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あの日、仁がクラスの前で真実を証明してくれたことで、何かが大きく変わった。
クラスの空気は、まるで水の中から顔を出したみたいに、少しずつ呼吸できるものに変わっていった。
とはいえ、すぐに全部が元通りになるわけではなかった。
誰かに話しかけられるたび、みなみは心臓が跳ねるように動いたし、廊下ですれ違うだけで視線を感じるたび、足がすくみそうになった。
でも、逃げなかった。
逃げたくなかった。
仁が、自分のために立ち上がってくれたから。
そしてなにより、自分自身が、もう過去のままではいたくなかったから。
数日が経ち、昼休み、教室の端でひとりお弁当を広げていたみなみに、誰かの影が近づいた。
「ここ、座ってもいい?」
声をかけてきたのは、同じ班だった女の子――宮野だった。いじめに加担していたわけではないが、あの噂が流れたときも、誰より早く距離を取った子だった。
みなみは、少しだけ警戒した。けれど、宮野はその視線をまっすぐに受け止め、静かに口を開いた。
「ごめん。あのとき、ちゃんと話を聞かなくて……怖かったんだ、自分も巻き込まれるのが」
沈黙。
みなみはゆっくり箸を置き、息を吐いた。
「うん、……正直、すごく辛かった。でも、わたしも、全部に勝てたわけじゃない」
宮野は微笑んだ。どこか、安心したような表情だった。
「じゃあ、やり直そう。もう一回……同じクラスメイトとして」
みなみも、小さく頷いた。
あの瞬間、自分の中の“壁”がひとつ崩れた気がした。
放課後、仁と図書室に向かう途中、みなみはふと立ち止まった。
「ねぇ、仁くん」
「ん?」
「……私、自分のことずっと“壊れてる”って思ってた」
仁は驚いたように立ち止まり、みなみの方を見た。
「でも、最近ちょっとだけわかってきたの。壊れてたんじゃなくて、傷ついてただけだったんだって」
その言葉は、まっすぐだった。今までの彼女なら言えなかったような、自分自身を受け入れる言葉だった。
「そっか」
仁はただ、それだけを言って笑った。
みなみも笑った。心の奥に、じんわりと灯りがともるような気がした。
図書室の席につき、ページをめくりながら、みなみは考えていた。
あの日、仁と出会わなければ、今の自分はなかったかもしれない。
でも、それと同じくらい――
仁が信じてくれたから、今ここに座っている。
「ねぇ、仁くん」
「ん?」
「私ね、春が少し好きになったよ」
仁は顔を上げ、驚いたように笑った。
「前は嫌いだったんだっけ」
「うん。人が浮かれてるみたいで、自分だけ取り残されてる感じがしてた」
「……でも、今は違う」
「うん。今は、誰かと一緒に春を見てるから」
窓の外では、桜の花びらが風に吹かれて揺れていた。
季節は静かに、けれど確かに移り変わっていく。
みなみの心もまた、少しずつ色づき始めていた。
クラスの空気は、完全に元通りではない。信じてくれなかった人の視線に、まだ少し胸が痛むこともある。
でも、それでも。
「私、もう前を向いてるから」
そう小さく呟いて、みなみは教室のドアを開けた。
そこには、昨日と少し違う“今日”があった。
「みなみ、明日って一緒に帰れたりする?」
教室で支度をしていたとき、後ろから声をかけられた。
振り返ると、そこにいたのは伊藤だった。以前はいじめを見て見ぬふりをしていた一人。少し気が強くて、みなみが“怖い”と感じていた相手だ。
みなみの表情が一瞬、緊張でこわばったのを察してか、伊藤はすぐに続けた。
「……あのね、私もあのとき、すごく後悔してたんだ。信じることを最初から捨てて、言い訳してた。自分が傷つくのが怖くて、ずるかった」
まっすぐな言葉だった。飾っても、取り繕ってもいない。
「だから、せめて……一緒に歩きたい。少しずつでも、友達になれたらって」
その言葉に、みなみの目に、ふっと涙が浮かんだ。
「うん……私も、そうなれたら嬉しい」
たった一言。それだけで、胸の奥がふわりと軽くなった。
今までは「自分を守る」ために閉ざしていた扉が、少しずつ開いていくのがわかる。
仁と出会って、何かが変わり始めたのは確かだったけれど――
こうして「周りの人たち」と心が通い始めた今、初めて、みなみは「世界が変わり始めた」と思えた。
帰り道。いつものように仁と並んで歩いていると、みなみはふと立ち止まり、鞄から小さなメモ帳を取り出した。
「これ、何?」
仁が首をかしげると、みなみは少し恥ずかしそうに笑って見せた。
「“ありがとう”をちゃんと覚えておこうと思って。忘れたくないの」
そう言って、ページを開くとそこにはこう書かれていた。
『齋藤仁 わたしを信じてくれて、ありがとう。
宮野さん もう一度話してくれてありがとう。
伊藤さん 一緒に帰ろうって言ってくれてありがとう。』
仁はそれを読んで、しばらく言葉が出なかった。
「お前……ほんと、強くなったな」
「ううん。……みんなのおかげで、ようやく、変われただけ」
「でも、その“変わろう”って思えたのは、お前自身だろ」
仁の言葉に、みなみは照れ笑いを浮かべてうなずいた。
その夜、みなみは机に向かい、久しぶりに日記を開いた。
以前は、ただ感情を吐き出すだけのノートだった。でも今は、未来へとつながる希望を書く場所に変わっていた。
『少しずつだけど、私は私を好きになれてる。
まだ怖いこともあるけど、誰かを信じたいって、また思えるようになった。
仁くんがいてくれたこと、クラスのみんなが変わってくれたこと。
全部、ぜんぶ、奇跡みたいな日々です。
――ありがとう。』
みなみはペンを置き、窓の外に目を向けた。
夜空には、うっすらと月が浮かんでいた。
優しい光が、まるで「よくがんばったね」と言ってくれているように思えた。