テラーノベル
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放課後の校舎は、いつもより少し早く静けさに沈んでいた。教室の窓から差し込む光が、斜めに机を照らし、その影を遥の手の甲まで引きずっていた。
窓際の席に座ったまま、遥は、ふいに背後から近づく足音に気づいた。
日下部だった。
声はかけられなかった。
けれど、距離と気配だけで、わかってしまう。
息が、止まりそうだった。
鼓動が、喉まで這い上がってくるようだった。
何もしていない。何も言われていない。
ただ、そこに“あいつ”がいるだけだったのに。
怖かった。
けれど――そのもっと奥に、“違うもの”があった。
「抱かれたい」という言葉が、脳裏をよぎったのは、その瞬間だった。
遥は目を閉じた。
振り払おうとした。
けれど、その言葉は、焼きついたように離れなかった。
どうして。
なんで。
なぜ、あいつに、そんなことを――。
その手は優しい。
あの声は穏やかだ。
触れられたら、きっと壊れそうになる。
だから、触れてほしいと思った。
壊されたいのではなく、“壊れても、傍にいてくれるかもしれない”と、錯覚してしまいそうだった。
それが、いちばん、醜かった。
遥の中では、ずっと決まっていた。
「優しさは受け取ってはいけない」
「受け取った瞬間、おれは相手を汚す」
「優しい人の手を求めた時点で、こっちが加害者だ」
そう教えられてきた。
言葉ではない。
もっと直接的なやり方で。
遥は立ち上がり、机を離れた。
視線を交わさないように、あえて目を伏せた。
その動作一つすらも、日下部にとっては“避けられた”と映るのだろうと、遥は思った。
でも、本当はちがう。
近づけば、壊す。
そう信じている自分が、いちばん壊れていた。
階段を降りながら、遥は自分の手を見た。
指先が震えていた。
この手で、誰かに触れたいと思った。
あいつの腕に、自分から這っていきたいと、一瞬でも願った。
吐きそうだった。
けれど吐かず、飲み込んだ。
「汚い」
声に出さず、唇だけが動いた。
「最低だ。気持ち悪い。壊れてる。おれは……おれは……」
足が止まった。
目の前の壁に手をつく。
影が落ちて、暗く染まる視界の中、遥の中で何かが深く沈んでいく。
どこまで堕ちれば、許される?
どこまで黙っていれば、誰も傷つかない?
どこまで“何もしなければ”、自分は加害者にならずに済むのか。
――でも、何もしないことが、いちばん残酷なことなんじゃないかって。
そんな考えが頭をかすめた瞬間、遥は自分の頬を、強く引っ掻いた。
爪が、皮膚を削った。
痛みはなかった。
あったのは、“それで少しでもこの汚れが剥がれるかもしれない”という、ひどく幼稚な願いだった。
その夜、遥は誰にも見られないように、布団の奥で静かに泣いた。
声は出さなかった。
過去の声が、また耳の奥で囁いた。
「抱かれたいなんて、思ったんだ」
「誰がそんなの、おまえに許すって?」
「おまえみたいなやつ、触られたら腐る」
自己嫌悪は、もう“習慣”になっていた。
自己卑下は、皮膚の下にまで染み込んでいた。
あいつのことなんて、見ちゃいけない。
欲しがってはいけない。
――それでも、心のどこかで、まだ“触れてほしい”と、願ってしまった自分がいた。
その矛盾こそが、遥の歪みの根幹だった。
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