1
◇さくら、さくら
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さくら~さくら~
やよいのそぉらぁは……
みわたすかぁぎぃり~
かすみか、くぅもぉかぁ
においぞ……いずぅる
いざや~いざや~
みに……ゆぅかぁん~……
―――――――――――
病院のベッドで目覚めた桃は知らず知らず童謡唱歌である
『さくらさくら』を呟くように歌っていた。
悲しい歌だなぁと思うも……どうしてだか眦から涙こぼるる。
左手方向に視線を向けると窓越しに頭上高く浮かぶ白い雲と
薄いブルーの空が見える。
どこも痛みは感じない。
自分はどうしてここに?
頭の中にモヤが掛かっているようで疲れを感じる。
考え始めると、自分の名前も出て来ず少しパニックになる。
仕方がないのでナースコールで人を呼んでみた。
「目が覚めたのですね」
にこやかな表情で入室してきた看護師が話し掛けてくれる。
「私……は、あの……私自分の名前が分からないのですが」
「水野桃さんと言いますよ」
「どうしてここにいるのでしようか?
悪いところはどこにもないように思うのですが」
「水野さん、後で先生から説明させていただきますので少しお待ちくださいね」
そう言い残し、その人は出て行った。
『水野桃』って言うんだ、私。
夕方になってやっと一人の女医がやってきた。
彼女は記憶を亡くした自分に入院に至るまでの経緯を掻い摘んで説明してくれ、
そこで私は自分がここにいる理由を知った。
明日か明後日には家族に面会に来てもらう、というような話をして
その医師は部屋をあとにした。
私は自分の仕出かしたことを話に聞き、心底驚いた。
自分という人間がそんなにおそろしい人間だったとは。
信じられないけれど、あの医師が嘘をつく必要もないと思われ……。
刃物のようなきれっきれっのすごい女なのだ、自分は。
身内が面会に来るらしいのでその内記憶も徐々に戻るかもしれない。
クソおそろしい自分の有り様を教えられたため、瞬間、動揺が走った
けれど、全ては己の記憶が戻った時に、身の振り方というかどのように
考えて生きていけばいいのか、というようなことを決めるしかないわけで。
記憶が戻らない間、悲観して過ごすことは止めることにした。
何故か、自分が何者なのかも分からない中、本能がそう告げる。
2
今朝目覚めると朝食が終わる頃に昨日と同じ女医が部屋を訪れ、
励ましの言葉をくれた。
「あなたがどうしてそんな行動まで起こすことになったのか
今日来てもらうことになっているご家族にいろいろとお話を伺えば、
だいたいの理由が掴めるのではないかと私は思っています。
私はあなたの味方よ。
あなたの内包している悲しみや苦しみが小さくなるよう
手助けしたいと考えているわ。このことだけは忘れないでね」と。
今日は自分に関りのある家族が会いに訪れると聞く。
まだ誰の顔も思い出すことができない。
どんな顔ぶれと遭遇するのだろう。
昨日の話からして、私に進んで会いたいと思っている者など
誰ひとりとしていないだろう。
私の両親は怒り泣き出すだろうか、それとも……。
朝目覚めた時から先ほどまであれこれ考えを巡らせたものの、
実際に起きることなどその時になってみなければ分からないのだからと、
途中で考えることを手放した。
そして……その時はやってきた。
◇ ◇ ◇ ◇
予め聞いていた通り、両家の両親が自分を見舞うため病室に入ってきた。
実の両親が誰なのか、すぐに分かった。
母親が一切の遠慮のない視線を私に投げかけてきたからだ。
義両親は遠慮がちでいて、だからといってそれは距離をとっているだけで
私に遠慮など本当はしてないような微妙な態度だった。
そりゃあそうだろう。自分の息子に襲い掛かった女なのだ、自分は。
うまく怒りを隠してはいるが彼らの本心は怒りで打ち震えていることだろう。
だが人が人をナイフで刺すなどと、よほどのことがなければそういう行為には
至らないだろうと思う。
だから自分にちゃんと記憶が戻るまでは彼らに対して身を小さくしていることは
やめるつもりだ。
でもまぁ、人様の息子の身体に切りつけたようなので、最終的には謝罪が
必要なのだろうなぁ、と薄ぼんやり考えるに至った。
でもそれは今日じゃない。
3
「桃ちゃん、私のことも思い出せないの?
あんなこと仕出かしておいて何も覚えてないなんて、あなた嘘ついたり
してない? みんなに合わせる顔がなくて……」
「お母さん、落ち着いてください。
今日両家のご家族をお呼びさせていただいたのは、桃さんがこれまで
どのような状況下にいたのか、ということをお聞きしたかったからなのです。
ですので今は桃さんが記憶を失くした振りをしていたとしても、ましてや
本当に記憶を失くしているのなら尚更、桃さんの立ち位置を私は
知らなければなりません。
また皆さんが私に話してくださる流れの中で皆さん自身もご自分たちの
これまでの桃さんに対する対応に間違いがなかったか、そういったことも
含めて知っておいていただける話し合いにしたいと考えております」
入室して私を見るなり矢継ぎ早に質問してきた母親を抑えたのは
私を担当する精神科医の霧島奈津子女医だった。
彼女は知的でたおやか、また日本人離れした大らかさも漂わせており、
美しさの中に無邪気な可愛さを併せ持つスレンダーな女性だ。
そして言うべきところはズバっと言える気の強さも感じられる。
そんな彼女の申し出に、この時からすでに私は何かを期待せずには
いられないのだった。
「桃さんとご主人の結婚生活が上手くいかなくなったのは
ご主人の女性関係が原因ですか?」
「……」
「……ですよね?」
「でも、俊くんは娘に謝罪して相手の女性とは手を切り、ずっと上手く
いってたんですよ?」
と桃の母親が答えた。
「手を切ってたはずの女性と一緒にいるところで娘さんのご主人は
娘さんに切りつけられてますよね?
手を切ったはずの女性と何故ホテルで一緒にいたのでしょう?
水野俊さんのご両親は何かその辺の事情をご存じですか?」
「きっと相手の女に唆されたんです、きっと。
でないとあんなに心から反省していた息子があの女に会いに
行くはずありません。
俊はそれはもう桃ちゃんのことを大切に思ってたし、
大切にしてたのですから」
そう俊の母親が抗議した。
「話を少し変えますね。
俊さんの浮気が発覚した後の桃さんの様子はどうでしたか?」
女医はこの質問で4人が4人とも、なんとも言えない表情をしたまま
口を噤んでしまい、なんとなくではあるが彼らの当時の思惑が見えてきた。
そうすると、今疑問に思えることの点と点がすんなりと繋がるのである。
「桃さんは離婚を口にしていませんでしたか? 離婚したい……と」
「そ、そりゃあ発覚当時は娘もかーっときて、そんなことも言いましたが
私たちが宥めて元の鞘に収まったんです」
「娘さんは納得されてたと?」
「はい、もちろんです」
「水野さんの息子さんは離婚を受け入れなかったのですか?
桃さんの気持ちを優先されなかったのでしょうか?」
「息子はなんとしても離婚したくないと言いました。
これからは反省して桃ちゃんを大切にしていくからと。
それで私たちも桃ちゃんに息子のしたことをお詫びして息子とこれからも
仲良くしていってほしいとお願いしました」
「桃さんのお母さんにお尋ねします。
桃さんから離婚したいから実家に帰らせてほしい、なんていう申し出は
なかったのでしょうか?」
「一度、ありました。
でも私もいろいろと身体に不調がありますし、娘が働きに出ている間、
孫をみるなんていうことはできません。それに俊くんが女性の元へ走るのなら
いざ知らず、これからは改心して娘を大事にしてくれると言ってくれているのですから
娘と孫の将来を考えてもやり直すのが一番だと思い、冷たいようですが私にも生活が
あります……なので離婚して帰ってきても孫の面倒は見られないと一蹴しました」
「やはり、そうでしたか」
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