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この作品、深夜テンションで書いてます。
徹夜で書いた☆
その個体に終わりの刻が訪れたのは、湿り気を帯びた重苦しい朝のことだった。太宰の身体は、数え切れぬほどの産卵を繰り返した果てに、もはや自浄作用すら失いかけていた。かつては滑らかだった肌は土色に沈み、琥珀色の薬液をいくら流し込んでも、胎内は不毛な砂漠のように反応を返さない。組織が定める収穫基準を下回ったその瞬間、彼女は「母体」としての役割を剥奪され、次の工程へと回されることが決定したのである。
中也は、もはや呼吸をすることさえ億劫そうにしている太宰の元へ歩み寄った。彼女の瞳は濁り、焦点はどこか遠い虚空を彷徨っている。かつて、卵を奪われるたびに狂ったように叫んでいた面影はどこにもない。ただ、時折唇を震わせ、形にならない音を漏らすだけである。中也はその細すぎる身体を、まるで壊れ物を扱うような手つきで、しかし迷いなく抱き上げた。
「……中也。……どこに、……行くの……」
太宰の声は、掠れた風の音に似ていた。中也はその問いに答えることなく、彼女を運搬台へと横たえた。彼女に与えられた最後の贅沢は、中也が自らその行く末を見届けることだけであった。中原中也という管理官にとって、これは事務的な処理の一つに過ぎないが、その一方で、使い古された道具を廃棄場へ運ぶ際のような、奇妙な静謐さが胸中を支配していた。
施設の外壁を抜け、地下深くへと続く通路を進む。太宰は意識が混濁しているのか、中也の服の袖を弱々しく掴んでいた。彼女は自分がどこへ連れて行かれるのか、何が行われるのかを正確には理解していない。ただ、産卵の苦しみから解放されるという甘い予感と、中也が傍にいるという事実だけが、彼女の微かな支えであった。
やがて、重厚な鋼鉄の扉が行く手を阻む。そこは「肉」としての付加価値を最大化するための、加工場であった。扉が開くと同時に、鼻を突くのは強烈な消毒液の匂いと、微かに混じる鉄錆のような血の香りである。清潔でありながら死の気配が濃厚に漂うその空間には、数々の鋭利な刃物と、解体用の自動機械が整然と並んでいた。
太宰は、運搬台から解体用の固定台へと移される際、ふと正気に戻ったかのように目を見開いた。彼女の視線の先には、先ほどまで作業が行われていたのであろう、未だ真っ赤な液体の滴る大きな鉤や、部位ごとに切り分けられた「何か」を収めるための白い箱が積み上げられていた。
「……、……中也? ……あ、……ここ、……なあに……」
震える声が、白磁の壁に反響する。中也は無言で彼女の手首に固定具を嵌めた。その冷たい金属の感触が、太宰の心に決定的な恐怖を植え付けた。彼女は、あの日スーパーの片隅で見た、美しい木箱に収められた赤い肉の塊を思い出した。あの時、中也が向けた冷酷な眼差しと、今の彼が浮かべている無機質な表情が、鏡合わせのように一致する。
「……やだ、……やだぁ! ……中也、……離して! ……帰りたい、……お部屋に、……帰りたいよ……っ!!」
太宰は狂ったように叫び、痩せこけた身体を捩らせた。だが、固定具は無慈悲に彼女の自由を奪い、頭上の冷たい光源が、彼女の絶望を克明に照らし出す。彼女は理解した。自分はもう、愛おしい子供を産む存在ではない。これからは、誰かの飢えを満たすための、ただの肉片に成り下がるのだということを。
「……中也! ……助けて! ……わたし、……まだ産めるから! ……もっと頑張るから! ……殺さないで、……細切れにしないでぇ……っ!!」
中也は、彼女の悲鳴に耳を貸すことはなかった。彼は職務として、解体作業の開始スイッチに指をかけた。長年、何代もの太宰を見送ってきた彼にとって、この瞬間の感念はもはや麻痺している。それでも、彼女が最後に中也の名前を呼び、血の涙を流しながら自分を呪い、あるいは救いを求める姿は、彼の記憶の底に澱のように積み重なっていく。
「……さらばだ、太宰」
その一言を最後に、機械の駆動音が太宰の絶叫を塗り潰した。鋭利な刃が空を切り、太宰治という一個体は、瞬く間に組織的な解体工程へと組み込まれていった。彼女の悲鳴が途絶え、部屋に流れるのは、生命の源であった赤い液体が排水溝へと吸い込まれていく音だけになった。
数日後、街の高級スーパーには、新たな「目玉商品」が並んでいた。白く輝く冷気が漂う棚の一角に、一際鮮やかな色彩を放つ肉のパックがある。その上には、『入荷直後! 特選太宰肉』という極彩色の看板が躍っていた。買い物客たちは、その肉がいかに稀少で、いかに美味であるかを囁き合いながら、次々と手を伸ばしていく。
中也は、勤務の帰りにその棚の前を通りかかった。彼が数日前までその身を弄り、導入液を流し込み、最期には自らの手で工場へと送った少女の成れの果てが、今は数万円の値札を付けられて、無機質に陳列されている。中也はその光景を眺めながら、自らの指先に残る彼女の体温の記憶を振り払うように、深く帽子を被り直した。
この肉を食べる者は、その生命がどれほどの恐怖と絶望の中で産み落とされ、育まれ、そして断たれたかを知ることはない。ただ、舌の上でとろけるような甘美な脂の乗りに、至福の吐息を漏らすだけである。太宰の存在は、そうして他者の欲望の一部となり、横浜の喧騒の中に消えていく。
中也は一パックの肉を手に取ることもなく、足早にスーパーを後にした。彼の足取りは、既に次の「孵化」へと向かっている。管理室の奥深くで、また新たな卵が産声を上げようとしている。中也にとっては、これが日常であり、彼という存在を定義づける唯一の円環であった。
振り返ることはしない。悲しむことも、怒ることもない。ただ、太宰が最期に見せたあの「人間としての絶望」の表情だけが、夜風に吹かれる彼の背中に、消えない烙印のように焼き付いていた。
(続く)