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「……お父さん? どうしたの、そんなに震えて」
自称・俺の妻である女が、心配そうに歩み寄ってくる。
その手が俺の肩に触れた瞬間、焼けつくような熱さを感じて、俺はなりふり構わずその手を振り払った。
「触るな! 俺は坂上じゃない! 佐藤だ、佐藤タクミだ!」
叫んだ声は、自分でも驚くほど低く、ひび割れていた。俺の知っている通る声じゃない。
タバコで焼けたような、見知らぬ男の濁声だ。
女は一瞬、悲しげに眉をひそめたが、すぐに諦めたような溜息をついた。
「また始まった……。お父さん、もうその冗談はやめて。佐藤さんっていうのは、あなたが三年前の事故で……」
女の言葉を最後まで聞く勇気はなかった。
俺は女を突き飛ばすようにして玄関を飛び出し、夜の街へ駆け出した。
証明しなきゃいけない。俺が「佐藤タクミ」であることを。
俺は深夜営業の区役所の時間外窓口へと向かった。
戸籍、指紋、免許証。公的なデータなら、この狂った現実を否定してくれるはずだ。
「……戸籍の照会をお願いします。佐藤タクミ、昭和63年生まれです」
窓口の職員は眠そうな目をこすりながら、端末に情報を打ち込む。
キーボードを叩く音が、死刑宣告の秒読みのように聞こえる。
「……あの、お客様。佐藤タクミさんは、三年前の事故ですでに除籍されていますが」
「バカな! 俺はここにいる! 免許証を見てくれ!」
俺は財布から運転免許証をひったくるようにして差し出した。
そこには、確かに「佐藤タクミ」という名前と、俺の住所が記載されているはずだった。
だが、窓口の男が受け取ったカードを見て、怪訝な顔をした。
「……お客様、これは『坂上 剛』さんの免許証ですよ。有効期限も切れていませんし、お写真も……ご本人ですよね?」
「え……?」
俺が男の手からカードを奪い返して見つめると
そこには、右目の下に深い火傷の痕がある、見知らぬ男───坂上剛の顔写真が印刷されていた。
名前も、住所も、生年月日も。
俺の指が触れた場所から、インクがじわりと滲み、書き換わっていくのが見えた。
「あ……ああ……」
俺は免許証を放り出し、窓口を離れた。
自分の名前を思い出そうとする。
さ、と、う、た、く、み。
口の中で繰り返す。
だが、繰り返すたびに、その音が意味をなさなくなっていく。
代わりに、「坂上」という響きが、心臓の鼓動に合わせるように脳内で増幅していく。
ふと、街頭のショーウィンドウに映る自分を見た。
そこにはもう、佐藤タクミを探していた俺はいない。
作業着を着て、薄汚れた帽子を被り
人生に疲れ果てた「坂上」という名の男が立っているだけだった。
俺は、自分の本当の誕生日はいつだったか?
美咲と初めて出会った場所はどこだったか?
必死に思い出そうとするが、記憶の引き出しが、誰かに鍵をかけられたように開かない。
「……美咲……」
その名前を呼ぼうとしたとき、脳裏に全く別の女性の笑顔が浮かんだ。
さっきの、家で待っていたやつれた女。
『剛さん、おかえりなさい』
「違う……俺が愛しているのは、美咲だ……美咲なんだ……!」
俺は頭を抱えて路上に膝をついた。
記憶という名のインクが、真っ黒に塗りつぶされていく。
俺という存在が、この世界から完全に消去されるまで、もう時間は残されていなかった。
#ダークファンタジー