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彼女は偉央が今の場所に『みしょう動物病院』を構える前からずっと一緒に働いてきた旧知の仕事仲間だ。
偉央が動物病院を開業する前に世話になっていた病院のスタッフ仲間の一人――。
それが加屋美春だった。
結葉にプレゼントした雪日は、実は美春の家からもらった子だったりする。
***
それにしても――。
やはりキッチンの方から物音が聞こえるのは気のせいではないかも知れないと思い始めた偉央だ。
目覚めてすぐの頃は幻聴だと思っていた物音だったが、それにしてはやけにハッキリと気配が感じられる気がして。
(泥棒だろうか?)
ふとそんなことを考えて、このマンションのセキュリティの高さを思って有り得ない話だと打ち消した。
では――?
(もしかして……結葉が帰って来てくれた?)
そんなこと有りはしないと頭では分かっているのに、心が〝確認してみるだけしてみればいいじゃないか〟とざわつく。
偉央はまだ少しフラつく足を鼓舞して寝室を出た。
***
恋焦がれて止まなかった結葉がキッチンにいるのを見た瞬間、偉央は信じられない気持ちでいっぱいで、 自分はまだ眠っていて、夢の続きを見ているんだろうか? と錯覚しそうになる。
それでだろうか。
いつもの偉央ならば、計算高く結葉に逃げられてしまわないよう、彼女の退路を絶ってから声をかけるのに、溢れ出る感情が抑えられなくてつい声を掛けてしまった。
案の定、結葉は偉央の姿を見るなりひどく怯えた顔をする。
だけど不幸中の幸いだろうか。
今日の自分は精神的な苦痛からくるストレスで、肉体的にかなり弱っていた。
その危うさが功を奏したらしい。
偉央が出した手紙を見て、わざわざ手料理を持参してくれたらしい結葉が、恐る恐るといった調子で「少し召し上がられませんか?」と言ってくれた。
驚きながらもお願いしたら、台所に立った結葉が、自分のために食事の支度をし始めてくれる。
まるで一緒に住んでいた頃のような光景に、夢でも見ているんじゃないかと舞い上がってしまった偉央だ。
極度の興奮で一時的に貧血を起こしてしまったらしい。
気が付けば、不意に襲ってきた目眩に、偉央は情けなくもしゃがみ込んでしまっていた。
結葉は、突然膝を折った偉央のことをそのまま放って置けるような薄情な女性ではなかった。
ほとんど無意識の行動だろう。あんなに怯えた目で自分のことを見ていたはずの結葉が、すぐそばまで駆け寄ってきて自分を心配してくれる。
そのうえ間近で顔まで覗き込まれた偉央は、思わず結葉を抱きしめずにはいられなかった。
だが、腕の中に絡めとったと同時、結葉がギュッと身体を縮こまらせて、咎めるように偉央の名を呼ぶから、 偉央はハッと我に返ったのだ。
「ごめん。ちょっとだけ肩を貸してもらえないかな」
自分の愚行を誤魔化すみたいにそう言ってみたら、素直な結葉は自分の嘘を信じてくれてすぐに警戒を緩めてくれた。
そういう愚かなところも含めて、結葉のことが心の底から愛しくて堪らないと思ってしまった偉央だ。
結葉がここに居てくれる間に、何とかして彼女の気持ちを変えられたらと思ったけれど、散々拗らせてしまった夫婦仲が、ほんの少しの時間でうまく修復出来るとはさすがに思えない。
食事を終えた時、もう少ししたら結葉はまた出て行ってしまうんだと思ったら、それまで抑えていた、〝結葉を帰したくない〟という気持ちが、とうとう爆発してしまった。
優しい結葉のことだ。
もし子供が出来てしまったなら、自分の気持ちを押し殺してでも〝子供のために〟父親である自分との生活を甘んじて受け入れてくれるのではないか。
偉央は、そう思ってしまった。
――結葉、ごめん。僕はこんな方法でしか、キミを押し留める術が見出せないんだ。
そう心の中で謝りながらも、涙目で自分を見上げてくる結葉を離してやることがどうしても出来なかった偉央は、彼女の泣き顔を見なくて済むようギュッと結葉の身体を抱きしめて動けないようにしてしまう。
あんなにも自分は、結葉にもう一度会えたなら、彼女を捕まえたり怖がらせたりしたくないと願っていたはずなのに。
結局、結葉を前にしてしまうとこうなってしまう自分を止められないのだ。
どうしてこうも、結葉のこととなると感情がコントロール出来なくなるんだろう。
結葉が嫌がっているのが分かるから、何とか離してやりたいと思うのに、それを許さない自分の方が大きくて、 気が付いたらいつもそちら側の自分に支配されてしまっている。
結葉に対しては、自分でもどうしようもないくらい狡賢くて我欲を押し殺せないもうひとりの偉央が、華奢な妻の身体を身動き出来ないよう押さえつけたまま、彼女の耳元で「帰ってきて、お願い……」と、懇願する。
それは、流されやすい妻の優しさをズルいくらいに計算し尽くした言葉だった。
偉央からすれば決死の問い掛けだったその言葉に、あろうことかあんなに従順だったはずの結葉が、ビクッと身体を震わせて小さくイヤイヤをして、
「もう、無理……なのっ。お願ぃっ、離してっ。偉央さん……!」
と明確に偉央を拒絶する。
それだけでも偉央にとっては耐え難い苦痛だったのに、そこで来訪者を知らせるチャイムの音が部屋内に響いた。
途端、結葉がその音に弾かれたみたいに激しく抵抗を始めたから堪らない。
それだけならまだしも、まるで偉央の泣きたい気持ちに追い討ちをかけるみたいに結葉が「……想ちゃん、助けて……っ!」と震えた声を絞り出すから。
偉央のなかで何かがプツリと切れた――。
***
想は三二階までたどり着くなり、はやる気持ちを抑え切れず、エレベーターの扉が完全に開き切る前に身体を横にして、すり抜けるように廊下へまろび出た。
エレベーターから真正面に見える突き当たりの部屋が、想が目指す三二〇一号室だ。
想は部屋にたどり着くのに夢中で深く考えていなかったけれど、このまま自分があの部屋の前まで出向いて扉の外側から騒いだとして、中から開けてもらえなかったら意味がないのではないかと今更のように気が付いた。
だからと言って、そのままおめおめと立ち去ることが出来なかった想だ。
とりあえず行ってから考えようと部屋前まで行くと、奇跡だろうか。
扉に何かが挟まっていて、ドアが完全に閉まりきっていない。
ふと足元を見ると、ドアの隙間から靴べらが覗いている。
もしかして結葉が、有事に備えて退路を確保していたのだろうかと思った。
それでも一応他人の家だ。
確証もないのに不安だけでいきなりドアを開けて中に入るのは気が引けた想である。
一旦はドアノブに手を掛けたけれど、少し逡巡して、 ノブを握った手はそのままに、玄関扉横に設置されたインターフォンを押した。
中から、来訪者を知らせる電子音が漏れ聞こえてきた――。