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#契約結婚
草原草原

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草原草原

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御影蒼司。
名前だけは、知っていた。経済誌の片隅で、ときどき見かける名前だ。古い会社の株を買い集めて、経営に口を出す投資ファンドの代表。
そういう人が、なぜ鷹宮の創業記念のパーティにいるのか。
「招待状は、ちゃんと持ってるよ。株主枠でね」
私の顔を見て、御影さんは先回りするように笑った。
「鷹宮さんの株を、今はまだ、ほんの少しだけ持ってるんだ」
一本の線。
ほんの少し、がどのくらいなのかは、言わなかった。
今はまだ、という言い方だけが、喉に刺さった小骨のように残った。この人は、言わなくていいことを、わざわざ言う人だ。
「で、困ってるんでしょう。あの銀の仮面の彼、読めなくて」
私は、答えなかった。
「手伝ってあげる」
「……結構です」
「警戒してるね。いいよ、それが正しい」
御影さんは、空になったグラスを給仕の盆に置いた。
「でも、あのアルバイトの子、このままだと警察に連れていかれるよ。ホテルの人たち、もう通報の準備をしてる」
会場の隅で、さっきの女の子が、宴会担当の主任に腕をつかまれていた。
泣いてはいなかった。泣くのをこらえて、唇を噛んでいた。
その顔を、私は知っている気がした。何もしていないのに、大人たちに取り囲まれて、何を言っても信じてもらえない顔。
私は、隣の社長を見上げた。
社長は、私の顔を見ていた。仮面の下で、何かを待つように。
背伸びをして、社長の耳元に口を寄せた。
「全員の仮面を、外させてください」
社長は、一度だけまばたきをした。
「理由は」
「顔が全部見えれば、私は読めます」
社長が口を開くより先に、御影さんが、ぱちんと指を鳴らした。
「いいね、それ」
御影さんは、会場の後ろに控えていた、ホテル専属のカメラマンに手を上げた。
「すみません。せっかくの創業記念日なんで、来賓全員で、記念撮影をお願いできますか。――仮面を外して、素顔で」
ざわめきが、会場に広がった。
主催者でもない人の提案だった。何人かの役員が、困ったように社長のほうを見る。
社長は、仮面を外した。
切れ長の目が、シャンデリアの下で、会場を見渡した。
「いいだろう。全員、ステージの前へ」
*
五百人分の仮面が、次々と外されていく。
金のレースの下から、取引先の部長の汗ばんだ額が出てくる。羽根の飾りの下から、銀行の役員の疲れた目尻が出てくる。
私も、自分の黒いレースを外した。
顔が、全部見える。全員の、目も、口も。
こめかみの奥が、じんと熱くなった。五百人分の輪郭は、さすがに多すぎる。
ステージの前に並ぶ人の流れの中で、銀色の仮面が、少しだけ足を止めた。
堂島翔さんは、仮面に手をかけたまま、周りを見回していた。外したくない、と顔の下半分が言っていた。
「翔、何してんだ。早く外せ」
野太い声が飛んだ。堂島常務だった。日焼けした大きな顔を、もう仮面から出している。
翔さんは、しぶしぶ、銀の板を外した。
二十代の終わりの、整った顔だった。叔父にはあまり似ていない。
私は、人の流れをかき分けて、彼の正面に立った。
「堂島さん。もう一度だけ、お聞きします」
翔さんは、仮面を外した素顔の私を見て、一瞬、誰だかわからない顔をした。
「映像が流れていた三分間。あなたは、会場から一歩も出ていませんか」
「……出てませんよ。さっきも言ったでしょう」
言い終えた瞬間、彼の瞬きが止まった。
一秒、二秒。そして、ぱちぱちぱちと、立て続けに落ちた。言い切った、と安堵した人間の目だった。
――ぶれた。
「今の、嘘です」
周りの何人かが、こちらを振り返った。
翔さんは、笑おうとした。
「は? 何言ってんの、この人」
彼は、肩をすくめるように、両手を広げた。
その右の袖口から、白いシャツのカフスが、少しだけのぞいた。
カフスの縁に、小さな染みがあった。
青い染み。ただの青ではない。少しだけ緑がかった、深い青。
隣に来ていた社長が、低い声で言った。
「祖父の万年筆には、祖父が使っていたのと同じインクが入れてある。父が毎年、この日のために入れ直してきた。今年は、私が入れた」
社長は、翔さんの袖口を見ていた。
「緑がかった青だ。市販はされていない」
翔さんが、反射的に右手を背中に隠した。
遅かった。
*
ホテルのクロークの係が、預かり札の控えを持ってきた。
十九時四十二分、銀色の仮面の男性が、預けていたコートを一度引き取っている。十九時五十分、同じ札で、もう一度預け直していた。
ちょうど、照明が落ちていた三分間を挟んで。
クロークから運ばれてきた黒いコートの、内ポケットから、ハンカチにくるまれた細長いものが出てきた。
黒い軸。金のクリップ。鷹の羽根の紋。
ハンカチの白い布地に、緑がかった青のインクが、小さく滲んでいた。
翔さんは、膝から床に崩れた。
借金があった、と、彼は泣きながら言った。海外の収集家が、鷹宮の創業者のペンなら、言い値で買うと言っていた、と。
「この馬鹿野郎が!」
人垣を割って、堂島常務が飛び出してきた。太い腕を振り上げる。
拳が甥の頭に届く前に、警備員が二人がかりで常務の腕を押さえた。
「放せ! 鷹宮の顔に泥を塗りやがって!」
常務の怒鳴り声が、シャンデリアに跳ね返った。五百人の素顔が、それを見ていた。
常務の大きな顔が、首まで赤黒く染まっていった。
アルバイトの女の子が、宴会担当の主任の手から離れて、その場にしゃがみ込んだ。
私は、彼女の前に膝をついた。
「……あなたは、何もしていません。知っています」
女の子は、私の顔を見て、それからやっと泣いた。
社長が、宴会担当の主任の前に立った。
「ペンは戻った。彼女への疑いは、鷹宮が全部取り消す」
「は、はい」
「それから、君は彼女の腕をつかんだ。謝れ」
主任は、真っ青になって、女の子に深く頭を下げた。
社長は振り返り、私の顔を見た。それから、何も言わずに、給仕の盆から冷たい水のグラスを一つ取って、私の手に握らせた。
右のこめかみが、どくどくと脈を打っていた。どうしてわかったのだろう。顔に出したつもりは、なかったのに。
*
騒ぎが片づいて、楽団が演奏を再開した。
ホールの中央で、何組かが踊りはじめる。もう、誰も仮面をつけ直そうとはしなかった。
「お見事」
御影さんが、またいつのまにか隣にいた。
「やっぱり、君の目は面白いね。名前、聞いてもいい?」
「……瀬名灯です」
「灯ちゃん、か」
御影さんは、目尻に皺を寄せて笑った。
それから、優雅に片手を差し出した。
「一曲、踊ってくれる? お礼に」
私が答えるより先に、横から伸びてきた手が、私の手首を取った。
強くはない。けれど、外せない力だった。
そのまま、引き寄せられる。
社長の胸に、肩がぶつかった。
「彼女の次の曲も、その次も」
社長は、御影さんを見ていた。
「私が、予約している」
一本の線。
社長の手は、私の手首をつかんだまま、離れなかった。脈の上に、彼の指がある。私の心臓の音が、全部伝わってしまう。
御影さんは、差し出した手を、あっさりと引っ込めた。
「そっか。それは残念」
少しも残念そうではない顔で、笑った。
彼は、社長の横を通り過ぎるふりをして、私の耳元に顔を寄せた。
「僕のところに来なよ。年収は三倍」
柔らかい声だった。
「あと、僕は、君に嘘をつかない」
コメント
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第19話、拝読しました。仮面を外すという演出が、それぞれの素顔を暴く展開にも心理的な距離の変化にも効いていて、すごく巧みだと思いました。特に、灯ちゃんの「今の、嘘です」の切り返し、翔さんの瞬きが止まる一瞬の描写にゾクッとしました。社長が灯ちゃんの脈の上に手を置いて離さないシーン…心臓の音が全部伝わってしまう、という一文がもう、甘くて切なくて。御影さんの「年収三倍」も不気味で魅力的で、今後の鍵になりそうな予感がします。作者さんの一文一文の密度に、いつも胸を掴まれています🌷