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#ダークファンタジー
逃げるようにたどり着いたのは、あの駅前の電話ボックスだった。
もう、ここしかない。
深夜2時
街灯の光が弱々しく俺を照らす。
俺の手は、もう完全に「坂上」のものだ。
爪の間には取れない油汚れが染み込み、指の腹はタコで固くなっている。
震える手で、小銭を放り込む。あの番号を回す。
祈るような気持ちで受話器を握りしめた。
『……はい、遺失物管理所です』
出た。あの、反吐が出るほど穏やかな声。
「おい……おい! 答えろ! 俺の戸籍が、顔が、名前が消えていくんだ! こんなの、指輪の代わりにしては高すぎるだろ!」
俺は受話器に向かって、獣のような声で吠えた。
老人は、短く、楽しげにフフッと笑った。
『高すぎる? おかしなことを。あなたは「美咲さんといた時間」を、何よりも大切だと言った。だから私は、その願いを叶えたのですよ』
「叶えた? 冗談抜かすな! 誰がこんな、見知らぬ男の人生になれと言った!」
『いいえ、あなたは望んだ。……今の「佐藤タクミ」という席には、もう美咲さんはいない。事故で死んだ、過去の人だ。……でもね、「坂上剛」という男の隣には、美咲さんが生きている世界があったのですよ』
頭を殴られたような衝撃が走った。
あの家で俺を待っていた、やつれた女。
暗い部屋で、俺を「お父さん」と呼び、微笑んでいたあの顔。
……思い出した。
深く刻まれた皺、疲れ果てた目。
でも、その口元のホクロ。笑い方の癖。
あれは、20年後の、苦労を重ねた末の───美咲だった。
「……あ……」
『坂上剛は、20年前に美咲さんと結婚し、そして……一週間前に「自分自身を捨てたい」と願って、ここを去った男です。彼はあなたの人生・佐藤タクミを買い、あなたは彼の人生・坂上剛を買った。……空いた席を埋める。それが、ここのルールです』
俺が手に入れた指輪。
それは、坂上が美咲に贈った指輪だったのだ。
俺が知っている「佐藤タクミ」としての美咲は、死んだ。
でも、この「坂上剛」としての人生を選べば、美咲は、生きている。
「じゃあ……俺が坂上になれば、彼女と生きていけるのか?」
『ええ。ただし、あなたはもう二度と「佐藤タクミ」を名乗ることはできない。もし名乗れば……その瞬間、この世界の美咲さんも消えることになるでしょうな』
老人の声が、遠ざかっていく。
受話器から聞こえるのは、もう砂嵐の音だけだった。
俺は電話ボックスのガラスに額を押し当てた。
鏡に映る俺は、薄汚れた中年男だ。
でも、この男の記憶の断片が、濁流のように俺の中へ流れ込んでくる。
美咲との結婚式。
子供が生まれなかった寂しさ。
借金、病気、喧嘩……そして
彼女を守り抜こうとした、泥臭い20年の歳月。
「……これが、俺が欲しがったものなのか?」
ポケットの中の指輪が、ずっしりと重い。
それは愛の証か。それとも、逃れられない呪いの枷か。
俺は、自分の名前を口にしようとした。
「さ……」
しかし、舌がもつれて、音にならない。
俺の脳が、魂が
佐藤タクミという情報を「不要なゴミ」として排出し始めていた。