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おまる
昨夜のフラッシュバックの余韻で、私は少し腫れた目のまま朝を迎えた。
朝食の席、高瀬君はいつも通り明るく振る舞ってくれたけれど
私に触れる時は細心の注意を払っているのが分かった。
「……高瀬君。昨日は、ごめんね」
「謝らないでください。俺、決めたんです。先輩が俺の手を見て『安心する』って思えるまで、何度でもやり直そうって」
夕食後、リビングのソファ。
彼は私と少し距離を置いて座り、テーブルの上に自分の右手をそっと置いた。
「リハビリ、始めましょうか。……まずは、俺が動かさない状態で、先輩から触れてみてください」
「私から……?」
「はい。俺から動くと、どうしても構えちゃうでしょ?だから、凛さんのタイミングでいいので…指先だけでも」
私は唾を飲み込み、彼の手をじっと見つめた。
仕事でキーボードを叩く、逞しくて器用な手。
私を守るためにナイフを持った男を制圧した、強い手。
……そして、昨夜私が怯えてしまった、大きな手。
震える指先をゆっくりと伸ばす。
あと数センチというところで、心臓が跳ね、反射的に引っ込めそうになる。
けれど、高瀬君は微動だにせず、ただ優しく私を見守っていた。
(……大丈夫。この人は、私を叩かない。この人は、私を壊さない)
自分に言い聞かせ、ようやく私の人差し指が、彼の甲に触れた。
「っ……」
一瞬、背筋が粟立ったけれど、伝わってきたのは不快な衝撃ではなく
確かな、生きている人間の体温だった。
「……あったかいわね」
「生きてますからね。……そのまま、ゆっくり撫でてみてください」
促されるまま、指先を滑らせる。
ゴツゴツとした関節、浮き出た血管。
男の人特有の硬い質感。
宏太の時は、この感触が暴力の予兆でしかなかった。
でも、高瀬君の手からは、不思議と凪いだ海のような静かな強さが伝わってくる。
「……怖くない、わ。……不思議」
「よかった。……じゃあ、次は俺から少しだけ動かしていいですか?」
彼がゆっくりと指を曲げ、私の指を絡めるようにして握った。
昨日、あんなに怖かったはずの「把握」される感覚。
けれど、彼の手の力加減は、まるで絹の糸を扱うように繊細で、甘い。
「……よし。今日はここまで。頑張りましたね、凛さん」
彼がふっと顔を綻ばせ、私の指を離した。
その途端、なぜか胸の奥がチリッと痛んだ。
もっと触れていたい。
もっと、この熱に浸っていたい……。
「……ねえ。もう一回だけ、いいかしら」
「え?」
私は自分でも驚くほど素直に、彼の服の袖をぎゅっと掴んだ。
昨夜のような恐怖の依存じゃない。
彼という存在を、もっと近くに感じたいという、渇望に近い欲求。
「…明日も、明後日も……治すの、手伝ってくれる?」
「……もちろんです。凛さんが『もう十分』って言うまで、付き合いますから」
高瀬君は少し驚いた後、今度は迷いなく
私の頭を優しく、本当に優しく撫でた。
今度は、ビクッとならなかった。
彼の温もりが、私の凍りついた記憶を指先から少しずつ溶かし始めていた。
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