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その日、みなみは朝から胸の奥がざわついていた。
目覚めたときから、何かが違う――そんな感覚があった。
最近は、学校に行くのが怖くなくなった。
クラスに少しずつ笑顔が戻り、仁とも穏やかな日々を過ごせている。
だけど、それでも、心のどこかにずっと引っかかっているものがあった。
――家族。
母は今も、家にいる。
父はもういない。離婚して、ずっと前に出て行った。
けれど母との関係は、それよりずっと重たかった。
みなみは、物心ついたときから怒鳴られていた。
テーブルをひっくり返されたり、暴力の音が部屋に響くたびに、心が何かを閉じていった。
“信じる”ことを覚えたときには、すでに“信じてはいけない”と刷り込まれていた。
だけど――今は、違う。
仁がいて、クラスの子たちとも少しずつ話せるようになって。
「人を信じていいんだ」と思えるようになってきた。
だからこそ、過去のままじゃいけない気がした。
過去を置き去りにしたままじゃ、たぶん、自分を許せないままになってしまう。
放課後、みなみは仁に声をかけた。
「仁くん、今日……少し話せる?」
「うん、どうした?」
二人で図書室の隅の窓際に座る。いつもの静かな空間。だけど今日の話は、いつもより少しだけ重たかった。
「……私、家に帰るのが、今でも怖いんだ」
仁は目を伏せずに、じっと聞いていた。
「小さい頃から、お母さんに怒鳴られてばかりで……暴力もあって。でも私、いつか笑って話せる日が来るって……ずっと期待してたんだ」
みなみの声は震えていた。
「でも、無理だった。何度も裏切られて、いつのまにか、期待もしなくなった。今は、ただ無言で帰って、部屋にこもって……それで終わり」
仁はしばらく黙ってから、静かに言った。
「それでも、話してくれてありがとう。……お前は今、ちゃんと前を見てる」
「見てる……かな」
「見てる。……もし、お母さんと話したいって思ったら、無理にじゃなくていい。けど、逃げたくないって思ったなら、俺は隣にいる」
その言葉に、みなみは涙を浮かべてうなずいた。
その日の夜。
みなみはリビングの前で立ち止まっていた。
薄暗い廊下。ドアの奥からは、テレビの音が微かに聞こえていた。
母の声はしない。いつも通り、存在はそこにあるけれど、会話はなかった。
ゆっくりと扉を開けると、母はソファに座ってスマホを見ていた。
「……なに?」
冷たい声。返事ではなく、壁だった。
みなみは一歩、前に進んだ。
「話したいことがあるの」
母は顔を上げ、怪訝そうな目を向けてきた。
「……今さらなによ」
それでも、逃げなかった。
「私、ずっと怖かった。でも、本当はずっと、わかってほしかった。
お母さんに怒鳴られるたびに、私が全部悪いんだって、思ってた」
母の表情に、少しだけ動揺が見えた。
「でも、私はもう、自分を責めたくない。
誰かと笑って生きていきたいって、初めて思えたの」
みなみは言い切った。心の奥にずっと閉じ込めていた想い。
泣いているわけでもない。ただ、静かに、はっきりと話した。
母はしばらく黙っていた。やがて、ぽつりとこぼした。
「……なによ、それ。あんた、勝手に育ったくせに」
その言葉に、傷つかなかったわけじゃない。
でも、もう心は折れなかった。
「私は、勝手に生きてきたけど、勝手に強くなったわけじゃない。
信じてくれる人がいたから、やっと立てたの。……もう、戻らない」
それだけ言って、みなみはリビングを出た。
その夜、みなみは仁にメッセージを送った。
「言えたよ。
怖かったけど、ちゃんと伝えられた。
でも、今は不思議と、心が静か。」
仁からすぐに返信が届いた。
「よく頑張ったな。
みなみは、前よりずっと強い。
俺も、ちゃんと前を向く。お前の隣で。」
その文字を見て、みなみはスマホを胸に抱いた。
そして、深く息を吸い込んだ。
過去は変えられない。でも、自分は変われる。
それを証明できた今日、みなみは少しだけ――大人になれた気がした。
もちろんです。【第8話】の続きをさらに丁寧に描写して、みなみが「家族との過去」と向き合った“その後”の静けさや余韻、そして再び日常に戻っていく過程までしっかり描きますね。
【第8話】あの家の玄関を開けるまで(続き)
ドアを閉めると、家の中の空気が少し変わったような気がした。
誰かが怒鳴る音も、物を投げる音もしなかった。
それだけで、今までの「家」がどれほど息苦しかったのか、改めて感じる。
自分の部屋に戻り、みなみは机に向かった。
手のひらにまだ微かに残っている鼓動の余韻。母と言葉を交わすことはあっても、「対等」に話したのは初めてだったかもしれない。
“勝手に育ったくせに”という言葉。
その奥にあったのは、やっぱり冷たさと責任放棄だった。
でも……その声は、前ほど怖くなかった。
むしろ、呆れていた。
どこか、投げやりなようでいて、みなみの変化に戸惑っているようにも見えた。
(お母さんが変わるかどうかは、わからない)
(でも、私が変わったことは、もう消えない)
みなみはそう思った。心の中に、柔らかくて、でも芯のある何かが生まれているのを感じた。
次の日、朝の通学路。
仁がいつものように校門前で待っていた。
「……おはよう」
みなみが声をかけると、仁はちょっとだけ驚いたように顔を上げて、すぐに笑った。
「おはよう。……顔、ちょっと明るい」
「そうかな」
「うん。なんか、ふわっとしてる。……いい意味で」
「昨日ね、母さんと話したの。ちゃんと、自分の言葉で」
仁はその言葉に目を見開き、それから深く頷いた。
「……そっか。……すごいな、お前」
「ううん。すごくないよ。怖かったし、まだ怖い。でも、あのままじゃ、やっぱり前に進めなかったから」
「……偉いよ、ほんとに」
みなみは少し照れて笑った。そしてふと、隣を歩く仁の手を、そっとつかんだ。
驚いたように仁が振り向く。けれど、みなみはそっと言った。
「これからも、怖くなったとき、手をつないでもいい?」
仁は一拍おいてから、優しく笑って、こう言った。
「俺が先に、つなぐつもりだったけどな」
二人は手をつないだまま、春風の中を歩いた。
通学路の桜が、つぼみをほころばせはじめていた。
学校では、何気ない日常が戻ってきていた。
クラスメイトたちは、事件のことにもう触れなくなった。気を遣っているのか、それとも“普通”を戻してあげたかったのかは、わからない。
だけど、それでも。
みなみは“自分の席”に座るのが、前より少しだけ安心できるようになっていた。
そして――放課後。
図書室で、仁がみなみにふと尋ねた。
「お前さ、卒業したら、何したい?」
みなみは少しだけ考えてから、ぽつりと答えた。
「誰かの“心”を守る人になりたいなって……思うようになった」
仁は頷いた。
「心理系、進もうとしてるって言ってたよな」
「うん。私みたいな子が、もう少し“声を出せる場所”を作れる人になりたい」
「……すげぇな」
「そうかな?」
「俺の将来の夢、めっちゃ恥ずかしくなるくらい……」
「なにそれ、気になる」
仁が照れくさそうに笑いながら、鞄をゴソゴソと探る。
取り出したのは、一枚の封筒だった。進学先の仮内定通知。
「実はさ、俺も心理学部、受けてんだ。……お前のそばにいたくて」
みなみはそれを見て、目を見開いた。
「え……ほんとに?」
「うん。理由は不純かもだけど……俺、本気でお前のこと、支えたいと思ったから」
ふと、涙が滲んだ。悲しいわけじゃない。温かくて、どうしようもなく満たされている気持ち。
「じゃあ、卒業しても一緒に……」
「うん。これからも、一緒に」
夕陽の差し込む図書室で、二人は微笑み合った。
外では春一番の風が吹き始め、窓をかすかに揺らしていた。
みなみの中で、“過去”という重しが、確かに外れていくのがわかった。
その代わりに今は――未来という言葉が、少しだけ楽しみに思えてきていた。