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あの日、自らの布団の中で命の雛形を砕き、その残骸を床に散らばらせて以来、太宰の生命力は目に見えて衰えていった。精神の崩壊は肉体の崩壊を呼び、どれほど中也が最高級の栄養剤を投与し、琥珀色の薬液を胎内へ流し込んでも、彼女の身体はもはや「収穫物」を形作る力を失っていた。
寝台に横たわる太宰は、かつての愛らしさを微塵も残さぬほどに痩せ細り、ただ浅い呼吸を繰り返している。中也はその枕元に立ち、無機質な計器が示す「収穫不能」の文字を静かに見つめた。
「……中也。……また、……お外、……行ける……?」
太宰が、濁った瞳を中也に向けた。彼女の脳内では、あの日目撃した地獄の光景すらも、都合の良い夢へと書き換えられているようだった。彼女にとって、今や中也に連れ出されることは、失った子供たちに再会できる唯一の希望なのである。
「あぁ。……今から連れて行ってやるよ」
中也の声は、凪いだ海のように静かであった。彼は衰弱しきった太宰の身体を、羽毛のように軽いその肢体を、そっと抱き上げた。太宰は満足げに中也の胸に顔を寄せ、微かな吐息を漏らす。彼女は知らない。これが、数ヶ月前に自分が経験した「出荷」という名の、永遠の別れであることを。
中也は、運搬台に彼女を乗せ、地下深くの加工工場へと向かった。通路の壁はどこまでも白く、足音だけが虚しく反響する。太宰はどこか遠くを見つめたまま、時折、何もない空間に向かって愛おしそうに手を伸ばしていた。
工場の分厚い鉄扉が開くと、そこには清潔でありながらも、死の予感に満ちた冷気が漂っていた。解体用の自動機械が低く唸りを上げ、鋭利な刃が冷光を放っている。中也が彼女を処置台へと移そうとしたその時、太宰の鼻腔を、かつて嗅いだことのある「あの匂い」が突いた。
鉄の錆びたような、生々しい肉の匂い。
太宰の瞳に、一瞬だけ正気の光が戻った。彼女は周囲を見渡し、自分が今、何の上に横たえられているのかを悟った。自分を拘束する冷たい金属の感触。頭上で鈍く光る解体用の鉤。
「……やだ。……やだぁ!! ……中也、……ここ、……あの時の……っ!」
太宰は絶叫し、枯れ木のような手足で中也の腕を掴んだ。
「……殺さないで! ……わたし、……まだ産めるよ! ……また赤ちゃん、……おなかに入れるから! ……中也の、……いい子になるからぁ!!」
「……往生際が悪いぜ、太宰。……お前はもう、十分に尽くしてくれたよ」
中也は無表情のまま、彼女の細い手首を固定具で締め上げた。彼女がどれほど泣き叫ぼうとも、どれほど必死に愛を乞おうとも、中也の指先が迷うことはなかった。彼は管理官として、最後の「処理」を実行する。
「……あ、……ぁあああああぁぁぁーーー!!!」
太宰の悲鳴が、機械の駆動音にかき消されていく。それが彼女の、この個体としての最期の声であった。中也は扉を閉め、背後で繰り広げられる「加工」の音を背に、淡々と廊下を歩き去った。
数日後。
中也は、仕事帰りにいつもの高級食料品店へと立ち寄った。棚には、数日前まで自分が世話をしていた「彼女」の一部が、美しい木箱に収められて並んでいた。
『特選・太宰肉。入荷直後』
鮮やかな赤身と、真珠のように白い脂身。中也はその中から、最も質の良さそうな一包を手に取り、無言で会計を済ませた。
自宅に戻り、一人きりの台所で、中也はフライパンを熱した。
味付けは、ごく少量の塩だけでいい。肉が焼ける音と共に、部屋中に甘く、どこか懐かしい香りが広がっていく。それは、太宰が産卵のたびに発していた、あの生々しくも愛おしい体臭に似ていた。
中也は焼き上がった肉を一欠片、口へと運んだ。
「…………」
舌の上で、肉はとろけるように解けていった。
彼女が一生をかけて蓄積してきた絶望と、中也への狂信的な愛情が、極上の旨味となって鼻へ抜けていく。中也はそれをゆっくりと咀嚼し、喉の奥へと流し込んだ。
「……あぁ。……美味いな、お前は」
中也は一人、冷えた酒を煽りながら、空になった皿を見つめた。
昨日まで自分を「パパ」と呼び、腕の中で泣いていた少女が、今、自分の肉体の一部となって同化していく。この背徳的な悦びこそが、管理官という地獄に生きる彼に与えられた、唯一の報酬であった。
中也は満足げに目を細め、最後の一切れを惜しむように口にした。
明日になれば、また新しい太宰が孵化器から這い出してくる。そして中也は、また同じように彼女を育て、卵を奪い、そして最後にはこうして喰らうのだ。
終わりなき円環。
中也は、胃の腑に残る彼女の熱を感じながら、静かに眠りについた。
その夢の中に、あの日床で砕け散った赤ん坊と、泣き叫ぶ太宰の姿が現れることは、もう二度となかった。
(続く)
次回、最終回。第十話。中也がこの職に就いた経緯と、十五年から三十歳を永遠に繰り返す「化け物」としての彼の真実に迫ります。