「もうちょっとこっち向いて弾いて」
ライブ前リハーサルの休憩中、大森の小さく呟いた声がスタジオ内に響いた。その声に合わせてピタッと藤澤のキーボードの音が止まる。
「…いいじゃん、別に」
藤澤がむくれた声で言う。
その視線は相変わらず鍵盤に落とされたままだ。
「だめ」
ボーカルマイクの前から大森が歩いてくる。
「俺のために弾いてんだろ?」
「そ、それはそうだけど…」
「じゃあ俺の方、向いててよ」
不意に背後に来られて、藤澤は肩をびくっと震わせる。
大森はそのまま藤澤が座っている椅子の横にしゃがんでこちらを覗き込んでくる。
「ちょ、ちょっと近すぎない?」
「あー…この角度だと、涼ちゃんのまつげが見える」
「は?」
エアコンの低い音が聞こえる
「まつ毛長い。目の形きれい。耳赤い」
「うるさいっ……!」
藤澤は思わず目を逸らす。が、鍵盤の上に置いたままの手を大森がそっと包み込んだ。
「俺、音だけじゃ足りない」
「…っ」
「顔も、目も、息も、手も。涼ちゃんのこと、全部見てないと歌えない」
どこまで本気なのか。
甘い声で囁かれるたび、胸の奥がくすぐったくなって
ー音がうまく鳴らなくなる。
「そんなんじゃ、まともに弾けないよ」
「それがいいんじゃん」
にやりと笑って、大森が藤澤の手を自分の頬に寄せた。
「…このまま、今夜中ずっと、練習しよっか」
「….!っ、バカ」
それでも、鍵盤の上に置かれた大森の手が温かくて、
藤澤は何も言い返せなかった。
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