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それは、雨の夜だった。
屋敷の廊下に、外套を脱ぐ音が静かに響く。
恒一は外出先から戻ると、そのまま足を止めた。
執事室の灯りが、まだ消えていなかったからだ。
「……ルカ?」
扉を軽く叩くと、すぐに返事がある。
「はい。どうぞ」
中に入ると、ルカは古い木箱を前に、書類を整理していた。
普段は見せない、どこか懐かしむような表情。
「邪魔だったか?」
「いいえ。むしろ……」
ルカは少し迷うように視線を落とし、それから静かに言った。
「お話しするには、ちょうど良い機会かもしれません」
⸻
木箱の中には、古い写真と、一通の手紙が入っていた。
「これは……?」
「私が、執事になる前のものです」
恒一は黙って向かいに座る。
促すことはしない。ただ、聞く姿勢で。
ルカはゆっくりと言葉を選んだ。
⸻
「私は孤児でした。
十歳の頃、養成施設に引き取られ、そこで“執事”という職を知りました」
礼儀、言葉遣い、身のこなし。
感情を抑え、相手を最優先にする生き方。
「誰かの役に立てば、自分の存在理由になる。
そう信じていました」
写真には、まだ幼いルカが、無表情で立っている。
「最初に仕えた主は、優しい方でした。
ですが……早くに亡くなられた」
そのとき初めて、
“仕える相手を失う痛み”を知ったのだという。
「その後、何人かの主に仕えましたが……
心を深く預けることは、しなくなりました」
恒一は、無意識に拳を握っていた。
⸻
「鷹宮家に来たときも、同じつもりでした」
ただの職務。
ただの契約。
「ですが……」
ルカは顔を上げ、恒一を見る。
「恒一様は、私を“人”として見てくださった」
執事ではなく。
道具でもなく。
「それが、怖かった」
失うかもしれないと思ったから。
⸻
「だから私は、線を引いていました。
執事として完璧であれば、それ以上は望まないと」
ルカは小さく笑う。
「ですが……無理でした」
その言葉に、恒一の喉が鳴った。
「君は……後悔しているのか?」
ルカは首を横に振る。
「いいえ。
初めて、“自分の意思でここにいる”と思えました」
⸻
しばらく、雨音だけが響く。
恒一は立ち上がり、深く頭を下げた。
「……教えてくれて、ありがとう」
「こちらこそ」
ルカは一礼し、少しだけ柔らかく微笑んだ。
「これで私は、
ただの執事ではなくなってしまいましたね」
「なら」
恒一は、静かに言う。
「僕も、ただの主ではいられないな」
二人は視線を交わし、
それ以上は何も言わなかった。
⸻
過去を知ることは、
距離を縮めることでもあり、
同時に、戻れなくなることでもある。
それでも、二人は進む。
静かに。
慎重に。
互いの存在を、確かめながら。