ芸術。オレは虹を見るのがとかく好きでな。
雨上がりはよく外へ飛び出し、その後消えるまで虹を眺めていたものだ……。
まあ虹の橋は虹の橋でも、オレが言いたいのは現世の虹の橋ではない。
そう……死後の代物の事だ。
主人が死を迎えると真っ白な道を通り、其処を抜けると虹の架け橋が在る。
その前には生前のペット達が主人を待っているのだ。
そして主人と共に虹の架け橋を渡り、死出への旅路を案内する。
――とまあ、これは人間特有の創作だがね。
人間にとってペットとはスピリチュアルパートナーだからな。
人間同士の結婚といった、生活や種の存続といった類いではなく、ペットの存在は精神の拠り所的な節が大きい。
失ったペット達への哀しみを和らげる為、何時かまた必ず逢えるという死後の希望的逸話――。
……オレは論理的主義猫だ。そんなもん実際在る訳なかろう。
死んで実際行ったら在りました――ならまだしも、実際死んだらそれで終わりで伝える術は無く、死んだ先は死んだ者にしか分からん。
オレも星幽体として現世に留まってはおるが、その先は分からんのだ。伝えようがない。
天国でも地獄でもなく――
“死んだら無に還る”
本当の意味ではそれが正しいのだろう。
だがな……実はこの虹の橋の逸話、オレは嫌いではないのだ。