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18週3日、妊娠5か月の半ばを過ぎた。
今日は約四週間ぶりの妊婦健診。
午後の妊婦健診を前に、夫婦で近所に新しくできたイタリアンへ足を運んだ。
彩りよく盛られた夏野菜のペペロンチーノを前にして、さくらが目を輝かせた。
「んー♡おいしー!宏章のも美味しそうだね!」
「ん、食べる?」
宏章がボロネーゼをフォークにくるりと巻いて、さくらの口元に近づける。
さくらは身を乗り出してフォークをぱくっと咥え、幸せいっぱいに身悶えた。
「こっちも美味しー♡」
「しっかし……よく食うなぁ……そのパスタ、結構量多くない?」
「だってお腹空くんだもん!安定期入ったらなんでも美味しくって困っちゃう!」
「さくらは本当に美味しそうに食べるよな、可愛くてずっと見てられるよ。あ、デザートも食べる?」
「ダメ!誘惑しないで!この後検診だった!」
……うう……スイーツも食べたい!でも……我慢我慢!
……食べられないと思うと余計に食べたくなっちゃう!
メニューにはキラキラ宝石箱みたいな甘いスイーツがたくさん!可愛い小悪魔達の誘惑をかわし、カフェラテをテイクアウトして店を出た。
「あっつ!」
日差しが容赦なく肌を突き刺して、思わず声が出てしまった。
足元から立ち昇る蒸気と照り返しにたじろいで、バッグから急いで日傘を取り出した。
「俺が持つよ、梅雨明けた途端毎日あっついな……」
「ほんとにね!お腹も苦しくてこの暑さが堪えるよ。夏の妊婦、地味につらい……」
さくらは息苦しさにため息をついた。
まだお腹の膨らみは目立たないが、日に日に胃が迫り上げられて、近頃は息切れと圧迫感に悩まされ始めていた。
「さくら、こっち」
日傘からはみ出ないように、宏章がさくらの肩を寄せる。さくらは宏章の腕に絡みついて、顔を見上げた。
「こうしてゆっくりデートできるのも今だけだね……赤ちゃん産まれたら、しばらくお預けだもんね」
「産まれてくるのは楽しみだけど……少し寂しくはなるな」
「子どもが大きくなったら、また二人でいろんな所行こうね!」
「そうだな、これからはずっと一緒だしな。死ぬまで」
二人は車へ乗り込む。
宏章の運転で病院へ向かった。
さくらは助手席の窓から、スピードに乗って次々切り替わる街の景色を眺めた。
……ああ、私やっと熊本に来れたんだね。
愛しいひとの生まれた街で、新しい命と共に生きてゆく。
……本当に、本当に夢みたいだよ。
昔願っていた「普通の」幸せが、今はこの手の中にある。十三年前には想像もつかなかった……。
昔よりもずっと強くなった。
今はただ守られるばかりじゃない、私が宏章と赤ちゃんを……この地で出会った大切な人達との幸せな日常を守り抜く。
さくらはお腹に触れて、ゆっくり瞼を閉じた。
「さくら、着いたよ」
宏章の声で目を覚ました。
車内の快適さに、いつの間にか眠ってしまった。
目を開けると、宏章が優しい笑顔で顔を覗き込んでいた。
「気持ち良さそうに眠ってたから、もう少し寝かせてあげたかったんだけど……」
「ありがと……行こっか。今日は久しぶりの検診だもん、早く一緒に赤ちゃん見たいな」
車から降りて、二人は手を繋いだ。
楽しげな足取りでバッグにつけたマタニティマークを揺らしながら、病院までの短い道のりを歩いて行く。
「性別、もしかしたら今日の検診で分かるかも!楽しみだなー!どっちかなぁ?ねぇ!宏章はどっちがいいの?」
「んー……そうだなぁ、恋奈と愛奈見てたら女の子って可愛いし……でも一緒にサッカーとかしたいし男の子もいいな!……うん、でもやっぱり無事元気に生まれて来てくれれば、どっちでもいいかな」
姪っ子の恋奈と愛奈はすっかり宏章に夢中だ。
えりちゃんとビデオ通話でお喋りしていると、必ず割り込んできて宏章と話したがる。
宏章も二人の愛くるしさにもうデレデレ。
二人の背後から、やきもきしながらチラチラ映り込むお兄ちゃんの姿がなんだかとっても微笑ましい。
……パパからしたら、女の子ってすっごく可愛いんだろうなぁ。
……男の子ってどんな感じかな?ママっ子っぽい感じできっと可愛いだろうなぁ、ミニ宏章。
なんて、ひとり妄想を膨らませクスッと笑った。
「そうだね。でも宏章に似るといいな!」
「えぇ⁉︎俺はさくらに似た方がいいと思うけど……」
「だって宏章の目元、大好きなんだもん!お母さん譲りの綺麗な目」
そう、宏章はお母さんそっくりだ。
とくにその目元。
美しい切れ長の瞼に、長い睫毛。そして、見る人の心奥深くまで映し出す深い眼差し。
初めて宏章と結ばれた日、私はその美しい瞳の虜になった。私がそれまで見てきた何よりも、美しいものだったから。
病院まで続く街路樹の隙間を、風が通り抜けた。ゆらゆら揺れる木影の間に、太陽光が柔らかく差し込む。
眩しさから、さくらが目を閉じた。
ある日の記憶が脳裏に浮かぶ。
美智子の病室に、一枚の古い写真が飾られている。
サイドテーブルに置かれた写真立てに目が留まり、さくらが美智子へ尋ねた。
「これ、お母さんの若い頃?」
涼しげな目元の端正な顔立ちの女性が、真っ直ぐに強い視線を投げかける。
艶めく黒髪のロングヘア、色白の肌に黒曜石のような瞳が映える。同じ瞳をした幼い男の子を腕に抱いて、たおやかな笑みを浮かべていた。
「そうよ。宏章が三つの頃かしら?お父さんが撮ってくれたお気に入りの一枚なの」
「うわぁ!お母さんすっごく綺麗!時代劇に出てくる女優さんみたいだよ!」
「まあ!ありがとう。今はこんなに老けちゃったけど、私も昔はそれなりだったのよ」
美智子は誇らしげな顔で笑った。
「うん!本当に美人だね!色っぽいし!宏章も超可愛い!」
「そうなのよ、この頃の宏章はすごく可愛くてねぇ…今ではもうすっかりおじさんだけどね!」
さくらは声を出して笑った後、穏やかに写真の二人を眺めた。
「赤ちゃん、宏章に似るといいな……」
「あら!どちらに似たって我が子なら可愛いわよ」
「そうだけど……だって二人とも、瞳がとてもキレイ……」
この瞳の輝きを、どうか受け継いで欲しい。
さくらは尊い存在に祈りを捧げるように、写真の二人に触れた。
「遺伝って不思議よね、必ずどちらの面影も感じるもの。宏章は昔私にそっくりだったけど、今はお父さんによく似てる。あなた達の子は、きっと一目で二人の子だと感じるわよ。私も見れるといいんだけど……」
「見れるよ……必ず見てね、約束だよ……」
さくらは美智子の手を取って、小指を絡ませた。
「そうね……」
美智子が目を閉じる。
記憶と入れ替わるように、さくらが目を開いた。
「さくら?」
宏章がさくらの方へ振り返った。
「なんでもない……行こっか」
二人は再び歩き出す。
お母さんを初めて見た時、宏章は紛れもなくこの女性から生まれたんだと思った。
宏章を見ていると、お母さんの存在を感じる。
私はこの遺伝子を繋げたい。
お母さんが生きた証を、この世に遺したい。
繋いだ生命を、その目に、記憶に焼き付けて……。
どうか、無事元気で産まれてきて。
☆
「斎藤さん、どうぞ」
看護師に促され、二人で診察室へ入った。
「こんにちは、あら今日はご主人も一緒なのね!医師の峰です。話で聞いてた通り素敵な方ね」
産科医の峰先生がにこやかに声をかけた。峰先生はベテランの女医で、地元で人気の産科医だ。
さくらは高齢出産ということもあり、美智子が入院している総合病院の産科を選択した。
産院は迷うことなく決まった。設備の整った総合病院ということはもちろん、大切な母の美智子に一番に赤ちゃんを見てもらいたい……その為だ。
検診の帰りにはいつも必ず美智子の病室へ寄って、エコー写真を見せながら赤ちゃんの様子を報告していた。
「はい!今日は定休日なので一緒に赤ちゃん見たくて」
さくらは満面の笑みで椅子に腰掛けた。
初期の頃は幸いな事につわりはなかったが、だるさで横になったり、感情がゆらいだりと不安定な日が続いていた。ようやく安定期に入り、だいぶ体調は落ち着いた。日に日にお腹も膨らみ始め、最近はマタニティライフを楽しむ余裕も出てきた。
宏章は緊張した面持ちで、勝手も分からずだた棒立ちしていた。そんな宏章の様子に峰先生がクスッと微笑んだ。
「ご主人はこちらへどうぞ。じゃあ一緒に赤ちゃん見てもらいましょうか」
看護師が椅子を差し出し、宏章へ座るように促した。さくらは診察台に横たわり、手慣れた様子でトップスをまくり上げる。
膨らみ始めたお腹に機械が触れて、モニターに胎内が映し出された。
その神秘的な映像に、宏章は息を呑んだ。
真っ暗闇のなかで渦巻く、ゆらゆら揺れる白い影。その姿はまるで銀河のようだ。くぐもった水音の奥から聞こえる、力強い胎児の鼓動。
宏章はかつてさくらが女優だった頃に演じた戦隊モノのヒロイン、「光神ルキア」を思い出した。
「光神ルキア」は大日如来をモチーフにしたキャラクターだ。
宇宙そのものを表す神仏、すべての生命の根源。
宏章は胎内にその姿をリンクさせた。
「ここが目、お鼻、お口……あらお鼻高くて綺麗ね。パパ似かしら?」
峰先生が胎児の顔のパーツをひとつひとつ丁寧に説明する。初めはただの影だった映像が「人間」として認識された時、改めて我が子を授かったという実感が湧いた。
さくらに視線を向けると、慈愛に満ちた表情でモニターに映る我が子を見つめていた。もうすっかり母の顔だ。
さくらが突然、思い出した様に先生へ尋ねた。
「そうだ!もう性別って分かりますか?」
「ああ!そうね、今日はパパも一緒だしね。見てみましょうか。今日は見せてくれるかしら?」
峰先生がお腹の上で機械をぐるりと一周させたその時。
「あっ!」
さくらが声を上げた。
「えっ?」
宏章は驚いてエコーを凝視した。
パカっと開いた両足から覗く、小さなシンボル。
さくらは目をぱちくりさせて、しばらくエコー画面を食い入るように眺めた。
「あら、ママが一番先に気づいたのね。今日はしっかり足を広げて見せてくれてるわよ」
峰先生はクスクス笑いながら、ばっちり映ったシンボルを撮影した。
「はい、男の子ですね」
思わず笑みが溢れる。
……あなたは男の子なのね、私たちの可愛い赤ちゃん!
エコー写真を手渡され、二人は顔を見合わせて微笑みあった。
☆
「えー!男の子だったんだ!」
ビデオ通話の画面越しに、英里奈が驚いた表情を見せた。
「うん!そうなの!もーばっちり映っててね!性別が分かったらなんかすっごく実感が湧いてきて。これでお洋服も選べるし、ほんと楽しみ!」
「男の子だと比較的早く分かるっていうもんね!さくらちゃんと宏章さんの子なら、どっちに似てもきっとイケメンだよ。わたしも楽しみ!」
さくらと英里奈がきゃっきゃと声を弾ませていると、部屋をノックして雅高が入ってきた。
「英里奈、話し終わったらちょっと代わって」
「あ、いいよ。さくらちゃん、雅高が代われって」
珍しく雅高が代われというので、英里奈は空気を読んで席を外した。
英里奈が部屋を出ていき、雅高が画面の前に座り込んだ。さくらと目が合うと、いつもの穏やかな口調で話し出した。
「話盛り上がってる所悪かったな。さくら、体調は大丈夫か?」
「ううん。体調も安定してるよ。お兄ちゃんも元気そうで良かった!それより珍しいね、どうしたの?」
さくらは無邪気に笑った。
顔色も良く元気そうなさくらの姿に安心すると、雅高は神妙な面持ちで本題を切り出した。
「さくら、里帰りはしないって母さんから聞いたよ。それなら母さんが産後しばらくそっちに滞在したらどうかなってさ」
さくらは驚きから、言葉を詰まらせた。
さくらは体調が落ち着き始めた妊娠四か月の頃、両親に電話で妊娠した事を報告していた。
二人は開口一番「おめでとう」と娘へ伝えた。新しい生命を授かり幸せそうな娘の姿に安堵したようで、声のトーンからは慶びが滲み出ていた。
さくらは内心、両親の反応が不安だった。
自分の過去の事で、子どもはもしかしたら反対されるかもしれないと思っていたからだ。
両親の心からの祝福に、さくらは安堵した。
当然のように里帰り出産をするものだと思われていたので、両親……特に母の遥子から里帰り出産を勧められていた。だがさくらの意思は固く、熊本での出産を譲らなかった。
さくらはしばらく黙ったあと、気まずそうに口を開いた。
「わざわざ来てもらわなくても……ひとりでやれるよ。宏章もいるし」
「だけど宏章さんだってお店もあるだろ?もちろんそっちの都合もあるだろうから、そこは宏章さんと話し合って貰いたいんだけど……」
どうして急に……?
さくらは胸がざわついた。
お母さんに会いたくないわけじゃない。実際、来てもらえたらものすごく助かるだろう。
ただ、離れて過ごしていた時間があまりにも長すぎた。さくらは母とどう接していいのか分からなかった。と同時に、何を今更?という気持ちが少なからずあった。
守られたい。
褒められたい。
無条件に愛されたい。
幼いころ両親に求めていたもの。だけど無条件には与えてもらえなかったもの。
結婚してから宏章が両親との間に入ることで、一見関係がスムーズになったかのように思えた。
だが実際は愛憎入り混じった複雑な感情が、今でもどこかさくらの心に潜んでいたのだ。
「お兄ちゃん……、その……お母さんの事が嫌な訳じゃないの。でも……やっぱりまだどこか気まずくて……打ち解けるには、もう少し時間が必要なのかも……」
「そっか……そうだよな、悪かった。……ただな、男の俺が言うのもなんだけど、産後はさくらが思ってる以上に大変だぞ?もちろん宏章さんがサポートしてくれるだろうけど、体の負担だって大きいし、そこはどうしても代わってやれないから……。だから人の手は沢山あった方がいいと思うんだ」
雅高は心配そうにさくらへ語りかけた。
おそらく両親……それもきっとお母さんが言い出したのだろう。お兄ちゃんはお母さんと私を気遣って、間に入ってくれている。また板挟みにしてしまった……。
「さくら……母さんは多分、お前に何かしてやりたいんだと思うよ。お前に今更だと思われるのも承知で。だからさ、この機会に本音をぶつけてみたらどうだ?その上で、素直に甘えてもいいんじゃないか?」
「……」
「俺も父さんもみんな心配してるけど……母さんは特に、お前の事心配してるよ……」
「宏章と話してみるよ……」
「そうだな、まだ時間はあるから宏章さんともよく相談して。体大事にしろよ、それじゃあ」
さくらは困惑した表情のまま、電話を切った。
一階のリビングへ降りると、宏章がソファーに腰掛けて雑誌をパラパラとめくっていた。背中からは楽しげな雰囲気が漂っていた。
さくらは宏章の肩に手を置いて、背後から覗き込んだ。
「宏章、何見てるの?」
「ん?ああ……たまごクラブ。これから色々揃えていかないとだし……。性別も分かったから、名前も考えてやんないとな」
宏章はニコニコしながら雑誌の傍に置かれたエコー写真を眺めていた。病院から帰った後も、一日中ずっと嬉しそうにしていた。
「……さっき久しぶりにお兄ちゃんと電話で話したよ」
「え?雅高くん?元気だった?」
宏章が振り返る。
「うん……」
「それで、何て?」
さくらは宏章の横に座り、言いづらそうにしながら話を切り出した。
「宏章……あのね、お兄ちゃんが里帰り出産しないのなら、お母さんにこっちに来てもらったらどうかって言うの……」
「え?本当?それなら良かった!俺もその方がいいんじゃないかって思ってたんだよ。遥子さんに来てもらえたら心強いなって。ただやっぱり遠いし色々大変だろうから、なかなか言い出しづらかったんだけど……遥子さんがそう言ってくれてるならすごく有難いよ!」
「大丈夫だよ!私ひとりでやれるよ!」
さくらは咄嗟に大きな声を出した。
「あ……ごめんね……大きな声出して……えりちゃんと話してたら、珍しくお兄ちゃんが代わってくれって言うから……何事かと思えば深刻そうに言ってきて……大丈夫だって言ったのに……お兄ちゃんってば本当に心配性なんだから」
さくらは困った顔で笑った。
宏章はさくらの肩に手を置いて、真剣な眼差しで語りかけた。
「さくら……一人で頑張ろうとするなよ、俺がいるだろ?頼りないかもしれないけど、俺だって父親になるんだから……それに、俺たち二人だけじゃない。お義父さんとお義母さんにとっても、大切な孫だろ?みんな、家族なんだから……」
さくらはハッとした。
……そうだ、結婚する時に二人で頑張るって誓ったんだ。大事な事、忘れかけてたね。
「そうだよね……ごめん」
宏章の背中にそっと手を回し、胸に顔をうずめた。
目を閉じて、穏やかな鼓動を感じる。
……あったかい……宏章の心臓のおと……落ち着く。
「宏章……あのね……、お母さんとどう接していいのか分からないの……甘え方、とっくの昔に忘れちゃった。だからいきなり甘えてもいいって言われても、どうしていいのか分からなくて……。お母さんが嫌なんじゃなくて、ただ気持ちの整理がつかないだけなの……だから……少し考える時間もらえないかな?」
さくらは胸の内を正直に宏章へ打ち明けた。
宏章はさくらを包み込むように抱きしめる。
さくらは二十歳の時に家を出てからずっと、誰にも頼らずに生きてきた。たった一人で、大きなものを背負って。
本当は誰よりも一番、誰かに素直に甘えたいと思っているのに。
さくらは宏章がこれまで出会った人間の中で一番強くて、誰よりも脆い。そしてその強さを心から尊敬していて、その脆さを誰よりも一番愛している。
「さくら……」
呼ぶ声に、さくらは宏章を見上げた。
宏章は優しい眼差しで微笑みかけて、両手でさくらの顔を包み込むように触れた。
言葉を交わさなくても分かる。宏章の気持ちが身体中に流れ込んで来て、さくらは目を潤ませた。
宏章は愛しさが溢れ出して、切なげに見つめながらキスをした。
さくらはゆっくりと瞼を閉じる。
宏章の口唇から伝わる体温を感じながら、お腹を抱きしめた。
すると身体の奥から小さく、鼓動とリンクするように力強い動きがした。
「宏章……今、赤ちゃん動いたよ」
「え?」
「ほら……分かるかな?」
宏章の手を取って、そっとお腹に当てた。
しばらく触れていると、宏章の手のひらに小さな胎動が伝わった。
「……」
宏章は感動のあまり、しばらく言葉を失っていた。
「鈴の音みたいだね……サンタクロースと一緒に、私達の所へ来てくれるよ」
さくらがそっと呟いた。
予定日は12月23日、ちょうどクリスマスの頃だ。
「名前……りんたろうかな?」
「え?」
「鈴の音みたいでしょ?男の子だから太郎をつけてみた」
さくらがおどけてクスッと笑うと、宏章もお腹に向けて微笑みながら呟いた。
「いいかもな、りんたろう。漢字は後で考えるか」
「そうだね……」
宏章の手に、さくらがそっと手を重ねる。
「りんたろう……」
二人はお腹に向けて優しく呼びかけた。
☆
「お腹、だんだんふっくらしてきたわね」
美智子がさくらのお腹にそっと触れた。
さくらは今日もまた、美智子の見舞いに訪れていた。
「うん、だんだんボトムがキツくなってきちゃった!そろそろマタニティのにしようかな?」
「今はおしゃれなお洋服がたくさんあっていいわよね。宏章がお腹にいた頃は、お洋服なんて選べなかったもの。まあ私はつわりも酷くて、治まったと思ったら今度は切迫早産で入院になっちゃったから、ほとんど寝巻きで過ごしてたんだけどね」
「そうだったの?」
さくらは言葉を失った。
いつもあっけらかんとしていて元気な美智子からは想像も出来なかった。
さくらはつわりも殆どなく、ここまで経過は順調だった。それでも日々変わる体調やメンタルの波についていくのがやっとだ。
重いつわりや身動きが取れない入院生活、何より無事に産まれてくるまで続く不安な日々。
そんな苦労を乗り越えて、宏章を産んでくれた。
さくらは美智子に改めて感謝と、尊敬の念を感じた。
「だけど宏章の産声を聞いた途端、そんな辛さも一瞬で吹き飛んだ。さっちゃんのお母さんも、きっとそうだったんじゃないかしらね」
……お母さん。
遥子の姿が、頭に浮かんだ。
さくらは膝の上で、拳をぎゅっと握りしめた。
「お母さん……あのね、私のお母さんが産後こっちにしばらく滞在したいって言ってるの……」
「あら?本当?それならよかったわ!里帰りしないって言うから、ずっと心配だったの。私もこんな状態だからお手伝いも出来ないし……お母さんが来てくれるなら安心ね!部屋も余ってるから、好きに使ってちょうだい。狭い家で申し訳ないけど……」
安心して笑顔を見せる美智子をよそに、さくらは静かに俯いた。
「お母さん……前に両親との事話したでしょ?AV女優になった事で、しばらく音信不通だったって……。お兄ちゃんと宏章のおかげで、両親との関係は修復出来たんだけど……」
さくらは以前、両親との関係や生い立ちを美智子に打ち明けていた。
音信不通になった経緯や、現在の両親との関係。
幼い頃は純粋に父と母を愛していた。
褒められたくて、喜んでもらいたくて、何でも一生懸命頑張った。
両親にとっての「いい子」でありたかったから。
だけどそれはいつしか自分を追い詰めて、家族ごと全て壊した。
両親の望む娘の姿を捨てた時、自分自身も切り捨てられた。
お父さんは……お母さんは、私を捨てた。
さくらは瞼をぎゅっと閉じて、声を絞り出した。
「だから手伝いたいって言われた時は、どうして今更って……お母さん……私、本当は今でもどこかお父さんとお母さんの事、許せていないのかもしれない……」
「さっちゃん……お母さんに来てもらいなさい」
「え?」
さくらが顔を上げた。
「今更だって思っているのなら、お母さんの顔を見て、そう言いなさい。泣いても怒ってもいいの、ありのままに感情をぶつけるのよ。ケンカになってもいいじゃない……それはきっと、二人にとって必要な時間なのかもしれないわね」
美智子はさくらの手をぎゅっと握りしめた。
「私ね、早くに実母を亡くしているの。父はその後再婚して、弟も産まれたんだけど……。私はどうしても継母と折り合いが悪くて……半ば追い出される形で家を出てそれっきり。だからね、さっちゃんが羨ましいわ。だってこうしてお母さんが歩み寄ってくれる。まだ母娘として、やり直せるチャンスがあるんだもの」
さくらは不安げに美智子を見つめた。
美智子はさくらを真っ直ぐに見つめて、諭すように穏やかに語りかける。
「ここで甘えなくてどうするの?それに産まれた後は嫌でも頼らざるを得なくなるわよ。そうしていく内に、きっとさっちゃんも母として強くなる。その時にやっと、お母さんの気持ちが少し理解できるようになるんじゃないかしら?」
さくらが目を伏せた。
「……もう少し、考えてみる」
答えが出ないまま美智子の病室を後にして、さくらは街をひとり歩いた。
「ママー!ケーキ食べたい!」
通りすがりの子どもの声に、ふと足を止めた。
小さな女の子が母親と手を繋いで、嬉しそうにケーキ屋へと入って行く。さくらも吸い寄せられるように、ケーキ屋へ足を踏み入れた。
先程の親子が会計をしている間、店頭に並べられた色とりどりのケーキを眺めた。
「お決まりですか?」
店員に声をかけられ、顔を上げた。
「あ……ショートケーキ二つ下さい」
咄嗟に苺のショートケーキをオーダーした。
箱詰めを待っていると、外から子どもの笑い声が聞こえてきた。
……ああ、さっきの子か……。
店のガラス越しに母娘の姿を眺める。
赤いワンピースを着た女の子が母親からケーキの箱を受け取り、楽しげに歩いて行った。
その姿に、幼い頃の自分と母の姿を重ねた。
小雪がちらつくクリスマスイブ、閑静な住宅街に彩られたイルミネーションがきらきら輝く光景に、真っ赤なコートを着たさくらが胸を踊らせる。
習い事の帰り道、母の遥子に手を引かれて自宅までの道のりを歩いた。
「今ケーキを焼いてるのよ。お兄ちゃんが帰ってきたら、みんなでケーキを食べようね」
遥子が優しい笑顔を向けると、さくらは目を輝かせた。
自宅へ戻り、遥子が中途にしていたクリスマスの準備を再開した。
「もうすぐ出来るからね」
キッチンからスポンジを焼く甘い香りが漂う。
さくらは宿題をしながら、手際よくケーキの下ごしらえをする遥子の後ろ姿を眺めた。
焼き上がったタイミングで、さくらが駆け寄る。
「お母さん、さくらもお手伝いする!」
「あらそう、じゃあお願いしようかしら」
焼き上がったスポンジに、遥子が丁寧に生クリームを塗りつける。さくらはスライスした苺を一枚ずつ綺麗に並べた。
「さくら、上手ね。ありがとう」
遥子が微笑みかけた。
どんなに遠く離れていても、時が経っても、心にしっかり焼き付いている……さくらは母の笑顔が大好きだった。
……お父さんは仕事が忙しくて、クリスマスは結局三人でケーキを食べたっけ。
……いつからだろう?そのうちクリスマスもみんなバラバラで、いつの間にかケーキを口にする事もなくなった。
ケーキの味は今でもよく覚えている。
甘酸っぱい苺とふわふわのスポンジ、滑らかな舌触りのミルキーな生クリーム。
お母さんのケーキは、素朴で優しい味がした。
私は今でも、お母さんの作るケーキが一番好き。
☆
「ただいま」
店を閉めて、片付けを終えた宏章が帰宅した。
夕飯の支度をする手を止めて、さくらが笑顔で振り返る。
「おかえりなさい、もうすぐご飯出来るよ」
宏章が嬉しそうに背後から覗き込んだ。
「あーいい匂い……今日はカレーだ!」
「うん、冷蔵庫にサラダ入ってるから並べてくれる?」
冷蔵庫の中に置かれた洋菓子店の箱に気付き、宏章が尋ねた。
「あれ?ケーキ?珍しいな」
「うん、今日お母さんの病院行った帰りに寄ったの。なんか無性に甘いもの食べたくなっちゃって……体重もクリアしてるし、ご褒美」
「さくらはストイックだな。じゃあデザートに食べよっか!」
宏章が笑顔を見せて、さくらが微笑み返す。
夕飯を食べを終えて、さくらがお茶を入れようと席を立った。
「俺がやるよ、さくらは座ってな」
宏章はお皿とフォークを並べて、冷蔵庫からケーキを出した。デカフェのコーヒーをさくらの前に差し出し、向かいに腰掛ける。
箱からケーキを取り出して、宏章が呟いた。
「苺のショートケーキだ」
「うん、色々あって迷ったんだけど……結局これにしちゃった。やっぱりショートケーキが一番好きかな」
「知ってる。クリスマスに遥子さんがいつも作ってくれた、苺のショートケーキだろ?」
「……その話、覚えてたんだ」
「覚えてるよ。俺もいつか食べてみたいな、遥子さんのケーキ」
「それ、叶うかも……」
「え?」
「……産後、お母さんに来てもらおうと思うんだけど……いいかな?」
さくらが潤んだ眼差しで、宏章に微笑みかける。
宏章はさくらの手を、そっと握った。
「遥子さんのケーキ……楽しみだな」
宏章の入浴を待つ間、ベランダに出て夜風に当たった。すっかり梅雨が明けて、夜になっても息苦しい程蒸し暑い。けれど心は清風が吹き抜けた後のように、どこか清々しさを感じていた。
さくらはスマホを眺め、遥子との通話履歴をタップした。
3コール目で、遥子が電話を取る。
「はい……」
昔から変わらない、お母さんの心地良く響く柔らかな声。
懐かしいその声は、心なしかまた少し歳を重ねた気がした。
「お母さん……久しぶり」
「ええ……本当に久しぶりね……さくら、体調はどう?」
「うん……安定期に入って、落ち着いてるよ……」
「そう……良かった。雅高だけじゃなくて、私達にもたまには連絡しなさい。お父さんも、心配してるんだから……」
さくらは少し間を置いて、静かに口を開いた。
「お母さん……ケーキ作って……」
「え?」
「苺と生クリームのケーキ。退院する頃は、クリスマス過ぎちゃうかもだけど……」
電話の向こう側で、遥子が微笑んだ。
「いつでも作るわよ。さくらの為なら」