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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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日が暮れるころ、屋敷の門の前に、黒い自動車が二台止まった。
先に来ていた麻布署の巡査たちが、一斉に姿勢を正した。
降りてきたのは、肩幅の広い、いかつい顔の男だった。古びた外套の襟を立て、帽子を取りもしない。
「警視庁の鬼塚です」
男は、それだけ言って、応接間に入っていった。
宇佐美先生の体は、白い布を掛けられて、絨毯の上に横たえられていた。
鬼塚警部補は、その脇にしゃがみこみ、布の端を少しだけめくった。それから、床に転がった牡丹の茶碗に、鼻を近づけた。
「……杏の匂いだ」
低い、くぐもった声だった。
今度は、小卓の上の急須の蓋を取り、中を覗く。
「急須の残りは、ただの茶ですな。匂うのは、茶碗のほうだ。内側に」
警部補は、ゆっくりと立ち上がり、部屋の中の顔を順に見た。
侯爵様。大奥様。真柴さん。タキさん。そして、私。
「茶を淹れたのは」
「……私です」
声が、思ったより小さく出た。
「水は」
「洋館の厨房の水甕から。厨房には、鍵がかかっております」
「鍵を持っとるのは」
「私と」
侯爵様が、先に答えた。
「妻だ」
警部補の目が、侯爵様と私の間を、一度だけ往復した。
「その茶碗は、蔵の客用のお品で」
私は、膝の上で手を握りしめて言った。
「家令さんが出したものだと、タキさんから伺いました」
部屋の視線が、真柴さんに集まった。
真柴さんは、少しも慌てなかった。眼鏡の奥の目を伏せて、静かに頭を下げた。
「はい。大奥様のお言いつけで、私が蔵を開け、お客様にふさわしい器を選んで、タキに渡しました。先代様の、牡丹のお品でございます」
「拭いたのは、私でございます」
タキさんが、背筋をまっすぐにしたまま言った。
「乾いた布で、二度。何も、ついてはおりませんでした」
警部補は、手帳に何か書きつけた。それきり、誰の顔も見なかった。
*
「宇佐美は、死ぬ前に、何か言いましたか」
大奥様が、口を開いた。顔は、白い紙のようだった。
「手紙、と。懐から、手紙を出そうとしておりました。……これがその手紙です、と」
警部補は、もう一度しゃがみこみ、宇佐美先生の背広の内側に手を入れた。
胸の隠し。腰の隠し。鞄の中。
手が、止まった。
「何も、ありませんな」
警部補は、ゆっくりと顔を上げた。
「倒れたとき、そばにいたのは」
「私が抱え起こした」
侯爵様が言った。
私は、何も言わなかった。
帯の間で、四角い紙の角が、脇腹に食いこんでいた。息をするたびに、それが動く気がした。
「警部補」
大奥様の声が、応接間に響いた。
「その娘の部屋を、調べさせていただきます」
扇の先が、まっすぐに私を指していた。
「母上」
「冬馬さんは、黙っていなさい」
大奥様は、侯爵様を見もしなかった。
「この娘が来てから、この家は何もかも狂っております。昨日は婦人会の真ん中で宇佐美先生を晒し者にし、今日はその先生に茶を出した。この娘が、何をこそこそと嗅ぎ回っているのか。私は、前から知りたかったのです」
警部補は、帽子のつばに指をかけた。
「家の中のことは、ご随意に。私も立ち会いましょう」
私は、侯爵様を見た。
助けて、と言える立場ではなかった。けれど、目が勝手に、その人を探していた。
侯爵様は、私を見ていた。
「……調べさせればいい」
平らな声だった。
「何も、出ない」
その一言が、どんな叱責よりも深く、胸に刺さった。
*
洋館の二階の私の部屋に、女中のハナさんとキヨさんが入った。
大奥様と警部補が、戸口に立つ。その後ろの廊下に、侯爵様と、真柴さんと、騒ぎを聞いて駆けつけた百合絵様。お鈴が、泣きそうな顔で、柱の陰からこちらを覗いていた。
箪笥の引き出しが、一つずつ開けられていく。文机の上の帳面がめくられる。
最後に、キヨさんが、部屋の隅の行李の蓋を取った。
母の形見の、紺地に白い桔梗の小紋。
父の店の活字を詰めた、木箱。
キヨさんの手が、行李の底の敷き紙を持ち上げた。
「あら。底板が、浮いて」
私は、目を閉じた。
「大奥様。こんなものが」
キヨさんが差し出したのは、封筒が一通と、折り畳んだ半紙が二枚だった。
大奥様は、封筒を受け取ると、電灯の下で表を返した。
「白鷺女学校気付、志摩栞様」
それから、中の便箋を抜き出した。
大奥様は、黙って読みはじめた。
最初の数行で、白い顔が、ぴくりと動いた。
最後の行まで読むと、大奥様は、顔を上げた。そして、廊下に立つ皆に聞こえるように、ゆっくりと、声に出して読み上げた。
「栞、この家の紙は嘘をつく。
もし私に何かあったら、この家の紙を、あなたの目で見て。
千鶴」
廊下が、しんと静まり返った。
「千鶴、お姉様」
百合絵様の声が、震えた。
「お義姉さま……千鶴お姉様の、お友達だったの……?」
大奥様は、便箋を指の先でつまんだまま、私を見下ろした。
「千鶴さんと、手紙をやりとりする仲だった。それを、この家の誰にも言わずに、嫁いできた」
能面のような顔に、初めて、はっきりとした表情が浮かんでいた。軽蔑だった。
「借金の形などと、殊勝な顔をして。この家に、間者を入れていたとは」
真柴さんが、眼鏡の奥で、静かに目を細めた。
「……さようで、ございましたか」
それきり、口を閉ざした。
侯爵様が、キヨさんの手から、折り畳んだ半紙を二枚、黙って取った。
開く。
今日は焦げていない。雨。縁側の拭き掃除は女中にさせろ。膝を冷やす。
自分の字を、侯爵様は長いあいだ見ていた。千鶴さんの手紙の隣に、ずっと大事にしまわれていた、自分の字を。
何も言わずに半紙を畳むと、侯爵様は、廊下の暗がりへ歩いていった。
私の名前を、一度も呼んだことのない人の背中だった。
「奥方」
戸口で、鬼塚警部補が帽子をかぶり直した。
「どこにおられるかだけは、いつでもわかるようにしておいてください。消えられては、困りますんでな」
*
夜が更けても、誰も私の部屋に来なかった。
引き出しが開いたままの箪笥。散らばった帳面。蓋の開いた行李。
私は、その真ん中に座りこんで、帯をほどいた。
封筒が、膝の上に落ちた。
宛名は、なかった。
中には、厚手の罫紙が一枚。電灯の下で開く。
久遠寺家の紋が、上の端に刷られている。四方を、太い線と細い線を並べた子持ち罫が囲んでいた。
その中に、墨の字が並んでいた。
「小夜子儀 不義の子を苦にしての自死と存じ候
家名のため 病名は流行性感冒と記されたし
冬馬」
横の線が、わずかに右へ上がっている。
止めで、筆をぐっと押さえている。払いは短い。
さっき侯爵様が持っていった、あの二枚の半紙と、同じ字だった。
膝の上で、罫紙が震えていた。
違う、と言いたかった。けれど、私の目は、この字を知っている。
一つだけ、引っかかるものがあった。
どの字も、半紙の字より、ほんの少しだけ、行儀がよすぎる。払いの先まで、一画一画、きちんと止めてある。
けれど、それが何を意味するのか、考える力は、もう残っていなかった。
かちり、と音がした。
内側の扉の、鍵が回る音だった。
私は、とっさに罫紙を行李の敷き紙の下へ押しこんだ。
扉が開いた。
侯爵様が、立っていた。
電灯を背にして、顔が影になっている。白いシャツの袖が、まくられたままだった。
長いあいだ、侯爵様は黙っていた。
それから、低い声が、部屋の中に落ちた。
「君は、私を疑って嫁いできたのか」
答えられなかった。
はい、と言えば、すべてが終わる。いいえ、と言えば、また一つ嘘が増える。
私は、散らかった部屋の真ん中で、ただ、侯爵様の影を見上げていた。
廊下の向こうの扉越しに、大奥様の声が響いた。
「明日、この娘を実家へ帰します」
侯爵様は、扉の前に立ったまま、何も言わなかった。
コメント
1件
うわ……第40話、重すぎる……! まず鬼塚警部補の登場で一気に空気が変わったな。杏の匂いってアレか、宇佐美先生の茶碗から感じたんだな。で、主人公の帯の間に挟んだ封筒がずっと気になって仕方なかった。あの手紙の中身、侯爵様の筆跡って……でも「行儀がよすぎる」って引っかかりも残してるのが上手い。大奥様の「間者」発言もキツかったし、最後の侯爵様の「君は私を疑って嫁いできたのか」が胸に刺さるわ。続き気になりすぎる、待ってるからね!🔥