テラーノベル
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侯爵様は、何も答えなかった。
大奥様の足音が遠ざかると、黙って内側の扉を引き、向こうへ消えた。鍵の回る音が、もう一度だけ、かちりと鳴った。
その夜、私は一睡もしなかった。
散らかった部屋を片づけ、箪笥の引き出しを一つずつ戻した。帳面を揃え、母の小紋を畳み直す。手を動かしていないと、扉の向こうの気配に耳を澄ませてしまいそうだった。
向こうからは、足音ひとつ聞こえなかった。
夜明け前、行李の敷き紙の下から、罫紙を抜き出した。
封筒に戻し、帯の内側へ滑りこませる。十二階の雁皮紙と、同じ場所だ。
二枚の紙が、脇腹で重なった。
*
朝、合鍵で厨房の扉を開けた。
焜炉は冷えていた。銅鍋は三つとも、壁の釘に掛かったまま。水甕の蓋の上に、昨日の朝の梅干しの小皿が、洗って伏せてあった。
誰もいなかった。
返さなければ、と思った。けれど、鍵を握った指が開かなかった。
私は鍵を、蝦蟇口と一緒に帯の間へしまった。
和館の玄関では、真柴さんが運転手に指図して、私の行李を自動車に積ませていた。
「奥様。本所までは、お車で。お父上様へのお見舞いの品も、少しばかり積んでございます」
いつもと同じ、柔らかな声だった。
「大奥様は」
「お加減がすぐれず、お部屋でお休みでございます。御前も、今朝は早くから書斎に。お見送りは、ご遠慮申し上げるようにと」
誰が、誰に。訊き返す気力は、もう残っていなかった。
門の脇に、お鈴が立っていた。前掛けの端を握りしめて、目を真っ赤にしている。
「お嬢様は、お部屋に閉じこもって、朝から泣いておいでです」
「お鈴。百合絵様に、ごめんなさいと」
「いやです。そんなの、奥様がご自分で仰ってください」
お鈴は、ぶるぶると首を振った。
自動車に乗りこもうとしたとき、背後で草履の音がした。
タキさんだった。黒い筒袖の背筋をまっすぐにして、私の前に立つ。
「奥様。あの冬の、藤の間の……」
そこまで言って、タキさんの目が、私の肩越しに動いた。
真柴さんが、自動車の扉に手をかけて、こちらを見ていた。
タキさんは口を閉じ、深く頭を下げた。
「お達者で、お過ごしなさいまし」
顔を上げたときには、もう、いつもの無愛想な女中頭の顔だった。
*
本所の路地に黒い自動車が入ると、長屋の戸という戸が、一斉に細く開いた。
半年あまり前と、同じだった。違うのは、囁かれる言葉だけだ。
「志摩さんとこの娘だよ。行李ごと帰ってきた」
「侯爵様に、返品されたんだろうさ。三人目も、長くはもたなかったねえ」
私は、顔を上げて歩いた。行李を担いだ運転手が、気まずそうに後ろをついてくる。
格子戸を開けると、父が布団の上に起き上がっていた。
私の顔を見て、それから、行李を見た。
父は、何も訊かなかった。
「……腹は、減ってるか」
「お父さん、寝ていて」
「粥くらい、炊ける」
父は壁に手をついて立ち上がり、火傷の痕の残る手で、土鍋に米を量った。手が小刻みに震えて、米粒がいくつか板の間にこぼれた。
私はそれを一粒ずつ拾いながら、唇を噛んだ。
父の粥は、水が多くて、塩が足りなかった。
この家では何も食べるな。私が用意したもの以外は。
婚礼の夜の声が、ふと喉の奥に浮かんだ。ここは、あの家ではない。誰の許しもいらない。
匙を口に運ぶと、温かかった。それだけで、涙がこぼれそうになった。
真柴さんが積ませた見舞いの品は、菓子折りだった。
銀座の千草堂の掛け紙。指でなぞると、活版の強い押しがある。本物だ。
それでも私は、紐を解かなかった。
「せっかくの頂き物だ。おまえも、甘いものは好きだろう」
「お父さん。これは、棚に上げておいて」
父は不思議そうな顔をしたが、何も言わなかった。
半年あまり前、お鈴は、私の菓子を食べて倒れたのだ。
*
それから三日、侯爵様からは何の便りもなかった。
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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手紙も、使いも。竹皮の包みも。
近所の噂だけが、日ごとに尾鰭をつけて、格子戸の隙間から入ってきた。
夜になると、表通りを市電が鳴らして過ぎる音が、薄い壁越しに聞こえた。
朝になると、手が勝手に、竹皮の包みを受け取る形に開いている。私はそのたびに、指を握りこんだ。
四日目の朝、いつもの医者が来た。
毎週、父を診に来てくれている、白髪頭の小柄な先生だ。父の胸に聴診器を当てて薬を置くと、帰りぎわ、土間で私を振り返った。
「それから、お嬢さん。あなたの顔色も見てくるようにと、仰せつかっておりまして」
「……どなたに」
「侯爵様ですよ。昨日、わざわざ医院にお電話をくださった。眠れているか、食べているか、と」
先生は私の顔をじっと見て、眉を寄せた。
「どちらも、できておりませんな。そう申し上げておきましょう」
格子戸が閉まったあとも、私は土間に立ったまま動けなかった。
便りはない。けれど、あの人は、私の顔色を訊いている。
疑って嫁いできた女の顔色を。
奥の部屋で、父が小さく咳をした。「ちゃんと食えよ」と、それだけ言った。
*
同じ日の夕方、もう一人、客が来た。
古びた外套の襟を立て、帽子を取らない男。鬼塚警部補だった。
狭い上がり框に腰を下ろすと、奥の部屋の父へ、帽子のつばを軽く下げる。
「どこにおられるか、わかるようにしておいてくれと言いましたがね。わかりやすいところにおられて、助かりましたな、奥さん」
奥方、ではなかった。
この路地には、そのほうが似合っていた。
「宇佐美医師の件は、服毒自殺で片付くことになりそうです」
「……自殺」
「主治医が患者の死因を偽り、それを公の場で暴かれて、恥じて毒を仰いだ。筋は通りますな。上も、そう読みたがっとる」
「毒は、茶碗に」
「青酸です。茶碗の内側に、塗ってあった。急須にも、あんたの湯呑みにも、何も出とらん」
警部補は、太い眉の下から、ちらりと私を見た。
「茶を淹れた者が一番に疑われる。それを承知で、客の茶碗にだけ、前もって塗っておく。……ずいぶんと手のこんだ自殺ですな」
ごつい指が、帽子の縁をなぞった。
「久遠寺将臣という人が、たいそう熱心に、上のほうへ口を利いて回っとるそうでしてな。華族の家の応接間で客が毒を盛られたなんぞという話は、家名に障るんだそうで」
叔父様の赤ら顔が、目に浮かんだ。
「警部補は、納得しておいでなのですか」
警部補は、それには答えなかった。代わりに、私の顔をまっすぐに見た。
「自殺する男が、わざわざ手紙を懐に入れて、人の家まで来ますかね」
心臓が、ひとつ大きく打った。
「医者は、死ぬ前に、手紙と言った。懐には何もなかった。……奥さん、心当たりは」
「……いいえ」
帯の内側で、紙の角が脇腹に触れていた。
警部補はしばらく私を見ていたが、やがて膝を叩いて立ち上がった。
「華族の圧力でものを決めるのは、好かんのです。思い出したことがあったら、いつでも」
*
夜、父の寝息を確かめてから、帯をほどいた。
封筒から、罫紙を出す。
冬馬。
あの人の名が、あの人の字で、そこにあった。
あの家にいるあいだ、私はこれを、一度もあの人に見せられなかった。見せれば、訊かなければならない。あなたが書いたのですか、と。
答えを聞くのが、怖かった。
それなら、字ではなく、紙を見よう。
千鶴さんが、そう書いていた。この家の紙を、あなたの目で見て、と。
帯に挟んでいた父の鼈甲縁のルーペを、目に当てた。石油ランプの芯を、少し上げる。
墨の字は見ない。罫を見る。
上の端の紋。四方を囲む子持ち罫。太い線の端を、細い線よりわずかに長く出して留める、あの組み方。
右上の角。右下の角。左上の角。
左下の角で、ルーペが止まった。
子持ち罫の左下に、小さな欠けがあった。
コメント
1件
うわあ…また静かに重い回でしたね。本所に戻された主人公が、父の粥の温かさに涙しそうになるシーン、じーんときました。侯爵様は手紙も寄越さないのに、医者を通じて顔色を訊いてくるって…奥ゆかしいというか、甘いのか逃げなのか、複雑だなあ。そして最後のルーペの罫紙の欠け。やっぱり罫紙の謎が鍵なんだ。千鶴さんの手紙、ちゃんと受け取れたね。焦れったいけど、少しずつ解けてく感じが好きです。