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自宅に戻って直ぐに、パソコンを立ち上げた沙羅は、携帯電話に録音した片桐との会話を隠しフォルダーにバックアップした。
妙な興奮状態に陥っているのか、これがサレラリという現象なのか、謎の高揚感に包まれたまま「不倫 相談」とパソコンに打ち込み、検索を始める。
インターフォンの画像とファミリーレストランでの会話と画像。不倫の証拠としては、かなり有力な物だ。けれど、交渉事を有利に進めるには更に証拠を集めておきたい。
そう思って、片桐と会ったファミリーレストランの帰りに、興信所に立ち寄った。ついでに区役所も回って、御守り代わりに「離婚届」を貰って来た。
離婚届を手に入れたからといって、直ぐに離婚と決めたわけではない。あくまでも御守り代わりだ。
パソコンの検索結果に、数々の弁護士事務所が表示される。いくつかの初回無料相談の受付フォームに入力を始める。
「返事は、お盆休みあけてからかな?」
もしも、帰る実家があったなら、身を寄せて相談に乗ってもらい、じっくり考える事も出来る。けれど、既に両親の居ない沙羅には頼れる場所がない。
それが酷く心もとなく感じていた。
「ひとりで、どこまで出来るんだろう……」
エアコンの効いた部屋でパソコンに向かい、まんじりともしない時間が過ぎて行く。
気がつけば、空はオレンジ色に染まり日が傾いている。
「そろそろ、洗濯物を取り込まないと」
のっそりと身を起こした体は、鉛を背負ったように重く感じられた。
帰ってから受け取った宅配の荷物も玄関に置きっぱなしだ。夕飯の支度をそろそろ始めないと、美幸も塾から帰宅する時間になる。
日が傾き、茜色に染まる空をぼんやり眺めた。どこかで蝉が鳴いている。
たそがれ時は、何故か人を感傷的にさせる。
張りつめていた気持ちがフッと途切れ、涙がじわりと浮ぶ。
「信じて来た政志に裏切られたのだ。
何でもない顔をして裏切られたのだ。
でも、その政志が居なければ生活して行く事も出来ないなんて……」
自分の情けなさに、沙羅は奥歯を噛み締めた。
◇
「ただいま、お母さん見て! この間のテスト志望校合格圏内だって、スゴイでしょう!」
塾から帰って来るなり、興奮気味でテストの結果報告をする美幸に、沙羅は精一杯の笑顔を向けていた。
「すごいじゃない。美幸の努力の成果ね。頑張っているものね」
「あの学校のチア部に、絶対に入りたいんだもん。頑張るしかないでしょう」
そう言って、美幸は自慢気にエッヘンと胸を張る。
友達に誘われて学校見学に行った際、チアリーディング部のダンスに魅了された美幸は、その学校に中学受験をすると自らの意志で決めた。目標校は、偏差値の高い学校で、最初は合格が難しい状態だったのが、本人の努力で合格圏内にまで駆け上がった。
娘の努力を喜んであげたいのに、沙羅の脳裏に離婚の二文字がチラつき、素直に喜べずにいる。
もしも、離婚を選択したら自分の経済力では私立中学には通わせて上げられない。
離婚出来ない理由にばかり目がいき、意気地のない自分に落胆する。
このまま夫婦関係を続けるにしても離婚をするにしても、政志と話し合わなくてはならない。
片桐の妊娠が本当なら、お腹の子供はどんどん育ち産まれたら、認知や財産分与の問題が出て来るのだ。
「美幸、お父さん今日も遅いだろうから、ごはん食べちゃいましょう」
「はぁい」
食卓には、ふたり分の食事が並んでいる。美幸の大好きなハンバーグだ。
「いただきます」と箸を持ち上げた美幸が、ポソリとつぶやく。
「ああ、お父さんにもテスト点数、報告したかったなぁ」
「そうね。ごめんね、美幸」
「お母さんは何も悪くないのに、なんでお母さんが謝るの? へんなの」
きょとんと不思議そうに目を丸くしている美幸を心から愛おしく感じた。沙羅は娘のために少しでも良い選択をしていきたいと思う。
「ふふっ、美幸が頑張っているから、お母さんも頑張らなくちゃね」
時計の針は、午後10時になろうとしている。
リビングで沙羅はスマートフォンをタップした。その操作に反応したプリンターは、カラーの印刷物を吐き出している。
玄関扉が静かに開く。それに気づいた沙羅は、スマートフォンをオフにして立ち上がる。パタパタとスリッパの音を立て、キッチンへ入り冷蔵庫を開けた。
リビングに現れた政志が、カウンター越しに沙羅を見つけ「ただいま」とネクタイを緩めながら微笑んだ 。
いつも通りの優しい笑顔を見て、沙羅の胸の内側が黒く淀み、沈んだ声になる。
「おかえりなさい。おつかれさま」
「何、具合でも悪いの?」
「ううん。そんな事ないわ」
ごまかすように作り笑顔を浮かべた沙羅は、政志の前にビールとグラスを置き、向かいの席に腰を下ろした。
「帰省も近いんだから体調管理には、十分気をつけてくれよ」
グラスにビールをいっぱいまで注ぐと、シュワシュワと黄色い液体の上に白い泡が立つ。政志は、グラスに口を寄せ、美味しそうに喉を鳴らした。
普段通りの自然な振る舞い。その裏で、政志は不倫をしていた。
そう思うと、ゾワッと鳥肌が立ち、政志への嫌悪感を募る。
片桐に高価なプレゼントを贈っていた。
女としての価値を自分より片桐に求めたのだ。妻としてどんなに尽くしても認めてもらえない。それなのに頑張り続ける事になんの意味があるのだろうか。
もう、都合の良いだけの家政婦はまっぴらだ。
怒りにも似た感情が、フツフツと湧いて来る。
「お土産は買って来て置いたわ。でも、私は一緒に行かない。政志さんと美幸だけで行って来て」
普段、従順な沙羅の反抗的な態度に、政志は眉をひそめ怪訝な顔をする。
「おい、何でだよ。母さんもお前が来なかったら心配するだろう」
「私が行かなくても、政志さんと美幸の顔が見れれば、お義母さんはご機嫌なはずよ。私もたまには実家のお墓参りでも行こうかと思っているの」
沙羅は、思ってもいなかった言葉が、口からするりと出て自分でも驚いた。
「はっ⁉ 何をバカな事を言っているんだ。実家なんて無いくせに」
小馬鹿にしたように、政志はハッと息を吐く。
その態度が、沙羅を余計に苛立たせる。
「実家は無くてもお墓はあるの。いろいろ考えたいこともあるから、そうね。1週間ぐらい行きたいわ」
沙羅が口にした言葉に、政志は眉根を寄せ、低い声で聞き返す。
「何言ってんだ。実家も無いのにわざわざ、1週間も里帰りしてまで、考えたい事ってなんだよ」
あからさまに不機嫌な政志の態度。
誰のせいで、こんなことになっているのか。
沙羅は、必死に怒りを抑えるように手を握り込み、ゆっくりと口を開く。
「最近、ずっとね、無言電話が掛かって来ていたの。何でかしら?」
挑むような沙羅の視線から、顔を背け政志は吐き捨てるように言う。
「そんなの、俺が知るかよ。ただのイタズラ電話だろう」
「そう……? イタズラ電話の犯人に心当たりがあるんじゃない?」
首をかしげ、頬に手を当てた沙羅は、薄っすらと笑う。
「何言ってるんだ。そんなの知るかよ」
声を荒らげた政志に、沙羅は笑みを絶やさず、何かを思い出したように柏手を打つ。
「私ったら、てっきり、政志さんの知っている人かと思っていたわ」
何かを知っているような沙羅の様子に、政志は動揺を隠し切れずに視線を泳がせた。
「バ、バカな事言うな。そんなの知らないよ」
「あら、片桐さんて人が訪ねて来て、政志さんと付き合っています。な〜んて言うから、私ったら本気にしちゃったわ」
笑顔のまま、不倫相手の名前を口にする、沙羅の様子は政志にとって、どんなホラー映画より肝が冷えた瞬間だ。
沙羅は立ち上がり、愉し気に話し続けた。
「こんな気持ちで、政志さんの実家に行ったら、うっかり口を滑らせてしまうかも知れないと思うの。政志さんの不倫相手が妊娠しました。孫が増えるなんて楽しみですねって!」
目を見開らいた政志は、取り繕うように慌ててしゃべり出す。
「片桐なんて知らないし、不倫や妊娠なんて、誰か人違いしているんじゃないのか?」
大げさに手を広げ白を切る政志。明らかにウソだとわかる仕草だ。
それを見た沙羅はクッと口角を上げ、憎しみの瞳を向ける。
「そうね。私も間違いだったら良かったなと、思っているの」
そう言って、沙羅はプリンターから印刷したばかりの写真を取り出し、政志へ投げつけた。解き放たれた写真はヒラヒラと花ビラのように舞い、政志の足元へ落ちていく。その写真は、政志と片桐が笑顔で並ぶ姿や行為中のふたりが収められた写真だった。
「なっ、なんでこんな写真が……」
顔色を失くした政志は、膝を着きアワアワと写真を掻き集め出した。
慌てふためく政志を見下ろす沙羅の心は、急激に冷え、朝まで大切だったはずの夫への想いが、枯渇して行くのを感じていた。
「本当に間違いだったら、どんなに良かったか……。片桐さんがわざわざ見せてくれたのよ」
そう、つぶやいた沙羅の声は、悲しげに沈む。
膝を着いたままの政志は、観念したのか頭を下げた。そう、土下座の体制だ。
「すまない。 つい、魔が差して出来心だったんだ。許してくれ」
それを見た瞬間、沙羅の中で、これまで政志と過ごした月日が音を立てて崩れて行く。
突然、口に手を当て壊れたように笑い出した。
「あはっ、あははは。
《《つい、魔が差して》》と言う割に半年も関係を続けて、高価なディナーとプレゼントまで差し上げて、ずいぶんお楽しみだったみたいね」
「すまない……」
「私より彼女の方が、大切なんでしょう?」
「違う……アイツとは、遊びだったんだ。もう、会わないから許してくれ」
浮気のテンプレート通りに言葉を吐く政志に、沙羅は屈み視線を合わせた。
「遊びだったから、許せ? バカ言わないで、じゃあ、本気だったら……私は政志さんの幸せを願って身を引けとでも言われるのかしら。結婚して妻になったからって、私は召使いや奴隷になったつもりは無いのよ」
「召使いや奴隷だなんて思っていない。本当に大切なのは沙羅、お前なんだ。アイツには、子供はあきらめてもらう。だから、どうか、この通りだ……」
政志は、床に擦り付けるように頭を下げた。
お腹の子供を始末すればすべての事が、リセットされ元通りに出来るはずなどない。それに、人ひとりの命をなんだと思っているのだろう。
政志の短絡的な思考に、沙羅の心は、怒りと悲しみが渦巻く。
「相手が妊娠したって言っているのに、”ごめんなさい” ”はい、わかりました”と無かった事にするには、さすがに無理よ。それにね、相手が産むって言っているのに、堕胎の強要は脅迫罪や強要罪になるのよ」
それを聞いた政志の顔色がサァッと青くなる。
「俺が悪かった。でも、本当に愛しているのは沙羅なんだ。信じてくれ」
今、このタイミングで愛の言葉を聞かされても、心が余計に傷つけられるだけだ。
「他の女と浮気して、挙句の果てに妊娠までさせて、いまさら愛してると言われても、あなたの何を信じられると言うの⁉」
叫ぶように言い放つ沙羅の瞳は潤み出し、唇は震えていた。
「ごめん。勝手なのはわかってる。でもお前や美幸を一緒に暮していきたい。そのためなら何でもする」
「簡単に言わないで! これから、あなたの帰りが遅くなる度に、また浮気しているのかもって、ずっと考えなら生活していく事になるのよ。それを耐えろと⁉」
結婚して13年、コツコツと積上げて来た信頼は、政志の裏切りに寄って脆くも崩れ去り、愛情のバロメーターはマイナスだ。
一度、失った信頼を取り戻すのにどれだけの月日を必要とするのか、沙羅には見当もつかない。
日常のふっとした瞬間に、ツラい記憶がフラッシュバックして、その度に苦しみを噛みしめるのだろう。
シタ側は、”つい、魔が差して” と軽い気持ちで始めた浮気でも、サレた側は ”なぜ⁉”と自分を責め、パートナーを恨む。そして、家庭を壊した不倫相手を憎み、いつまでも負の感情に苛まれるのだ。
「ごめん、俺が悪かった。二度と裏切るような事はしないから、もう一度チャンスをくれ」
そう言って、政志は沙羅の肩へ手を伸ばした。
「イヤッ、他の女を抱いた手で、私に触らないで!」
悲痛な叫び声に、政志の伸ばした手が反射的に止まる。その手の横を糸が切れた人形のようにすり抜け、沙羅は膝から崩れ落ちた。
細い肩を震わせながら、声を押し殺すように泣く沙羅。いつも、元気に家事を切り盛りしている姿と違い、今更ながら自分の犯した事の重大さを政志は痛感した。
「沙羅……」
強い拒絶の後で、政志は泣き続ける沙羅を見つめることしか出来ないでいた。
その時、不意にリビングの扉が開く。
「大きな声が聞えたけど、どうしたの?」
眠っているはずの美幸の声に、沙羅は肩をビクッと跳ねさせた。
娘の美幸には、夫婦喧嘩など見せられないと、沙羅は慌てて涙を拭い、立ち上がろうとする。
その沙羅を隠すように政志が一歩足を踏み出した。
「美幸、ごめん、起こしてしまったかな? お父さんの帰りが遅くてお母さんを悲しませてしまったんだ。ちゃんと謝るから、美幸は心配しないで平気だよ」
「そうだよ。お父さんってば、いくらお仕事でも毎日帰ってくるの遅すぎだよ。話したい事があっても話せなくて、わたしが不満を言ったら、お母さんがお父さんのかわりに謝ってくれたんだからね」
「ん、ごめんな。これからは早く帰ってくるように気を付ける」
「ホント、気を付けてよね。お父さんが悪いんだから、お母さんにちゃんと謝って」
「許してもらえるまで、何度でも謝るよ」
「うん、お父さん頑張ってね。じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ、美幸」
美幸は小さく手を振って、ドアがパタンと閉まった。
パタパタと足音が遠ざかり、沙羅は大きく息をつく。
子供にとって、父親と母親の不仲な様子は見たくなんてはずだ。
ましてや、中学受験を控えたこの時期、夫婦の事で娘の心を煩わせるような事はしたくなかった。
沙羅は、うつむいたまま小さな声でつぶやいた。
「また、明日話しをしましょう。私は、和室で寝るから……」
「沙羅……」
同じ空間、手を伸ばせば届く距離に居る。それなのに、ふたりの間には、見えない高い壁が立ちはだかっていた。
いまさら、自分の行いを悔やんでも時間は戻せない。政志の脳裏には”後悔”の文字が浮かぶ。