テラーノベル
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写真が撮られたのは美容室の施術中。
横顔の自分に、ハサミを持つ大森さん。背景にはスタッフのロッカールームの扉が映っていた。
(この位置、お客さんのいるエリアじゃない。スタッフルームの隅ってことは…)
普通の来客では立ち入れない。
それが意味するのは――
(……美容院のスタッフの誰か?)
喉が引き攣れる。急に冷たい汗が背中を伝う。藤澤は頭の中で、名前も知らない美容室の他スタッフたちの顔を浮かべた。
黒髪で無口なアシスタント。にこにこしてた受付の女性。先月カラー剤を塗ってくれた若い男性スタッフ。
誰だって出入りできるし、自分に接触してくることも可能だ。
(やっぱり、あの人たちの中に?)
でも大森さんだけは違うと思った。
「涼架くんシャンプーの時、お湯の温度大丈夫でした?」
「はい、すごく気持ちよかったです」
変わらない。変わらないんだ。大森さんだけは、ずっと同じ。
一度も不自然なことがなくて、優しくて、穏やかで。
(この人だけは大丈夫)
彼がストーカー?
そんなはずない。あんなに優しくしてくれるのに? いつも気遣ってくれてるのに?
(そんなの、怖すぎる。違っててほしい)
大森さんを疑うことは、自分の「拠り所」を否定することになる。それは、あまりにも孤独で、無防備で、怖かった。
だから、違うと思うことにした。
――「大森さんだけは違う」と。
_____________
「あの……!」
施術後、レジで精算する時。藤澤は勇気を出して声をかけた。
「スタッフの人がお客さんをこっそり撮ってるとか、ないですよね……?」
大森は目を細めて微笑んだ。
「何かあったんですか?」
「いえ。ちょっと、気になっただけで……」
「そうですね……うちのスタッフは、僕含めて常識ある人ばかりですし、もし気になることがあればすぐ言ってください。僕が責任もって対処しますから」
柔らかく、しかし「確かな信頼」を感じさせる口調。その言葉に、藤澤はまた救われる。
(やっぱりこの人は違う)
「ありがとうございます。変なこと言って、すみません」
「いえいえ、いつでも相談してください」
そう言ってポケットに手を入れた大森は軽く笑った。
_____________
その日の夜、ポストには写真はなかった。代わりに小さな箱と一通の手紙。
中には丸められた佐々木の名札と便箋が入っていた。
「この人、君に近づいてたから片付けといた。もう大丈夫。もう誰も君に触れられないよ。ねえ涼架くん、僕のこと――少しずつ信じてくれてるよね?」
血の気が引く。
「片付けといた」
それが何を意味するのか考えたくないのに脳が勝手に映像を組み立ててしまう。
けれど同時に、心のどこかで思ってしまった。
(少なくとも僕を守ってくれてる)
違う、そんなはずない。でも、少しだけ嬉しいと思ったのは事実だった。
怖い。でも、嬉しい。
怖い。でも、誰かに必要とされている。
その矛盾がゆっくりと藤澤を侵食していく。
名札を持ったままドアを開けた瞬間、ふわりと鼻を掠めた知らない香り
(……ん?)
靴を脱ぎながら、もう一度深く息を吸い込んでみる。洗剤とも違う、ルームスプレーとも違う。けれど「どこかで嗅いだことがある」香り。
それがどこかは思い出せない。でも、確かにいつもはしない匂いだった。
「気のせいかな?」
そう呟いて部屋に上がる。
テーブルの上に置いたはずのマグカップが少しだけ右にズレていて、読みかけの本のしおりが一枚見つからない。ソファにかけたブランケットの折り目が、朝出かけた時とは違う気がした。
小さな、小さな違和感。
でもそれだけが積み重なると、急に「自分の部屋」が「他人の空間」に見え始める。
(誰か……入った?)
けれど鍵はかかっていた。窓も閉まってるし、侵入されたような痕跡もない。
「はは、やだな。僕、疲れてるのかな」
笑ってみたけど、手が震えていた。
_____________
翌朝、いつものようにコーヒーを淹れて、洗面所で髪を整えたとき、気づく。
くしが、少しだけ濡れている。
(使ってないのに)
その瞬間、心臓がドクッと大きく跳ねた。
背筋を冷たいものが駆け下りる。
(やっぱり……誰かが……)
――部屋に入っている。
(でも、鍵は……?)
そう考えて鍵を確認する。チェーン、施錠、問題なし。
(……まさか)
けれどその「まさか」を思い浮かべた瞬間、どうしてかあるひとりの顔が頭に浮かんでしまった。
艶のある黒髪に金色のインナー。落ち着いた笑顔。
柔らかい口調で、いつも優しく声をかけてくれる
(……大森さん)
「まさか」の中に、彼の名前を浮かべてしまったことに、自分で戸惑う。
いや、違う。そんなはずない。あの人は誰よりも味方でいてくれる。
(あんなに優しいのに。いつも心配してくれてるのに)
(……でも)
最近、彼の言葉があまりにも「知りすぎてる」と感じることがあった。
ネクタイの色、行った場所、本の内容、知ってるはずのないことが知られていた。
(……いや、違う。違う違う違う)
そうじゃないと困る。
信じている人が、信じられなくなったら、もう何も残らない。
_____________
その夜、ポストには何もなかった。かわりに冷蔵庫の中にあったガトーショコラが消えていた。
その位置には丁寧に畳まれた便箋が一枚置かれていた。
「甘いもの好きだったよね。一緒に食べたかったけど、我慢できなかった。ごめんね。でも、美味しかったよ。
今度は、君の手で食べさせてくれる?」
震える指で便箋を握りしめたまま、藤澤は声も出せなかった。
「――――っ!」
あまりにも静かすぎる部屋。ガトーショコラの包装紙はどこにもない。
冷蔵庫の扉の内側が、どこか濡れていた。
(……どうして)
鍵は、かかっていた。でも確かに、誰かがここに入って、僕の家の冷蔵庫にあったガトーショコラを食べて、便箋を残していった。
(本当に、誰)
問いは胸の奥で何度も跳ね返る。
あの知らない香りが、今この部屋にも微かに残っている。そして、それは。
いつも、美容室で感じる大森の香水と全く同じ匂いだった。
_____________
「それ、面白かったですよ」
藤澤は、カウンター越しに借りたばかりの文庫本を返しにきた青年に微笑んだ。
図書館の常連客で、話すうちに読書の趣味も似ていて最近では来館のたびに声をかけてくれるようになった人。
年は自分より少し下くらいだろうか。人懐こい笑顔に、自然とこちらも緊張を解いてしまう。
「これもおすすめです」
そう言って隣の棚から一冊を抜いて手渡す。青年が受け取りながらふわっと笑った。
「今日も、藤澤さんに会えてよかったです」
藤澤さんに会えてよかった
何気ない一言だった。
けれど、その言葉になんだか心がふわっと温かくなる。ほんの数分の会話だったけれど、それだけで、その日一日が少し軽くなるような気がした。
(人と話すのって、やっぱり嬉しいな)
そう思った――その日の夜。
ポストには何もなかった。代わりに、家のドアに1枚の紙がテープで貼り付けられていた。
白いA4用紙に、ただ名前がひとつだけ書かれていた。
「柳田翔太」
(さっき、図書館で話した人)
震える手で紙をはがす。その直後スマホが震えた。
また、匿名のDM。
「名前教えてくれてありがとう。でも、あの人は君を見すぎてた。次は見なくて済むようにしてあげるね。」
(やめて)
声に出せなかった。でも心の中で、そう叫んでいた。
(本当に、やめて)
_____________
翌日。
柳田翔太は図書館に現れなかった。その次の日も、そのまた次の日も。
いつも来ていた曜日。時間帯。何度もちらちら入口を見た。けれど彼の姿はどこにもなかった。
不安が募る中で、藤澤はこっそり貸出履歴を検索してみた。
(……え)
全ての貸出履歴が、「削除されていた」
図書館システム上でその名前を調べても「存在しない」と表示される。
ありえない。
職員の権限でも貸出履歴を完全に消すことはできない。できるのは、たった一人――システム管理者。
その管理者が誰かを、藤澤は知らない。
けれど、同僚がぼやいていたのを思い出す。
「最近、バックエンドいじれる人が増えたからってID貸し出し厳しくなったの知ってる?」
「へえ、そんな人いたんだ」
震えが止まらない。だってそれは
――誰かが内部に「入ってきている」
証拠だったから。
_____________
その日の夕方、いつものように美容室へ行くと、大森さんは変わらず優しく迎えてくれた。
「いらっしゃい、涼架くん」
「こんにちは」
「今日はカラーもトリートメントも……全部、僕がやりますね」
そう言ってにこっと微笑む。いつもよりもほんの少しだけ近い距離。
何も知らないはずの彼。
何も関係ないはずの彼。
「……はい。よろしくお願いします。今日、オイルトリートメントの気分で」
「ふふ、そろそろ全メニュー制覇する勢いじゃない?」
鏡越しの彼は笑うけど、僕はうまく笑えなかった。
けれど、施術中ふと大森さんが呟いた。
「あの柳田って子、最近来ないんだね」
(――え?)
心臓が一瞬止まる。顔には出せなかった。
でも、指先がわずかに震えたのを大森は見逃さなかった。
「……あ、ああ。うん、来なくなっちゃって」
「話、楽しそうでしたね。笑ってたからちょっと、羨ましかったです」
その声は優しかった。けれど、どこか低く、胸の奥に絡みついてくるようだった。
「でももう大丈夫。僕だけ、見てればいいから」
ドライヤーの音にかき消されそうなその言葉。けれど確かに、耳元で囁かれていた。
(――聞こえなかったふり、しよう)
藤澤は、目を閉じた。
まぶたの裏で、消された貸出履歴と、貼られていた名前の紙がフラッシュバックする。
けれど、大森さんじゃないと思い込むことだけが、まだ正気を保つ術だった。
帰り際、ふと彼がこんなことを言った。
「この間、カーディガンのタグ取ってなかったよね。あれ、好きなブランド?」
(──え?)
思考が止まった。
(あのカーディガン、まだ買い物に行った時しか着てないはず。職場にも美容室にも着ていってない)
「どうして、知ってるんですか?」
「え、たまたま。インスタに映ってた気がして」
「……そうですか」
(うん、きっと見間違いか。映ってたって気づかなかっただけ。だって、大森さんが僕のこと見てるなんてあるわけない)
僕の胸の奥で、何かがじくじくと熱を持った。
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夜。ポストに封筒が入っていた。
中には柳田翔太の写真――制服を着た彼が、どこかの駅で不安そうに立っている姿。
その裏にこう書かれていた。
「遠くに行ってもらったよ。もう君を見ることはない。大丈夫。
君に必要なのは、僕ひとりだけだから。」
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ストーカー藤澤を見たいと言われたので次回ストーカー藤澤回です
最近推し書き手さんにコメント貰えてニコニコしてます。
コメント
4件
不穏な感じ、わくわくしちゃいます……🤤