「……あっ!」
はあはあと荒い息遣いが聞こえる。
「あぁん!……んんっ!」
……誰?誰の声?
「あん♡いいっ!……もっと!もっとしてぇ!」
……私?私の声なの?
「ほら!これが好きなんだろ?もっとおねだりしろよ!」
腕を掴まれ、後ろから突かれる。
男の顔はよく見えない。
激しく腰を打ちつける音と共に、快楽に歪む淫らな笑顔の自分。それを遠くで眺める人影が見える。
……宏章?
まるで穢れたモノを見るかの如く、軽蔑の眼差しでその光景を眺めていた。
……いや!宏章!私を見ないで!
急に視界が真っ暗になり、画面が切り替わった。
「いや‼︎やめて‼︎」
「うるせぇ!静かにしろ!」
服を脱がされ、男三人に取り囲まれる。
抵抗するもあっさり取り押さえられて、後ろ手に縛られ髪を掴まれた。強く口唇を押し当てられ、唾液が喉奥まで流れ込んだ。
「うっ!……くっ……!」
……いや!苦しい!誰か!誰か助けて!
さくらはハッと目を覚ました。
……夢?
ゆっくりと体を起こし、辺りを見渡す。隣には穏やかな顔で宏章が眠っていた。
……綺麗な顔。
目を閉じた宏章の顔は、パーツの美しさが際立っていた。夢の中の自分の姿とは正反対の、清らかな姿。
さくらは安堵したのも束の間、みるみる吐き気を催した。
「……っ!」
塩苦いものが込み上げ、両手で口元を抑える。
宏章を起こさないように静かに立ち上がり、そっと寝室のドアを閉めてトイレに駆け込んだ。
ドアの隙間から漏れる明かりで、宏章は目を覚ました。
ふと横を見ると、隣で寝ていたはずのさくらの姿がなく、宏章は不安に駆られて体を起こした。
ドアの向こうから、水を流す音が聞こえる。
宏章は心配になり、さくらの後を追った。
さくらは吐き終えて、洗面台で口をゆすいでいた。
渦を巻いて排水口に流れていく水を、虚ろな目で眺める。
……どうしてこんな夢を見たの?
未だに忘れる事が出来ない……AV女優だった頃、最も辛かった時期の撮影だ。
鏡に映る自分に、そっと手を触れた。
あの時と同じ、不安で一杯の弱々しい姿。
しばらく鏡の前で立ち尽くしていると、洗面所のドアが開き、宏章が心配そうに声をかけた。
「さくら、大丈夫か?」
さくらは夢見の悪さにげっそりと青白い顔をしていたが、吐いたおかげで気分は幾分か落ち着いていた。
「……ごめん、起こしちゃったね」
宏章は首を横に振った。
「水持って来ようか?あ、でも飲めそう?」
宏章がオロオロ尋ねる。
その姿に心が和んで、さくらはふっと吹き出した。
「大丈夫、ありがと。夜ちょっと食べ過ぎたかな?吐いたら少しスッキリしたし」
今日で妊娠9週6日。
それは遡る事、一か月前の出来事。
宏章と二人で「リカーショップときわ」を継いでから、早いものであっという間に一か月が経過していた。
冬が過ぎて、春の訪れを感じる暖かな午後。さくらはいつものように店番をしていた。
「ふわ〜ぁ……」
……またあくびしちゃった、今日何度目だろ?
さくらは瞼を擦り、ため息をつく。
「さくら、今日めっちゃあくびしてない?大丈夫?」
宏章が尋ねた。
「ん〜……ここんとこやたら眠くて……。夜ちゃんと寝てるのに……。春だからかなぁ?」
「疲れてるんじゃないのか?さくらは頑張りすぎるから……もうすぐ海音が配達から帰ってくるし、今日はもう休んでなよ」
宏章はさくらの頭に手を置いて、心配そうに顔を覗き込んだ。
さくらは目を閉じて、そっとキスをする。
「こら!さくら……ここ店だよ」
宏章が照れながら苦笑いした。
顔を近づけられると、つい条件反射でキスしちゃう。私の悪い癖だ。
「口唇、いつもより熱い……熱あんのかな?」
宏章がさくらの額にそっと手を当てた。
「そういえば胃がむかむかして食欲もないんだよね……なんかだるいし……一応熱測ってみる」
さくらはレジ脇の棚に置かれた救急箱から体温計を取り出して、脇に挟んだ。
ピピっと鳴って、体温を確認する。
宏章がどう?と横から覗いた。
「37度1分。熱はないけど、いつもよりちょっと高いかも。お言葉に甘えて、今日はもう休もうかな」
さくらは済まなそうに笑って、レジ周りを片付け始めた。
「あ、いいよ。俺やっとく。今日は俺が飯作るからゆっくり寝てな。海音が戻ってきたら俺も上がるから」
「ありがと……じゃあお願いね」
さくらはゆったりとした足取りで、気怠そうに店舗裏の自宅へと戻った。
「ふわ〜……」
迫り来る睡魔に抗えず、大きなあくびをしてソファに横たわる。
……なんだろう?そろそろ生理でも来るのかな?てか、生理いつ来るんだろう?
スマホに手を伸ばして、生理管理アプリを開く。
約一か月前に十数年ぶりの生理が来た。
久しぶりの生理は、それはもうブルーの連続だった。
長いこと避妊リングでコントロールしていたため、すっかりあの感覚を忘れていた。月のモノは地獄の日々と言っても過言ではない程だ。
下腹部の鈍い痛みと吐き気、煩わしさと不快感。そして五日間の禁欲生活。
……ああ、またあのブルーデイがやってくるのか。
さくらはがっくりと項垂れた。
……それにしても生理前って、こんなに眠くなるものなの?
よく耳にするバイオリズムに伴う症状に似ているが、ここまでとは。
アプリのカレンダーを確認して、日付をカウントしてみる。
……あれ?今日で40日?ちょっと長いな……でも、そもそも生理周期とか分かんないや。
スマホを伏せて、目を閉じた。
ふと、妊娠の二文字が頭を過ぎる。
……もしかして?いや、まさか……そんなすぐに妊娠なんて……。
さくらは起き上がって、手を横に振っていやいやとひとりジェスチャーしてみた。
……でも前回の生理が終わってから、ほぼ毎日エッチしてるんだよなぁ。
……まさか、まさかね。
と、言いつつそっと自宅を出て徒歩数分のドラッグストアへ向かった。
恐る恐る妊娠検査薬を手に取り、会計を済ませて足早に自宅へと戻る。
深呼吸してからいざトイレへ!
箱から検査薬を取り出して、説明書の通りに検査して待つ事数分。
ドキドキしながら検査薬を眺めていると、青い線がじわじわと浮かび上がった。
どんどん濃く、はっきりとした一本の線になる。
慌ててボトムを履いてトイレから出ると、タイミングよく宏章が店から戻ってきた。
「ただいまー!さくら、大丈夫……」
「宏章!」
さくらは勢いよく宏章の胸に飛び込んだ。
「おわっ!びっくりした……さくら……?」
さくらは肩を振るわせながら、宏章の胸で嗚咽を漏らしていた。
「ちょっ!さくら……どうしたの?」
さくらがあまりに激しく泣きじゃくるものだから、宏章は体を離して顔を覗き込んだ。
さくらは震える手で、宏章の前に妊娠検査薬を差し出した。
「ううっ!どうしよう……夢じゃないよね……?」
「……」
宏章が無反応なので、さくらは不思議に思い顔を上げた。
宏章は驚きからしばらく固まっていたが、次第に目を潤ませ、さくらをぎゅっと抱きしめた。
「……さくら、愛してる!」
さくらは宏章の背中に腕を回し、涙を流しながら微笑んだ。
「私も……」
あの喜びの日から一か月、明日で10週。
三か月の半ばを迎える。
日中、強い眠気に襲われて横になる事はあったが、幸いな事につわりも軽く、いつもと変わらない日常を送れていた。だが体調とは裏腹に、少しずつメンタルが不安定になっていた。
「明日も早いし、戻ろ……」
さくらは宏章の手を引いて、寝室へ戻った。
フレームを背にベッドに座ると、宏章がさくらの背中を優しくさすった。
「本当に大丈夫か?」
宏章は心配そうにさくらを見つめた。
その顔を見るなり、さくらの目から涙が溢れ、嗚咽を漏らした。
「さくら……」
宏章はさくらを抱きしめた。
宏章の温もりが伝わると、心が安らぎ次第に気持ちが落ち着いた。
「ごめんね……、ちょっと怖い夢見ちゃって。妊娠初期で、ナーバスになってるだけだから……」
「……」
宏章は何も言えず、ただ抱きしめる事しか出来なかった。
さくらはまだ見た目は変わらなくても、体の中ではもの凄いスピードで変化が起きている。それに伴って、男の自分には分からない不快感や不便さに精神が不安定になっているのだろう。それだけは充分に伝わっていた。
「宏章……私がおばあちゃんになっても、ずっと好きでいてくれる?」
唐突な質問に、宏章は目を丸くした。
そんな質問をするさくらが可愛らしくて、思わず笑ってしまった。
「当たり前だろ?そんな心配するなよ」
「うう……だって不安なんだもん!これから体もどんどん変わってくし、歳も取ってくし……」
さくらは大きな瞳に涙を溜めて、子どもの様にめそめそしながら上目遣いで訴えかけた。
自分でも何が不安なのかよく分からない。
漠然とした不安の正体が分からなくて、怖いというより悲しかった。
「さくら……さくらがおばあちゃんになるなら、俺もおじいちゃんになるんだけど……しかも俺の方が歳上だし。さくらは俺がじいさんになっても、好きでいてくれるの?」
「……」
……言われてみれば、確かにそうだ。
さくらはしばし固まった後、ふふっと笑い宏章にしがみ付いた。
「当たり前じゃない」
複雑に絡み合った言葉に出来ない不安感を、宏章はいつも紐解いて受け入れてくれる。
……宏章と結婚して良かった。
さくらが笑った。
……良かった、いつもの笑顔だ。
宏章は安堵した。
そして二人はそのまま抱き合って眠りについた。
翌朝、さくらは店に立ちいつも通り元気に仕事をこなした。昨晩の事もあり、宏章は心配から何度も休む様に促した。だがさくらは頑として首を縦に振らず、終いには「しつこい!」と怒られてしまった。
午後、さくらはいつもの様に出掛ける支度をし始めた。さくらは店番を宏章か海音に託し、ほぼ毎日の様に美智子の見舞いに病院まで出向いていたのだ。
「それじゃ、行ってくるから!後よろしくね」
さくらは宏章のオデッセイに乗り込み、颯爽と出掛けて行った。
宏章はさくらを見送ると、ひとりため息をついた。
……もう!なんでああも頑固なんだか。
こちらの心配をよそに笑顔のさくらに安堵しつつも、その頑固さに頭を抱えた。
さくらは病院に着いて受付を済ませると、美智子の病室をノックして顔を覗かせた。
「あら、さっちゃん!来たのね」
さくらの姿を見るなり、美智子は嬉しそうに声を弾ませた。
さくらはベッド脇の椅子に腰掛け、サイドテーブルに頼まれていた荷物をそっと置いた。
「いつもありがとねぇ。身重なんだから、荷物は宏章に任せてくれていいのよ」
美智子の笑顔を見た途端、さくらはみるみる涙が溢れ出て泣き出してしまった。
「……宏章と、ケンカでもした?」
美智子が静かに尋ねる。
さくらは首を横に振った。
「違うの……、昨日怖い夢見て……。ビデオに出てた頃の夢。ビデオに出た事、後悔してる訳じゃないの……。私は何を言われても平気。でもこの子は、周りにどう思われるの?それを考えると怖いの……。この子も私の事、きっと軽蔑する。……私みたいなのが、母親になって本当にいいのかな?」
うっ……ひっく!……ひっく!
さくらのしゃくり上げて泣きじゃくる声が部屋に響く。
美智子は暫く黙った後、さくらのお腹にそっと手を当てた。
「それを決められるのは、この子だけよ」
さくらは鼻をすすりながら、お腹に視線を向けた。
「ここまで来たら、いいも悪いもないの!宿した瞬間から、さっちゃんはもう母親なのよ。どうしたって過去は変えられないんだから、開き直って生きていくしかないじゃない。それにね、生まれたらもう目の前の小さな命を生かすことに必死で、そんな事考える余裕なんて無くなるわよ」
過去は変えられなくても、乗り越えていく事は出来る。それはいつだって、自分次第。
美智子の言葉で、さくらの不安はみるみる解れていった。さくらは涙を拭い、美智子へ笑顔を見せた。
「お母さん、ありがとう……。周りに何を言われようと、私が絶対にこの子を守るって覚悟を決めてたはずなのに……。弱っちゃって、まだまだダメだね……」
美智子は穏やかな表情で、さくらの背中にそっと手を添えた。
「どんなに覚悟を決めてたって、実際その時になってみないと分からない事だらけよ。人間なんて、そんなものよ」
……お母さんはいつもそうだ。私の弱さを受け入れて、優しく包んでくれる。
「私、お母さんみたいなママになりたいな……。そうなれる様に、頑張るよ」
「誰かの様になるなんて、そんな事思わなくていいの。さっちゃんは、さっちゃんなんだから」
美智子はにっこりと微笑んで、さくらの両手を握った。美智子の手の温もりが体中に伝わり、さくらの心に優しく広がる。さくらはいつの間にか、自然と穏やかに微笑んでいた。
「それから、もっと宏章に頼りなさい。夫婦なんだから。もっとこうして欲しいとか、不安だとか怖いんだって言ってもいいのよ。宏章だって、それぐらいは受け止められるわよ。宏章もこれから父親になるんだから。さっちゃんの事が心配なのに、どうする事も出来なくて、きっともどかしいんじゃないかしらね」
ふと、昨晩の心配そうにオロオロする宏章の顔が浮かんだ。
さくらは穏やかに笑った。
「そうだね……」
「ただいまー!」
美智子の見舞いから戻り、さくらは満面の笑みで宏章に声をかけた。
午前中とは打って変わってすっかり顔色も良くなり、心なしか表情も明るくなっていた。
宏章は安堵して、一息ついた。
……やっぱりお袋には敵わないな。
「さくら、明日定休日だし、俺がお袋の見舞い行って来るよ」
「え?」
「さくらに任せっきりで、最近お袋の顔見てないし。明日は俺が様子見てくるよ」
さくらはふと考え込んだ。
美智子だってきっと宏章の顔が見たいだろう。たった一人の息子なんだから。
「分かった、じゃあ明日は宏章に任せてお家でゆっくりしようかな。色々とやりたい事もあるし。お母さんもきっと宏章の顔見たいだろうしね」
「俺が来るよりさくらが来た方が、何倍も喜ぶだろうけどね」
宏章はやれやれと苦笑いした。
「そんな事ないよ、親子なんだから。顔見せてあげて」
そう言って笑顔を見せるさくらに微笑みかけて、宏章はまた仕事へ戻った。
翌日の午後、宏章はひとり美智子の病室へ向かった。
「あら、あんたが一人で来るなんて珍しい事!」
美智子は宏章をみるなり目を丸くした。
宏章が一人で来るのはだいぶ久しぶりだ。結婚してからは、いつもさくら一人か夫婦二人で訪れていた。
「今日は編み物に集中したいらしいよ。お袋に教わったブランケット作るの進めたいんだって」
「あらそう。さっちゃんは器用だからねぇ。どんなのが出来るか楽しみだわ」
笑顔で声を弾ませる美智子を見て、宏章は安堵した。
さくらが見舞いに来る様になってから、美智子は以前にも増して明るく、パワフルさに拍車がかかった。二人は相性が良く、それこそ実の親子以上の仲だった。まだ出会って間もないのに、なんだかお互いに昔から知っていたかのような……まるでソウルメイトのようだ。
宏章はベッドサイドの椅子に腰掛けて、美智子へ語りかけた。
「さくら、ここ最近元気なかったんだ。ちょっと不安定になったりして……でも昨日お袋の所から帰ってきたら、表情が明るくなってて安心したよ。お袋がいてくれて、本当に良かった」
美智子は少し間を置いて、確かな口調で話し出した。
「宏章、あんたがもっとしっかりしなさい。もうすぐ私はいなくなるんだから」
うっすらと口元に笑みを浮かべて、まっすぐに宏章を見つめた。
宏章は目を伏せた。
自分に残された時間はあと僅か。美智子はもうすでに運命を受け入れている。宏章は美智子の目を直視する事が出来ずに、思わず窓の外に視線を移した。
「……そんな事言うなよ」
宏章は声を振り絞って、微かな声で答えた。
「あんたがさっちゃんと一緒になってくれて、本当に良かった」
「え?」
思いがけない美智子の言葉に、宏章は驚いて振り返った。
「二人で初めて会いに来てくれた時、さっちゃんが『昔の仕事』の事を打ち明けてくれたの。私は先にいなくなるんだから、隠しておく事も出来たのに……とても誠実な人だと思った。私と宏章を好奇の目に晒してしまうかもしれない、だけどそれでも宏章の側に居たいんだって。あの頃宏章が自分の事を支えてくれたから、今度は自分が支えたいって涙ながらに言うのよ。その姿がとても健気で……なんて可愛いんだろうって。その時に心から安心したの。宏章は心から愛し合える人に出会えたのねって」
美智子は穏やかな笑みを浮かべた。
「宏章、あんたがさっちゃんと生まれてくる子をしっかり守るのよ」
宏章は真っ直ぐに美智子の目を見て、悲しげに笑った。
「分かってるよ」
風に吹かれて、青葉が舞い落ちる。
新緑の時が過ぎ、季節はもうじき初夏へと移り変わろうとしていた。
ゆっくりと、でも確実に時が流れてゆく。
……俺が必ず、さくらと生まれてくる子を守るから。
……だからあと少し……もう少しだけ、俺とさくらの側にいてくれ。
宏章が帰った後、美智子は窓の外を眺めていた。
「宏章が産まれた日は、とても寒い朝だったわね……」
美智子は目を閉じる。
宏章が産まれた朝……どんなに時が経過しても、あの日の事は今でも鮮明に思い出せる。
長い間不妊に悩み、何度も流産を繰り返してやっと授かった。喜びも束の間、酷いつわりに苦しんだ妊娠初期。中期には切迫早産で入院を余儀無くされた。一日たりとも、安心できる日は無かった。
そうしてようやく迎えた出産の日。
長時間の陣痛に耐え、気力と体力の限界を迎えたその時、最後の力を振り絞っていきんだ。
「おめでとう!元気な男の子ですよ!」
先生が産まれたての、胎脂にまみれた赤ん坊を胸の上に乗せた。
腕を伸ばし、そっと我が子に触れる。
まだ生暖かい、ぐにゃりとした頼りない小さな身体……それとは真逆の、始まりを告げる力強い産声と、手の平に感じる生命の重み。
自然と涙が溢れ出た。
「……産まれてきてくれて、ありがとう」
あれから41年。
あの小さな赤ちゃんが、もうすぐ父になる。
美智子は空に向かって亡き夫、鉄雄に語りかけた。
「お父さん、宏章がもうすぐ父親になるのよ。あの小さな赤ん坊だった宏章が……信じられないわね。さっちゃんは驚くほど私に似ていて……娘が出来たみたいよ。それか気の合う女友達が出来たみたいで、とても嬉しいの。だからあともう少しだけ、二人の側にいさせて……。もういつでもお父さんの所に行けると思っていたのに……。欲が出てきちゃってね。この目で二人の子どもを見てみたい。孫をこの手で抱いて、あの世でお父さんにその温もりを伝えるまで何とか生きたい。それを見届けるまで、待っていてね……てっちゃん」
「ただいま」
宏章は帰宅して声を掛けるが、家の中はしんと静まり返っていた。
そっとリビングを覗くと、さくらがソファですやすやと寝息を立てていた。西日が後光のようにさくらを照らして、より一層透明感と美しさを際立たせた。宏章はしゃがみ込んで、天使のような愛らしい寝顔をしばらく眺めていたが、ふと床に落ちた編みかけのブランケットに気付いた。
透かし編みのブランケットを手に取る。
淡いピンクの生地に花模様が浮かぶ、繊細で美しいデザインだ。
「……ん」
さくらがゆっくりと瞼を開いた。
「ごめん、起こしたね。もう少し寝てたら?」
「ん……もう起きる……宏章、いつ帰ってきたの?」
「今帰ったとこだよ。お袋、元気そうで良かった」
「……ゆっくり話せた?」
「ああ……」
小さな子どもが抱っこをせがむように、さくらが腕を広げた。宏章はさくらを抱きしめる。
「ブランケット、かなり進んだね」
「うん!もうすぐ完成」
さくらはパッと体を離し、宏章にブランケットを広げて見せた。
「これ、桜の柄?すげー……」
「そう!よく出来てるでしょ?」
「さくらは本当に器用だな、これは赤ちゃんのおくるみ?」
「違うよ、これはお母さんにあげるの!もうすぐ誕生日でしょ?」
ちょうど一週間後の6月4日は、美智子の誕生日だ。
「俺は花でも買ってやろうかな。子どもの頃、親父の手伝いして貰った小遣いで花買って渡したら、すげー喜んでたんだ。思い出したよ」
「4日、ちょうど定休日だよ。一緒に行こうね!」
「ああ……」
無邪気な笑顔を見せるさくらをまた抱きしめる。
宏章の腕の中で、さくらがぽつりと呟いた。
「早くお母さんに、赤ちゃん見せたいな……」
「……そうだな」
腕に抱いたさくらの温もりが、幼い頃の懐かしい記憶を呼び覚ます。
「母ちゃん、誕生日おめでとう!」
幼い宏章の小さな手に握られた、一輪の美しいトルコ桔梗。宏章の手を両手で包み込み、そっと受け取る美智子の幸せな笑顔。
「宏章……ありがとう」
美智子の手の温もりが、小さな体いっぱいに広がる優しい記憶。
……さくら、ありがとう。
……大切な事を、想い出させてくれてありがとう。
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