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(瑞記?)
彼が帰宅するとは思っていなかった。園香は驚き椅子から立ち上がる。
そうしているうちにリビングの扉が開き、ボストンバッグを手にした瑞記が入って来た。
彼は園香を視界におさめると暗い顔をした。
「いたのか」
失礼な態度と言葉に苛立ちを覚えたが、顔に出さずに口を開く。
「お帰りなさい」
「ああ……丁度よかったかもしれないな」
「ちょうどいい?」
「園香に言っておくことがあるんだ」
憂鬱そうな暗い顔をしていた瑞記が、突然居丈高な表情に変わる。体の前で腕を組む姿勢をとり園香を見据えた。
「離婚はしないことにしたから」
「え?」
怪訝な表情の園香に、瑞記は苛立ちの表情で続ける。
「この前離婚の話が出ただろう? 考えた結果離婚はなしにすることに決めたってこと」
彼の言い方は夫婦についての今後を話し合う、のではなく決定事項を伝えるものだった。
「……初めに離婚を言い出したのは瑞記だったはずだけど」
気を遣いながら穏やかに話しても、瑞記には通じない。都合よく解釈して話が終わってしまうと何度かの言い争いを経て気付いているのではっきり否定しなくてはならない。
(瑞記はすぐに曲解するんだもの。その度に違うと声を上げないとおかしなことになる)
「僕が言ったのはこのままだといずれ離婚になるってことだろ? 離婚するなんて言ってないのに、園香が勝手に騒ぎ始めたんだ」
「瑞記は私の態度が気にいらなくて、今後態度を改めないなら離婚になるって言ったはず。だから私は自分を変えるつもりはないから離婚でいいと返事をしたのよ」
即座に言い返すと、瑞記が不快そうに眉を顰めた。
「私は仕事を辞めるつもりはないし、他の面でも瑞記の気に入らない行動をするかもしれない。そもそも私たちは考え方や価値観が合ってないと感じているの」
「価値観が違う? そんなの離婚したい奴の言い訳じゃないか! どうして合わせようとしないんだよ!」
瑞記は柔和な容姿が与える印象とは違い、激高しやすい。今のところ意図的な暴力は振るわれていないけれど、以前強く手を振り払われたことがあるから、油断は出来ない。
(すごくイライラするけど、私はこれ以上感情的にならないようにしなくちゃ)
「僕が離婚しないって言ってるんだから、感謝するところじゃないのか?」
(でもむかつく! 瑞記はどうしてこんなに偉そうなの?)
瑞記は園香がおかしいと言うけれど、園香からすれば瑞記が異常に勝手に思える。
(彼と平和的に議論出来る人なんて存在するの?)
「ほら、結局言い返す言葉がないんじゃないか」
園香が懸命に落ち着こうと努力している姿を見てまた曲解したのか、瑞記が得意気な顔をする。
いろいろ文句はある。しかし園香はその気持をぐっと堪えた。
「瑞記が何と言おうと私は離婚に向けて動くつもりだから。こんな風に言い争ってばかりいるより、別れてやり直した方がお互いの為になるはずだから」
「まだそんなことを言ってるのか?」
「まだって……私は離婚を決心するまでに沢山悩んだの。決心した以上考えを変えるつもりはない」
瑞記のように感情的に突っ走っている訳じゃないのだ。
(どうせまた怒り狂って出て行くんでしょう?)
これまでの経験から、瑞記は思い通りにならないと家を飛び出して数日帰宅しなくなる。今回も同じようなものだろうと、被害を受けないように距離を置いて様子を見守る。
(今となっては話し合いも無駄に感じる。早く出て行ってくれないかな……)
園香は重い気持ちでそんなことすら考えている自身に自嘲した。
記憶がないとはいえ、結婚までした相手なのだからいつか愛情を思い出すと信じていた。
けれど、結果は離婚。
瑞記のよいところを見つけることが出来なかった。きっと出会った頃のふたりの関係とは変わってしまったからだろう。
全てが彼のせいだとは思わない。園香の言動にも問題があって瑞記を頑なにさせているのだとは思う。
だから納得はいかないが、円満離婚という形で終われたらいいのに。
しかしそんな願いも瑞記には届かないようだ。怒りの感情を漲らせていた彼が突然にやりと笑ったのだ。
何かを企んでいそうなその表情に、嫌な予感がこみ上げる。
「まあいいよ」
「いいって、何が?」
あれほど離婚しないと騒いでいたのに、この突然の心変わりはなんだろう。
訳が分からず戸惑う園香に、瑞記は嫌な笑顔を向ける。
「園香は知らないみたいだけど、離婚は一方が希望するだけじゃ出来ないんだ」
「え?」
「だからいくら離婚したくても、僕が同意しないと無理なんだよ。分かった?」
まるで小さな子供に言い聞かせるような口ぶりだ。
「……適当なことを言ってるんじゃないの?」
「まさか。園香こそ離婚離婚言ってるくせに、法律も調べてないのか?」
馬鹿にしたような口調を無視して、園香は目を伏せた。
瑞記の言う通り、離婚に関する法律を調べていないのだ。
(有責側は離婚を拒否できないって聞いたことがあるけれど)
それも正しいのか確信がない。専門家ではない園香には、瑞記に反論するだけの自信がなかった。
(すぐに確認しなくちゃ)
「そう言うわけで、僕たちの関係はこれまで通りだ」
「それは無理でしょう? 私は絶対に仕事を辞めないし、瑞記の希望通りにはならない。それでも結婚を続けると言うの?」
そもそも瑞記が今の家庭環境を嫌がったのが離婚話のきっかけなのに。
彼は明らかに不満そうに園香を見ている。
(今離婚を選んでも拒否しても、どちらにしても瑞記の思い通りにならないはず)
彼は一体どう答えるのだろう。
「そうだよ。園香が仕事を辞めなくても離婚はしない。いいな」
瑞記は予想に反して迷わず言い捨てると踵を返しリビングを出て行く。
(どういうこと?)
園香は唖然として彼が去って行くのを見送った。
(瑞記は私が働くことに明らかに不満を持って怒ってる。それなのにどうして離婚は嫌がるの?)
つい先日は言うことを聞かないと別れると脅して来たのに、今は絶対に別れないと断言した。
(ここまで急に気持ちが変わるものなの? それとも何かを企んでいる?)
その何かは予想不可能だ。そもそも園香は彼の考えを理解出来ていないのだから。
それでもこの数日の間に瑞記に変化があったような気がする。
(何が原因で変わったんだろう……)
園香は言い様のない不安に襲われた。