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それは、何の変哲もない一通の書簡から始まった。
差出人は、執事養成施設の旧知の管理者。
内容は簡潔だった。
——優秀な執事を探している家がある。
——条件は良い。
——年齢的にも、今が区切りだろう。
ルカは書簡を読み終えると、静かに折りたたんだ。
驚きはなかった。
いつか来るものだと、分かっていたからだ。
「……定年より、少し早いですね」
独り言は、誰にも届かない。
⸻
その日の夕食後、恒一は異変に気づいた。
ルカの動きはいつも通り正確で、声も穏やかだった。
だが、どこか「距離」があった。
「ルカ」
呼び止めると、すぐに振り返る。
「はい、恒一様」
「……何か、あった?」
一瞬の間。
ほんのわずかに、ルカの視線が揺れた。
「いいえ。職務に支障はございません」
それは、執事として完璧な答えだった。
恒一はそれ以上、踏み込まなかった。
——いや、踏み込めなかった。
⸻
その夜、ルカは眠れずにいた。
執事を辞める。
それは逃げなのか、それとも——。
(このままでは、私は……)
主としてではなく、
一人の人間として恒一を想ってしまう自分。
それは、執事として最もしてはならないことだった。
「……ならば」
答えは、すでに決まっていた。
⸻
翌朝。
恒一の執務室。
「お時間をいただけますでしょうか」
ルカの声は、いつもより低く、静かだった。
「もちろん」
扉が閉まる。
二人きり。
ルカは一歩下がり、深く一礼する。
「私、ルカ・フェルナンデスは——
本日をもって、鷹宮家執事を辞することを願い出ます」
その言葉は、あまりにも突然で。
「……は?」
恒一の思考が止まる。
「理由を、聞いても?」
「個人的な判断です。
後任の手配、引き継ぎは責任を持って——」
「違う」
恒一は立ち上がった。
「そんな“正しい答え”を聞きたいんじゃない」
机越しに、まっすぐルカを見る。
「君自身の理由を言ってくれ」
沈黙。
ルカは、初めて視線を逸らした。
「……これ以上、ここにいれば」
声が、わずかに震える。
「私は、執事でいられなくなる」
恒一は息を呑んだ。
⸻
「私は、恒一様を主として尊敬しています」
それは真実だった。
「ですが……それ以上の感情を持たないと、
言い切れなくなりました」
言葉にした瞬間、
すべてが崩れ落ちる音がした気がした。
「それは、許されない。
だから私は、身を引くべきなのです」
ルカは、最後にもう一度、深く頭を下げた。
「どうか、ご理解を」
⸻
長い沈黙のあと。
「……君は」
恒一の声は、静かだった。
「それでも、逃げないんだな」
ルカは顔を上げる。
「はい。
自分の感情からも、あなたからも」
それは、執事としてではなく、
一人の人間としての選択だった。
⸻
その日から、屋敷には
「期限」が生まれた。
主と執事でいられる、残りわずかな時間。
そして、
この別れが本当の終わりになるのか、
それとも始まりなのか——
まだ、誰にも分からない。