「お母さん、おはよう」
「おはよう、美幸。今朝は早いのね。ごはん出来てるわよ」
「……うん」
いつも、なかなか起きてこない美幸が、早めにダイニングに顔を出したのは、昨晩の夫婦喧嘩を心配してのことだ。
しかし、父親が浮気をして、母親以外の女性が妊娠したと言えるはずも無く、何をどうやって説明したらいいのか、沙羅には言葉が見つからない。
12歳ともなれば、ある程度の大人の関係もわかる多感な年頃。
下手なことを言えば、トラウマにもなりかねない。
何か言いたげに様子を窺う美幸の視線を感じても、沙羅は忙しそうに振る舞い、その話題から逃げてしまう。その後ろめたさで胸は苦しくなる。
政志が不倫などしなければ、こんな思いをしないで済んだのに……。と、恨めしく思う。
「おはよう」
不意に聞こえた声に沙羅は顔をこわばらせた。
声の主は、Yシャツにスラックス姿の政志だ。
政志は、普段通りに何食わぬ顔で自分の席に腰かけた。
「お父さん、おはよう。昨日は、ちゃんと、お母さんに謝ったの?」
沙羅のピリついた雰囲気を感じた美幸が、政志へ疑いの目を向ける。
「謝ったけど、なかなか……ね。お母さんをたくさん悲しませてしまったから、許して貰えないのは、しょうがないんだ」
政志のもの言いに「謝ったからと言って、許せるような内容じゃない!」と、叫び出したい沙羅だったが、グッと言葉を飲み込む。
「まあ、お父さんが悪いみたいだから、お母さんにいっぱい、いっぱい、いぃっぱ〜い、謝るしかないね」
夫婦の間を取り持つように、明るく振る舞う美幸。その様子を沙羅は切ない思いで見つめた。
「いってらっしゃい。忘れ物は無い?」
「大丈夫! いってきまーす」
玄関で元気に手を振る美幸に、沙羅は笑顔で手振り返した。曲がり角で姿が見えなくなると、心に不安が押し寄せる。
美幸の笑顔を守れるのは、自分の選択次第だ。
親として娘の幸せを願えば、政志への不満を飲み込み夫婦としてやっていくしか、ないのだろうか。
朝から夏空が広がり、蝉の声が聞こえる。
今日も暑くなりそうだと、ため息まじりに沙羅は振り向く。
すると、申し訳なさそうな顔をした政志が目に映り、沙羅は表情を硬くした。
「沙羅……今日は、定時で帰って来るから」
「そう……」
政志から視線を避けるように沙羅はうつむく。
綺麗に磨かれた革靴に足を入れた政志が沙羅へ顔を向けた。
「じゃ、いってくる」
「……いってらっしゃい」
沙羅からの小さな声に、政志はホッと息を吐き、歩き出した。
玄関ドアがパタンと閉じると、沙羅はヘナヘナと|上がり框《あがりかまち》にヘタリ込む。
信頼を失った状態で、夫婦で居る苦痛を味わいながら、この先何年も過ごせるのだろうか。
政志を好きだったからこそ、快適に暮らせるように、心を尽くして家事をこなし節約も頑張った。
けれど、不倫を知った今、他の女性を抱いたという嫌悪感を感じながら、これまでと同じように暮らすのは辛すぎる。それに、不倫相手の片桐が妊娠までしているのに、どんなに謝られても許せない。
土下座したから謝罪は済んだと思われたら、また不倫を始めるはず。妻を軽んじている夫なら尚更だ。
「離婚か、再構築かなんて……どうしたらいいの」
洗濯機のスイッチを押すと、沙羅はそのまま浴室に入り掃除を始めた。
ゴシゴシと目地を擦り、シャワーでさっぱりと洗い流す。
作業の間は無心になれて、余計な事を考えずに済むから、掃除や洗濯などの家事をするのは嫌いじゃない。
けれど、どんなに頑張っても、認めて貰えない虚しさもある。
これが、外での仕事なら労働の対価として、目に見える形のお金となる。主婦の場合は、家族からの感謝の気持ちが労働の対価なのかも知れない。
でも、家が綺麗なのがあたり前だと思われて、家族から感謝をされないなら、タダ働きと同じだ。
「私も外で仕事しようかなぁ」
なにげなく口をついた言葉だが、沙羅には名案のように感じられた。
政志ほどの収入には、到底およばないにしても、自分で稼いだお金があれば気持ちに余裕が持てる。
仕事に慣れて来たなら、離婚も具体的に考えられるようになるはず。
政志と一緒に居るのが辛い。
そればかりが、沙羅の脳裏に浮かぶ。
長年夫婦をしていれば、つい魔が差して目移りしてしまうしてしまう事もあるだろう。
でも、一番幸せにすると誓った伴侶が居る状態で、不倫をするのは、伴侶を悲しませる行為だ。
揺れる感情が走り出しても、伴侶を思えば、それを理性で踏み留める事が出来るはず。
不倫をすれば、伴侶が悲しむというのを知っていて、それでも、感情のままに自分の欲求を優先するのは最低な行為だ。
なによりも、不倫相手と子供まで作っておきながら、今までと同じ暮らしをするつもりでいる政志が許せない。
でも、離婚となれば、美幸に寂しい思いや不自由な暮らしをさせるだろう。だから、政志との離婚にはためらいが生じる。
この気持ちの妥協点を見つけられたならいいのに……。
一通りの家事を終えた沙羅は、バッグの中から離婚届を取り出した。ダイニングテーブルの上に広げ、それを見つめる。
まさか、自分が離婚届と向き合う日が来るなんて、一昨日までは考えたこともなかった。
沙羅は細い肩を落とした。
離婚届を見つめていた沙羅は、あることに気が付く。
それは、「結婚前の氏に戻る者の本籍」という欄だ。
「これって……」
暗闇の中で、わずかな光を見つけたように、沙羅は急いでノートパソコンを立ち上げた。
検索欄に「離婚届 書き方」と入力する。
モニターに表示された検索結果を順に見て行き、上から5番目に記載されている弁護士事務所のページを開く。そのホームページは、一般の人向けに専門用語などを使わない仕様で分かり易い。
これなら理解出来そうだと、沙羅は内容を読み進める。
”離婚届書き方の見本”と書かれている様式を見ながら、フムフムとうなずいて、手元のノートに要点のメモを取る。
特に「結婚前の氏に戻る者の本籍」の項目については、念入りに読み込んだ。その中のある項目に辿り着くと、「この用紙をダウンロードする」と書かれた部分をクリックした。それに反応して、プリンターが一枚の紙を吐き出し始める。
機械音が止まり、沙羅は印刷した紙を離婚届の横に並べた。
「これで、どうにかなるかも……」
正直な所、法律の専門家でも無い自分の思い付きなど、浅はかな考えなのかも知れない。でも、気持ちを持って行く場所が見つからない状態から、抜け出すために藁をも縋る思いだ。
「不倫しておいて、土下座で謝れば、何もかも元通りになるなんて、絶対に無理だと思い知ればいいのよ」
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