Side 黄
「…すいません、マスター」
控えめな声がして、ふと顔を上げる。ついうつらうつらしていたようだ。
「あっはい」
若い男性がこっちを見ていた。ジントニックのグラスは空になっている。
「ちょっときつめのお酒を飲んでみたいんですけど、何かおすすめはありますか?」
俺は彼を見返した。バーテンダーとしての経験から見るに、この人はあまり強そうではない。「普通」なのかもしれないが、一杯目のペースもさほど速くはなかった。
「…かしこまりました。どんなお味がお好みですか」
それでも、提供する側としてそう口にする。
「爽やかなやつ…かな。フルーティーな?」
やっぱりだ、と思った。通な人なら独特な味のを好むお客も多いけど、初心者などはフルーツから作るカクテルを勧めるから。
「あ」と思いつき、笑顔を浮かべる。「この間新しく考えたカクテルをお作りしましょうか。レモンを使った、甘酸っぱいお味です」
それはいい、と彼も笑う。「お願いします」
仕込んでいたものを準備していると、彼が口を開いた。
「アルコールが強いと、やっぱ眠れるんですか?」
「…個人差ですよ。僕の場合は、関係ないんですけどね」
うなずいた彼は、唇の端を緩めた。
「俺、不眠なんです」
そして唐突に言った。
「だからいっつもこうして夜に外に出てて。行き先も決めずに、朝になったら帰って。仕事もバイトしかできてなくて…」
言葉が途切れたところで、カクテルのグラスをそっと差し出した。「お待ち遠さまです」
ありがとうございます、と言って手に取る。
「ご一緒してもよろしいでしょうか」
ぜひ、と言ってくれたので、俺は自分のグラスにギネスビールを注いだ。
「僕は…逆に昼間に寝ちゃうんですよ」
一口含むと、いつの間にか喋っていた。彼が顔を上げる。
「過眠症っていうので、意思に関係なく眠気が襲ってきて眠っちゃう。嫌なものです。だから、わざと自分で昼夜逆転させてるんです」
彼が微笑んだ。そしてわずかにうつむく。ほんのり朱が差した色白の肌に、黒髪がかかって影が落ちる。
「…なんか、似てますね。俺とマスター」
「そうですね」
繁華街の片隅の、特に人気はないバー。
そこにたった二人、初めて出会ったマスターとお客さん。
確かに今、繋がっている。
俺は少しだけ嬉しくなった。
「美味しいです、このカクテル。ちょうど飲みたかった味で」
俺これ好きだな、と笑みを見せる。アルコール度数の低いお酒で作ったので、飲みやすいだろう。
「恐縮です」
恭しく頭を下げて、黒い蝶ネクタイに触れた。
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