「――あれ、このお店って……」
「そ」店の前で立ち止まり課長は笑う。「前回は、あんまり記憶にないって言うから、予約しておいたんだよ」
「流石は課長」
「――さ。入って」
いらっしゃいませえええ! と威勢のいい声に出迎えられる。暖簾をくぐる課長は、シゲさん、と声をかける。「すっかりご無沙汰になっちゃって……すみませんね。可愛いお嬢さんを連れてきたから、美味いもんを食わせてね」
課長の砕けた喋り方は、この寿司屋さんにおいてのみ、というルールのようだ。こんな言葉遣いをする課長を、わたしは他に知らない。ずっと一緒にいても、まだまだ知らない一面があるのだ。
初めて課長に誘われたときと同じ席に座り、――目線を絡める。
きゅん。
熱っぽい感情を宿したあなたの瞳に囚われると身動きが出来なくなる。
胸が熱くなる。苦しくなる……。ねえ、課長。わたし、あなたが、大好き……。
実家の帰り道であんなにも燃え盛る情欲を剥き出しにしたのに。まだ……足りない。
「……そんな目をするなよ」と、課長はわたしの髪を撫で、「……抱きたくなるだろ」
わたしは、歓迎なんだけど。でもここは、そういう場所ではないから。
わたしは課長の手首を掴み、そっとテーブルに置くと、板前さんたちの後ろに掛けられた黒板を眺める。「今日のおすすめ……のどぐろ? ですか。のどぐろってどんなお魚でしたっけ課長……」
「あぶったのがすげー美味いよ」と目を細める課長は、「論より証拠だぜ。先ずは、食べてみようか」
おいシゲさーん、とまた威勢のいい声で課長は、「のどぐろと、なんか摘まめるものを。あと、例の日本酒もお願いな」
「課長……あの……」わたしはそっと彼の肩を突き、「わたし、最近お酒全然飲んでないんで、また、弱くなっちゃったみたいで。その……。出来るだけセーブしますけど、お酒回っちゃったらごめんなさい……」
「え? こっからうち、結構近いしタクシーで帰るから。全然いいよ?」と課長。「莉子ちゃんだって、たまには、我を忘れるくらい飲んだっていいんじゃない? おれは別に構わないよ」
「いえ……。わたしが構うんですが」
「どして? 酔っぱらった自分を見せるのは恥ずかしい?」
「ですよ」とわたし。「自分から脱いじゃったりとかもう……黒歴史なんですから。あれは」
「でも……」懐かしそうに目を細める課長は、「あれがあったから、おれたちは結ばれたんだよな。……もう、八ヶ月も経つのか……。懐かしいな……」
「ええ」
あの日と同じく、カウンターに氷の入ったグラスを置き、なみなみと日本酒を注いでいく板さんを見て思う。……そう、あのときわたしすごくびっくりして。それから……砕けた話し方をする課長が新鮮に思えて。すごく、格好いいひとだって改めて実感して。それから……課長の高級ベッドで眠って。朝を迎えて課長に告白され……結ばれて。
課長との思い出は、いつも幸せが詰まっている。みっしりと、どんな不幸という隙間も許されないほどに。
グラスを受け取るとわたしたちは乾杯した。「……ふたりの、未来に……」
「幸せな未来に」
出される料理はどれもこれも本当に美味しくて。食べたことのないくらいに美味しい赤身や……水気のあるウニ。ぷりっぷりのいくら……お刺身! たまらない! あのときよりも更に美味しく感じるのは、紛れもない、愛し合うひとと一緒だからだ。愛情が……最高の調味料。
「あぁーんもう、課長。美味しい……」
「だなー。このイカも食べてみ? たまんねえよ……」
「あっ食べます食べます」
「はい。あーん」
「……流石にそれは……」
「いいの。おれたちバカップル上等。おれのことが好きなら莉子、はい、あーんして」
「……あーん」
そして喜びを噛み締める。「美味しい!」
「はは。莉子って美味いもん食うとき本当美味そうな顔するよなぁ。すげえ……可愛い」
「……ありがとうございます」
「そうやって律儀に礼を言うところももう、可愛くてたまんねえ」
「あーっ。もう、頭ぐしゃぐしゃとか。セットが乱れちゃう……」
「おれの前できみは乱れてばかりだよ」
「んもう。課長。馬鹿。……好き!」
「ははは」
好きな人と美味しいものを食べられるって、当たり前だけれど、すごく……幸せなことなんだな。ちびちびお酒を飲みながら、あの日味わえなかった幸せを味わうわたしには……。
更なる喜びが待ち構えていた。
* * *
「課長。ビール、一口頂いてもいいですか」
「いいよ」
「……苦い」
「この苦みがまたいいんだよ。……苦みが苦手なら、そうだな。リキュールを入れるとカクテルみたくなってまた美味いんだ。今度、うちで飲んでみる?」
わたしは苦笑いをし、「でも一口だけ飲んで、大半を課長に飲んで頂くことになります。……それでよければ、ですけど」
「おれとふたりきりのときになら、いくら飲んでも構わないんだぜ?」と課長はビールを呷ると、「……ん。美味い。十代の頃は、ビールの旨味がちっとも分からなかったのに、年ってやつかな。風呂上がりに飲むビールの旨味がたまらない、って思えるようになった。いつからかな」
「でも課長、宅だとそんなビール飲まないじゃないですか」
「まぁな。毎日だと、ありがたみが薄れちまう気がしてな。……でもな。莉子」
課長は真っ直ぐにわたしを見据え、
「おれは、毎日を、きみと過ごしたい」
背筋を正す。課長がなにを言いかけているのかを、本能的に察知した。「課長……」
「好きだから。大好きだから……。おれは、この先ずっとずっと、きみと生きていきたい」
そしてなんと、後ろから女性の店員さんが花束を差し出す。なにごとかと思えば、受け取った花束を課長がわたしに手渡し、
「桐島莉子さん。……おれと、結婚してください」
胸が、高鳴った。目に入る大きな赤い薔薇の花束……。いつ。いつの間に、用意をしてくれていたのだろう。このお店に? 届けるように手配まで整えて。わたしの知らないあいだに……。ラブホでわたしが眠っていたとき? あのときに、なにもかもをこのひとはしてくれていたの?
視界が、滲んだ。いまのわたしの胸に訪れるものを正確に表す日本語は存在しない。するはずがない。何故なら……。
「はい。喜んで」
このときに、課長に抱き締められる以上に、幸せな瞬間を、わたしはこの人生において知らなかったからだ。万雷のあたたかい拍手が、わたしたちの未来を祝福するかのように、注がれていた。
* * *
「課長……。着けないで」
「……でも、莉子……」
「今日は、特別な日だから。お願い……。そのままのあなたが、欲しいの……」
「分かった」
そして課長が入ってくる。わたしのなかに。背中にあのやわらかいベッドの感触を感じ、わたしは蕩けそうになってしまう。――熱い。
「ああ……やぁ、……っ課長……っ!」
なまあたたかい彼のペニスを押し込まれ、わたしは官能にふるえた。あれから帰宅し、寿司屋に行く前にあれほど互いのからだを貪っていたというのに、飽きもせず、わたしたちは行為に及んでいる。
胸のなかをやわらかな清流が流れ出す。とめどなく……想いが、あふれてくる。
「好きよ……好き。好き……。課長……」
「おれも。愛している……」
なんの障害もなくひとつになれる。この一瞬。人生でこれ以上ないほどに最高の一瞬を……これからも課長と紡いでいくのだ。
幸せがひとつひとつドミノのように積みあがっていまがある。課長とひとつにある……想いを確かめ合う喜びを全身に感じながら、わたしは、彼の技巧に酔いしれた。
*
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