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脳外科病棟には
ほとんどの患者が脳疾患を抱えており
毎日たくさん運ばれてくる。
1日に多くて5件運ばれてくる日もある。
世の中にそんなに脳疾患を抱えた人が
こんなにもいるのかと思った。
交通外傷で脳出血した患者。
高血圧等により血管が破裂して脳出血した患者。
頭痛で受診し精査により脳腫瘍がみつかった患者。
様々な理由で脳疾患を発症する。
飲酒後に転倒し
頭部打撲により脳出血で運ばれてきた
50代の男性がいた。
緊急手術後に病棟へ入ったあと
妻と子ども2人が面会にきた。
突然のことで動揺しているのではと思ったが
やけに冷静だった。
男性とは籍は入っているが
別居状態でほとんど会っていないとのこと。
男性の状態は思わしくなく
術後の再出血により
もって2、3日ですと告知があった。
いくら別居していても
家族の1人が突然、もうすぐ死ぬとわかったら
どんな気持ちだろう。
仲直りしておけばよかったと思うだろうか。
こんなにも長い間疎遠だったのなら
もう関わりたくないと思うだろうか。
告知されて3日目がきた。
妻はこう言い放った。
『まだですか?』
頭が真っ白になった。
『まだ』とは『死ぬのはまだですか?』
という意味だろう。
こんなにも悲しく虚しく
寂しさと怒りが混ざった気持ちになったのは
看護師になってこの時だけだ。
家族には家族の事情があるだろう。
それでもわたしたち看護師は
最期のときを
ご家族と患者本人にとって
希望する形で迎えられるよう
支援することも仕事であり役割である。
もうすぐ亡くなる家族に対して
残されるご家族が
どう向き合うのか。
ご家族が何かしてあげたいと希望があれば
患者の体を拭いたり
身なりを整えたり
部屋を飾りつけしたり
好きな服を着せてあげたりできる。
わたしたちだって
看護師として
ひとりの人間の命を預かる立場として
亡くなる最期まで、いや、なくなってからも
ケアを継続しているのだ。
決して手抜きもしないし
もうすぐ亡くなるからと言って
オムツ交換をしないわけがない。
妻の言葉になにも返せず
状態が変われば連絡しますと告げ
その2日後に男性は亡くなった。
脳腫瘍で5回目の再発で入院してきた
20代の女性がいた。
彼女は10代の頃初めて発症し
外科的治療と放射線治療で
4回も寛解し乗り越えてきたひとだ。
わたしが入職する前から
何度も入退院を繰り返していたので
先輩達は顔見知りだった。
彼女はいつも個室に入院し
母親が寝泊まりし付き添っていた。
おそらく今回の入院が
最後になるだろうと言われていた。
入院時は車椅子に乗っていたが
ベッドやトイレへの移乗は
自力でできていた。
母親が熱心な介護をしていたので
移乗介助も食事介助もおむつ交換も
日常生活援助はほとんど
母親が行っていた。
当時わたしは1年目の冬を迎えていた。
朝のカンファレンスで
彼女の看護方針を確認していた。
先輩は
『お母さんがやってくれるから
なるべくやらせてあげよう。
必要なら呼んで来ると思うし。』
わたしは、それでいいのだろうか?
もっと違う方法があるのではないだろうか。
と少し疑問に思った。
このときの疑問を
先輩に言えなかったことを
今でもとても後悔している。
彼女と関わるのはバイタル測定だけだ。
“清潔ケアはお母さんの役割”
という暗黙の了解があった。
彼女の症状の進行は早かった。
どんどん歩けなくなり
会話ができなくなり
脳腫瘍が大きくなっている影響で
顔も目も腫れて瞼は閉じなくなっていた。
かろうじてうなずくことはできた。
『お母さんがなるべくやりたいだろうから
わたしたちは必要なときにいこう』
また違和感を覚えた。
そしてやはりこの違和感は
いやな予感を的中した。
母親が、彼女の脇を抱えて
引きずるようにトイレへ運んでいたのだ。
痩せ細った彼女を運ぶのは
女性1人の力でも大変だ。
部屋を通りかかったときに見かけた
他チームの先輩が
すぐにポータブルトイレを準備してくれた。
すぐにわたしたちチームの方へ来た。
『なんでなにもしなかったの?
お母さんがやってくれるからって
任せ過ぎだと思う。
失禁したくないって彼女が言ってたから
トイレに行かせてあげたかったんだって。
もうあんなに動けないのに
あの距離をひとりで運んでたよ?
せめてベッドサイドにトイレを置くとか
出来ることはあるでしょう。
もう少しお母さんの気持ちに寄り添って。
頼りすぎはだめだよ。』
そう言ってくれて
やっと看護の方針が動きだすかのように思えた。
同チームの先輩は
『失禁してるのかと思ってた。』
『移乗なら呼んでくれればいいのにね。』
無責任とはまさにこのことだ。
自分が一年目じゃなかったら
もっと発言する勇気があれば
もっと知識があれば
もっと看護技術があれば。
11年経っても
もっといい看護ができたはずだと
後悔ばかりしている。
夜勤の日
わたしは彼女の受け持ちになった。
部屋に挨拶へ行くと
彼女は眠っていた。
母親に挨拶をすると
彼女の顔を撫でながら静かに泣いていた。
何も言われなくても
十分すぎるくらい悲しみが伝わってきた。
自分の娘が病気になって
トイレへも行かせてあげられなくて
話しもできなくなって
大人になった娘のオムツを変えて
日に日に減っていく呼吸の数が
いつ止まってしまうのかと
不安で仕方ないだろうなと
暗い個室で感じたのだ。
わたしが少しその場に留まり
『お母さん、眠れていますか?』
と声をかけた。
母親はさらに泣き出して
『眠れるわけない。
もうだめなのはわかってるけど、
娘が死ぬのは辛い。
色々してあげたいと思うけど反応もないし、
わたしじゃうまくできないこともある。
眠れてないから力もでない。
もう何もできない。』
気付いたらわたしは
ぼろぼろと泣いていた。
嗚咽が止まらない母親を連れて
家族控室へ案内した。
ソファに座らせて
給湯室でコップにお水を入れて
母親の前のテーブルに置いた。
ソファに座っている母親の横に
床に片膝を着いて座り
『わたしたちはお母さんに
甘え過ぎていたと思います。
頼り過ぎていました。
今日はわたしが受け持ちです。
一晩わたしに任せて頂けませんか。
お母さんは今日こちらの部屋で
休んでいてください。』
泣きながらなんとか言葉を絞り出し
ずっとしたかった看護を
わたしは提案した。
お母さんは
『ありがとう。今日はお願いします。』
と言ってくれた。
夜間、他の患者も観ながら
彼女のケアをした。
久しぶりに見る彼女の体は
かなり痩せ細っていて
骨が出ているところは
赤くなり初めていた。
ついこの間まで
オムツ交換をするときに
まだ動く右手でベッド柵をつかみ
横向きを維持してくれていたが
もう右手の指さえ動かなかった。
朝の申し送りで
夜間にあった出来事を
報告した。
自分がどんな看護を提案したか。
母親はどんな様子だったか。
それからようやく看護方針が動きだした。
清潔ケアは看護師メインで行い
母親の希望があれば一緒に行うこと。
オムツ交換と体位交換は
時間を決めて2時間毎に
看護師が行うこと。
もちろん希望があれば
母親と一緒に。
夜間のオムツ交換と体位交換は
看護師だけで行うこと。
母親は少し顔色がよくなり
また優しい笑顔で
彼女のそばにいるようになった。
夜間訪室しても
小さな簡易ベッドで
ぐっすり眠っていた。
付き添い可能とうたうのなら
病院側も付き添い用ベッドを
用意してくれればいいのに。
家族看護を学ばせておいて
なぜ必要なものは用意しないのだろう。
なにがしたいのだろうと嫌悪感を覚えた。
あの夜に彼女の母親と
一緒に泣いて話してからは
特別に話しをすることはなかった。
それからはあっという間だった。
彼女が息を引き取るとき
病室から母親の泣き叫ぶ声と
家族のすすり泣く声だけ聞こえた。
どうか今、ご家族皆様が
心穏やかな日々を 過ごせていることを
願わずにいられない。
わたしにとって
一番忘れられない看護の過ちである。