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#契約結婚
草原草原

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#王道
涙乃
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#ざまぁ
草原草原

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ホテルの裏口は、厨房の換気扇の音と、六月の湿った夜気でいっぱいだった。
表の車寄せには、まだ来賓の車が列を作っている。社長は運転手に裏へ回るよう電話で指示して、私の手首をつかんだまま、従業員用の通路を抜けてきたのだった。
手首は、まだ離されていなかった。
「社長。あの、手を」
「あの男に、何を言われた」
社長は、前を向いたままだった。
声が、いつもより低い。役員会でも、料亭でも聞いたことのない声だった。
怒っている、のだと思う。
何に対してなのかは、わからなかった。
「……僕のところに来なよ、と」
私は、正直に言った。
「年収は三倍。それから、僕は君に嘘をつかない、と」
社長の指に、少しだけ力がこもった。
裏口の非常灯の、緑色の明かりが、彼の横顔を半分だけ照らしている。
「行くのか」
それだけだった。
引き留める言葉も、条件も、何もない。ただ、行くのか、と。
「行きません」
自分の声が、思ったよりはっきり出た。
社長が、初めてこちらを向いた。
私は、彼の顔を見上げた。眼鏡のない目で。
「年収が三倍でも、嘘をつかない人でも、行きません」
「なぜ」
「……私は、社長の秘書ですから」
本当のことだった。
けれど、それが全部ではないことも、自分でわかっていた。
社長は、何も言わなかった。
ただ、私の手首を握っていた指が、ゆっくりと、少しだけ緩んだ。離れはしなかった。
*
車は、まだ来なかった。
換気扇の音の向こうで、遠くの大通りを救急車が走っていく。
「一つ、聞いてもいいですか」
「三十秒で済ませろ」
いつもの返事だった。少しだけ、ほっとした。
「私の名前、最初から読めましたよね」
社長は、黙っていた。
「懲戒委員会で。誰も読めなかったのに、社長だけが、一度で、あかり、と」
言いながら、私は、ずっと胸の中にしまってきたものを、一つずつ取り出していた。
資料にふりがなはなかった気がすること。
初めて泊まった夜の、サイズのぴったりな部屋着。今夜の、測ったようなドレス。
それから、ときどき、この人が私を見る目。初めて会った人を見る目ではない気がする、あの目。
「私たち」
喉が、少しだけ詰まった。
「前に、どこかで会いましたか」
社長は、すぐには答えなかった。
非常灯の緑の明かりの中で、切れ長の目が、私の顔の上に止まっている。
長い沈黙だった。
換気扇が、二回、三回、ぶうんと唸った。
「……瀬名灯には」
社長は、ゆっくりと言った。
「会ったことがない」
私は、彼の顔を見ていた。三秒、四秒、五秒。
輪郭は、一本の線のままだった。
ぶれない。
本当のことだ。この人は、私に会ったことがない。
「……そう、ですか」
肩から、力が抜けた。
ほっとしたのか、がっかりしたのか、自分でもわからなかった。
勘違いだったのだ。名前が読めたのも、服のサイズも、この人が何でも調べる人だから。それだけのことだ。
「すみません。変なことを聞きました」
笑ってごまかそうとした私の頬に、何かが触れた。
社長の手だった。
大きな手のひらが、私の頬を包んでいた。親指が、眼鏡のないこめかみのあたりに、そっと添えられる。
今夜、会場で何百人もの顔を見て、どくどくと脈を打っていた場所だった。
「君の目は」
社長が、私の顔を覗き込んだ。近い。左目の下の、小さな泣きぼくろまで見える。
「私を、どう見ている」
答えようとした。
一本の線です、と。社長は、いつも本当のことしか言わない人です、と。
でも、その前に。
「――灯」
初めて、名前で呼ばれた。
瀬名、ではなく。
息を吸う間もなかった。
唇が、重なった。
紙とインクの匂いがした。
六月の湿った夜気の中で、彼の唇だけが、少しだけ冷たかった。
頬に添えられた手のひらが、震えていた。氷の社長の手が、ほんのわずかに。
どれくらいそうしていたのか、わからない。
唇が離れて、私は、そこで初めて気づいた。
目を、閉じていた。
彼の顔を、見ていなかった。
いつ、どんな顔で、この人が私に触れたのか。何を思って、灯、と呼んだのか。
嘘を見るための目を、私は、自分で閉じてしまっていたのだ。
目を開ける。
社長は、もう私の頬から手を離していた。いつもの顔で、裏口の向こうの路地を見ている。
何も言っていない顔は、読めない。
私の目は、言葉がなければ、何の役にも立たない。
ポケットの中で、ペンを握った。
一回なのか、二回なのか。今のは、本当なのか、嘘なのか。
鳴らす音を、私は持っていなかった。
路地の奥に、黒い車のライトが見えた。
「……車が来た」
社長は、それだけ言った。
私の手首を、もう一度、そっと取って。
*
その夜、目黒川沿いの家に帰ってからのことは、よく覚えていない。
社長は「おやすみ」とだけ言って、廊下の奥の自分の部屋に入っていった。
私は、客間のベッドの上で、紺のドレスのまま、天井を見ていた。
唇に、指で触れた。
瀬名灯には、会ったことがない。
裏口で聞いた声を、頭の中でもう一度鳴らしてみる。
君には、ではなかった。瀬名灯には、と、あの人は言った。わざわざ、私の名字まで付けて。
伊豆のフロントで、ご夫妻ですね、と聞かれたときの声を思い出した。予約のとおりだ。夫婦だとも、そうでないとも言わなかった、あの言い方。
この人は、ときどき、ああいう言い方をする。
けれど、輪郭は一本の線だった。
三秒も、五秒も、私はちゃんと見ていた。会ったことがないのは、本当なのだ。
私は寝返りを打って、その考えを枕の下に押し込んだ。考えれば考えるほど、さっきの唇の冷たさのほうが、思い出されてしまうから。
廊下の一番奥の、色の濃い木の扉が、暗がりの中で、じっとこちらを見ている気がした。
*
翌朝、六時。
キッチンには、誰もいなかった。黒いダイニングテーブルの上に、一枚のメモが置いてあった。
『先に出る。朝食はいらない』
濃い青のインク。万年筆の、少しかすれた線。
昨日の朝までは、明日も作れるか、と聞いた人だった。
私は、卵を一つだけ焼いて、一人で食べた。
味が、よくわからなかった。
砂糖を入れすぎたのかもしれない。入れ忘れたのかもしれない。どちらだったのか、自分でもわからなかった。
メモは、捨てられなかった。四つに畳んで、ポーチの中の、古いハンカチの隣にしまった。
中目黒の駅から電車に乗り、いつもの時間に四十三階に上がった。
社長室の扉を開けると、柏木室長が、タブレットを握りしめて立っていた。
社長の執務机は、空だった。
「瀬名さん。社長は、もう役員会議室です」
室長の声が、硬い。
「今朝は、五時半に出社されました。私より先に、です。社長が就任されてから、初めてのことです」
室長は、シルバーフレームの奥から、私の顔をじっと見た。
「……昨夜、パーティのあとで、何かございましたか」
「いいえ」
答えてから、自分の頬が熱くなっていくのがわかった。室長に私の嘘は見えない。見えないはずなのに、室長は、手帳に何かを一行書きつけた。
「全社員宛ての通知を、ご覧になりましたか」
私は、自分の机のパソコンを開いた。
社内メールの一番上に、広報部からの全社員宛ての通知が届いていた。件名は、短かった。
『当社株式の大量保有に関するお知らせ』
本文の一行目を、私は二度読んだ。
『御影キャピタル・パートナーズが、当社株式の五・一パーセントを取得したことを、本日開示いたしました』
コメント
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みぅです🤍🥀 第20話、すごく惹き込まれました……。 社長の「君の目は、私をどう見ている」って言葉、あの瞬間の距離感がたまらなかった。灯と呼ばれたときの灯ちゃんの戸惑いも、目を閉じてしまったっていう気づきも、全部が切なくて。 朝のメモも「味がよくわからなかった」朝食も、何かが変わってしまったんだなって胸が痛かった。しかも最後の株式通知…これ、どう転ぶんだろう。 続き、すごく気になります🌙