──『南真白』は一輪の嫋やかな、白百合を思わせる同級生だった。
見た目も楚々とした色白の美人。肩で切り添えられた、黒髪がさらりと揺れる姿に何度も目を奪われた。
母親が華道をしているらしく。
その影響だろう。真白は放課後になると時折、教室の花瓶に花を活けていて、その姿を度々目撃した。
その様子はなんだか大人びて見えた。
同世代の女子と比べて落ち着き、品があり。
色香さえも感じた──。
真白を家に送り届け。
自宅の玄関にたどり着いた時にそんな、懐かしい事を思い出した。
玄関に飾られている白と黄色の花。高校二年生のとき、この花を教室でよく見た。
そのせいで過去の記憶を刺激された。
今日の真白の服装が紺色のワンピースで、学生時代のセーラー服を想起させたことも多いにある。
「確かこの花は……アルストロメリア」
白のアルストロメリア触れ。中央にある黄色の豆粒のような楕円の雌しべを見て思わず。
先ほど触れた真白の柔らかで瑞々しい、花芯を重ねてしまい。腹の奥にずぐりとした情欲を感じた。
「奥まで触れたかった。でも、まだ早い。もっと……」
ふうっと呼吸を整え気持ちを沈める。
真白を今直ぐにでも自分のものにして、抱き潰してしまうのはきっと容易だろう。
でも、それじゃ満たされないと思った。
「もっともっと、真白の無垢な体に、心に深く俺を刻みたい……」
真白はきっと俺の事を忘れている。
だから二度と俺の事を忘れないように、出来るなら真白の魂までにも俺を刻み込みたい。
だが、それで本当に満足出来るかなんて俺にもわからない。
分かっているのは、この飢餓感を孕む──愛と情欲を受け止めて欲しい存在は真白だけ。
今はまだ早い。
もっと深く。深く。柔らかな体と真白に踏み込んでからと、俺の中で滾る欲情を律する。
それでも真白に触れて、真白から俺を求めてきた喜びは、今だに尾を引いて法悦にも近いと心が騒めいてしまい。
気を紛わさせる為に、プツリと白いアルストロメリアを一輪、手折った。
そのまま口元に花を寄せる。
アルストロメリアに香りはない。しかし、生花特有の青い香りはどこか懐かしく。
その香りで脳裏に懐かしい、過去の記憶が鮮やかに蘇る。
それは勿論、南真白のこと。
甘やかな秘めたる想いと、苦い想いが胸中に広がる。
記憶を瞼の裏に馴染ませるように、ゆっくりと目を瞑った。
南真白との馴れ初めは高校二年生のとき。
クラスメイトになった事がきっかけだった──。
南真白は男女共に人気があった。
しかし、真白の交流関係は専ら女子のみ。男子との付き合いは薄く。
男子の間では『南真白は見るだけ』『抜け駆けは御法度』そんな暗黙の了解があった。
それこそ、繊細な花を愛でるような空気感が確かにそこにあった。
だが、俺はどうしても一歩。踏み込みたくなった。
それは単純なる好意。分かりやすく言えば──
初恋故の行動。
真白が放課後、夕日を浴びながら花を活けている姿を目撃し。
華奢な体の輪郭を黄金色に染めているのを見て、その輪郭に触れたくなり。近づき、気が付いたら夏祭りに誘っていた。
口に出したあと、すぐに断れるかもしれないと後悔したが。
真白はにかみながら、快諾してくれた。
とても嬉しかった。
二人で夏祭りを過ごし。花火を見て。終わった後に告白しようと思っていた。きっと、美しい彼女はこのままだと遅かれ早かれ、誰かのものになってしまうだろう。
そんなのは許せなかった。
異性に対して好意も執着とも思える気持ちも、独占したいという気持ちも、全て真白が初めてだった。
「単純に凄く好きだったんだろう……」
その気持ちに今も変わりもない。
「だが──」
ふと目を開ける。
手折ったアルストロメリアを強く、握り締めそうになる。
儚い花を見ながら、約束の当日の事が追想される。
夏祭り会場である神社の鳥居の前での待ち合わせ。時刻は17時。
慣れない浴衣を着付けて、少し早めに着いた。行き交う人達にそわそわして、同級生を見ればそっと柱の影に隠れた。
そうして待っていたけれども──真白は来なかった。
あと五分したら真白が来るんじゃないか。
一度だけメッセージを真白に送った。
しかし返事は無し。
高校二年生の時の幼い俺はしつこく連絡したら嫌われるんじゃ無いかと、電話の一つも出来ず。
ただじっと待つことしか出来なかった。
すると、神社の奥の会場から音楽が途絶え。
屋台が店仕舞いを始め。光が消えて。
人が波のように引いていく。
なのに、俺は何か理由があって遅れて来ると頑なに信じて。警備員の人達に声を掛けられるまで、動けなかった。
声を掛けられてそこでようやく、夏祭りは終わり──俺の恋も終わったと自覚した。
そのまま失意のうちに。夏の夜のじっとりした暑さは失恋の重みだと思いながら帰路に着いた。
連絡など未練がましいと思い、出来なかった。
遅れて来ると言うのならば、何か連絡があるはず。
でも、それすらも無かった。
ならば、そう言う事なのだろう。
せめて引き際は男らしく。何も言わず、沈黙を守る方が真白が困らないだろうと。
そう、思ったのだった。
それでも。頭の中では真白と約束を交わした時の事がこびりついて、離れ無かった。
真白は白い頬を赤らめて『必ず行く』と言ってくれた。
その言葉に大いに期待して、蓋を開けるとこのざま。
「あの時は弄ばれたのかと思った」
ふっと苦笑して。
花を持ちながら靴を脱いで部屋に入った。
リビングに近づくと、いつもは感じない食事の残り香を感じた。
俺からするとこの広いリビングは味気ない白い箱のようなもので特段、思入れも何もない。
普通の部屋。
しかし、真白がいた。料理を作ってくれた。キッキンではまるで本当の恋人。いや、真白は契約妻を了承しているから、新婚夫婦のような戯れをした。
それだけで、部屋に不思議と初めて愛着のようなものを感じる。
キッチンに近寄り水を一杯飲む。
このキッチンで先程の真白の痴態を思い出すだけで、下腹部に熱が再び宿りそうになる──が。
真白が打ち明けてくれた、九鬼氏の事を忘れてはいない。
真白が話してくれたこと思い出し、下腹部に渦巻く熱が消え失せる。
代わりにずっと重たくて、黒い気持ちが広がる。
玄関で名刺を受け取り、後の文字を見た瞬間。名刺を燃やしてやりたい衝動に駆られた。
「九鬼史郎。誰がお前みたいなやつに真白を差し出すか。髪一本だって真白は俺のものだ」
九鬼史郎について真白には、言いそびれてしまったが。
実は真白から相談されるよりも前より、九鬼氏の名前やどんな事をしているかは知っていた。
それは松井所長のご子息。記者であり。そして俺の友、|松井悠馬《まついゆうま》から。
|沼知《ぬまち》議員の汚職問題を追っている事を秘密裏に打ち明けられ、法的なアドバイスをしていた。
その際に沼知議員と繋がりがある、九鬼氏の名前を度々聞いていたのだった。
それがこのような、巡り合わせになるとは思わなかった。
ふと、ため息を吐いて気持ちを整える。
「片付けは後でいいか。先に悠馬に連絡しとこう」
名刺は真白から預かった直後、食事をする前に直ぐに書斎の机に置いていた。
そのまま花を持ち。書斎に向かう。
書斎は仕事部屋も兼ねている。仕事柄、個人情報を扱うので一人住まいではあるが、念のために鍵を付けていた。
書斎のドアの前に立ち。ポケットから鍵を出して、扉を開けて部屋に入り。直ぐに室内の灯りのスイッチを入れる。
右側の壁には本棚に専門書がずらり。
奥の仕事机にはオールインワン型のシルバカラーのデスクトップパソコン。
他にも机の上には経済雑誌、週刊誌などが置いてあり、その横に九鬼史郎の名刺もあった。
さっと、パソコンを立ち上げて悠馬のパソコンアドレスに話したいことがある。内密でと送った。
送信ボタンをクリックしてから、眼鏡を外す。
レンズには度数が入ってない。所謂、伊達眼鏡。
眼鏡は仕事柄、年齢を少しでも上に見せたいために着用していた。パソコン作業も多い為ブルーライト対策も兼ねている。元より視力は良い。
軽く眉間を揉んでから。
裸眼の視線をディスプレイから、右の壁に向けると。
壁の前には脚の長いスタンディングの机。
その上には先日、真白が作ってくれたビタミンカラーのミニブーケ。その横には白い華奢なフレームに収めた真白の髪の毛。
そして──壁には真白の大小の写真がずらりと貼られていた。
壁に飾っている全ての写真は一番最初、この家のソファの上で初めて真白に触れた時のもの。
だから壁一面の写真の全ては、眼を瞑っているものばかり。
頬を上気させて黒髪が乱れ。
ソファに力なく横たわり、衣服が乱れていた。
それはとても官能的で美しかった。
俺が触ると真白はあっさりと果てた。その隙にスマホで撮った。同じく写真のフレーム内に飾っている髪も、ソファの上に落ちていたものを拾った。
ビタミンカラーのブーケはクライアントに渡すと言うただの口実で、本当は真白が作ったものが欲しかっただけ。
「もっと欲しい。普段の真白の姿も飾りたいな……フラワーショップで働いている姿の真白も、愛らしかった」
壁の写真は耳。唇。指先だけのアップものもあれば、全体の写真や衣服だけを写したものある。
本当は裸体まで写したかったが、それは真白の意識があるときの方がいい。
誰の前で白い肌を晒しているか、その視線が欲しいと思ったので辞めておいた。
まだ真白の全てを手に入れてない。それがもどかしく。いつでも真白を直ぐそばに感じたくて。その衝動の結果がコレだった。
パソコンの机から離れ。
花を持ちながら、一際大きなサイズの写真の前に立つ。真白の横顔の写真。この写真は特にお気に入りの写真だった。
長いまつ毛が影を成して、唇は薄い桜色。頬は薔薇色。まるで瑞々しい水蜜桃のよう。その写真の唇につつっと触れ。
「こんなことが真白にバレたら、真白は怒るかな……俺だって分かっている。こんな事はダメだって。でも好きなんだ。どうしようもない。全てを手に入れたい。俺だけのものにしたい──今の俺はあの時と違う」
独白を虚像の真白に捧げる。
こうまで真白に想いを募らせるのは、夏祭りの約束が果たされ無かったその後にあると、自覚していた。
夏祭り後。
数日間、分かりやすく落ち込んでいた。
今後どんな顔をして、真白と接したらいいのか全く分からなくて。課題も手に付かなかったのを良く覚えている。
二週間後ぐらい経ってから。
母親から真実を聞いたのだった。
『クラスメイトの南さん。お父様が交通事故に巻き込まれて、お亡くなりになったんですって』
『相手の方と揉めて、お母様が心労で倒れたそうよ。そのまま田舎に引越すそうで。お可哀想に』
寝耳に水とはこのこと。調べてみると事故が起きたのは、あの夏祭りの日の事だった。
全てに合点が行った。
真白には来れない理由があった。連絡出来ない状態にあった。ならば、今すぐに嘆き悲しんでいるであろう、彼女の力になりたいと思い。家を飛び出して──と、思ったけれども。ふと我に帰り。
やめた。
高校生の俺に何が出来ると言うのだろうか。
大丈夫かと励ましたところで、大丈夫なわけじゃない。何しろ肉親が死んでいる。
言葉で力になれず。現実的な金銭的な援助などは出来る筈もなく。
しかも、南真白の父親は事故の被害者だと言うのに相手は心神喪失、鬱状態だったと主張し。随分と揉めていると風の噂で聞いた。
そんな混乱の最中。引越し先に真白の彼氏でもなんでもない俺が。
ただのクラスメイトがいきなり現れたら、ご家族にも負担だろう。
慰めの言葉も、経済力も、問題事を解決出来る力も、高校生の俺には何一つ持っていなかった。無力過ぎていっそ清々しい。
好きな女の子を守ってやることも出来ない。なんと惨めで、非力で無価値。役立たず。
そう思うと、どんな顔をして真白に会いに行けば良いか分からなかった。
だからたった一人の女を、真白を守れる力が欲しかった。
その為に弁護士になった。経済力も手に入れた。そうして、独立してから探して会いに行こうと思っていた。
今でこそ。こうして冷静に振り返る事が出来るが、それは人生での初めて挫折に違いなかった。
真白への想いはいつでも己の未熟さとセット。
それ払拭するにはあの時。出来なかった事が出来るようになるしかない。
「だから俺には真白がどうしても必要。真白の居ない人生なんて意味がない」
けれども、俺が会いに行く前に真白が現れたのだった。
──奇跡だと思った。
最初。web予約からの相談者の名前を見て、まさかとは思っていた。
いざ会って見ると、一目見て真白だと分かった。
色白の肌や艶やかな黒髪は、白いシャツとオーリブのフレアスカートに良く映えていた。
学生の頃と変わらぬ面影を残した、顔は薄化粧に
彩られ。美しい女性に成長したんだと思った。
しかし弁護士事務所に来たということもあり。
緊張の面持ちで。不安気にその表情は曇っていた。
俺の名前を名乗っても、何か反応があるかと思ったが真白はただ不安げに瞳を揺らしていただけ。
ここに相談に来る人達とさほど変わらぬ様子に、俺だけが取り乱すことなど出来ない。
いきなり|依頼者《真白》の相談事を無視して、自分の事を語ることなど、もっと出来る訳がない。
何でもない振りをしながらいつも通りに。まずは、相談事の内容を把握するのに徹した。
当初、姓が『南』から『櫻井』に変わっていたこともあり。真白自身の結婚や離婚トラブルの相談かと身構えたが。
蓋を開けてみれば母親のトラブルに関することでまずは、胸を撫で下ろした。
その流れでどうやら南の姓から櫻井に変わったのは母親の戸籍に入ったからだと、考えて間違い無いと思った。
それと同時に。間違いなく目の前の人物は真白だと分かり。
胸が騒ついて仕方なかったが、感情を発露させる訳には行かず。鉄仮面を被るしかなかった。
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