朝起きると、雨君はこっちを向いていた。モジャモジャの天然パーマに腫れぼったい瞼。低い鼻にちっちゃい口。控え目な顔立ちなのに、眉毛の主張が激しい。
繋がっちゃってるなー。
私は、眉間の毛を指で摘んで引っ張った。
「イテッ!」
顔が真ん中に集まるようにシワシワになる。可愛い。
パチッと音がしそうな程勢い良く目が開いた。私を見てビックリする雨君は、紛れもなく『外の雨』君。
「あれ?アスカちゃん?パジャマ・・・俺スーツで寝てるし。あれ?記憶飛んでる・・・」
上半身を起こして混乱する雨君。とっても可愛いけども、大きな声が頭に響いた。
「昨日、助けてくれたんだよ。覚えてる?私、知らない男の人に襲われてたの」
昨夜の打ち合わせ通りに私は嘘を吐いた。こんなの本当に信じるのだろうか。絶対に襲われているようには見えなかった自信があるのだけれど。
「えっ!そう言えば・・・アスカちゃん襲われてたんだ!だっ大丈夫だった?今一緒って事は大丈夫だったんだよね。良かった!」
大きな声でそう言って、私を抱き起こしてぎゅっとした。
ああ、全然大丈夫だった。
それにしても頭が痛い。起こされて目が回る。サーッと血の気の引く感覚と共に頭と手足の先が冷えていく。込み上げる吐き気。
「雨君、気持ち悪い。吐いちゃう。どうしよう目が回るよー」
私はそう言って雨君に縋りついた。
「わー、大変。トイレ行こう」
雨君は私をトイレまで連れて行ってくれた。止めどなく吐き続ける私の背中を摩ってくれる。
「珍しいね、アスカちゃんが二日酔いなんて。こんなに吐いてるの見るの初めてだよ。体調が悪かった?」
体調が悪かった記憶は無い。アルコールは飲んだが、そこ迄の量でも無かった筈だ。という事は、何か盛られてたのかも。雨君が来なかったら、私危なかったのかも知れないな。
そこまで考えて、私は昨夜の事を思い出した。
昨日仕事上がりにエリと飲んでて、知らない男の人2人組にナンパされて、一緒に飲んで、そこから段々と記憶が朧げになって行く。2-2に分かれて、私は家で雨君に見つかってこうなり、そしてエリは・・・。
「エリ大丈夫かな・・・」
ペーパーで口元を拭きながら私は呟いた。
「エリちゃんよりアスカちゃんが心配だよ」
雨君は優しい。心配掛け過ぎる訳にはいかないな。
幸い一度吐けば吐き気は治った。ふらつきはするものの、動けない訳では無い。
「私は大丈夫。吐いたら楽になった。雨君仕事行かないとだよね?シャワー浴びる?多分クローゼットにスーツ入ってたから着替えて」
冬服だけど、2セット程あった筈だ。手足の痺れと眩暈はまだ少しあったが、私は雨君を立たせてバスルームに押し込んだ。時計は7:15を示している。まだ余裕がある。
「アスカちゃんは?今日休み?」
「うん。休みだからゆっくりしてる」
お風呂のドア越しに話す。私は歯を磨いて、雨君の服と自分の洗濯物を洗濯機に放り込み、洗剤と柔軟剤を入れてスタートボタンを押した。雨君の為に新しいバスタオルを出して、着替えも一通り用意した所で私のスマホが鳴る。バイト先の店長からのLINEだ。
『アスカちゃん今日ヒマ?エリちゃんダウンしてるから代わりに出れる人募集中』
「エリ潰れてるじゃん・・・」
『アスカちゃんもダウンしてるみたいですよ?』
と、返信してみた。すぐ通話が来る。
「ハイハイ」
「アスカちゃん元気そうじゃない。エリちゃんヤバそうだから代わってあげてよ。声死んでた」
「えー、私も辛いんですけど」
「まだアンタの方がマシよ。遅番で宜しく」
一方的に切られた。溜息が出る。エリにLINEを入れた。
『大丈夫?』
既読スルー。死んでる・・・。仕方ない、代わりに出てあげよう。
出掛ける準備をノロノロとしていると、雨君が出て来た。下着姿で首から下げたタオルで頭を拭いている。
「あれ?出掛けるの?」
「エリの代わりに仕事出る事になった」
「ええ!?」
雨君は慌てて私に駆け寄ると、正面に座って目線を合わせて来た。不安そうに揺れる目が私を見詰める。
「休みなよ、顔色悪い」
「平日だし何とかなるよー」
私はそう言いながら雨君の頭を拭いた。そして、毛抜きを持って来て雨君の眉間の眉毛を抜く。
「イテテ、痛いよアスカちゃん」
逃げようとする顔を捕まえる。
「キチンと手入れすれば素敵なんだから、もうちょっと頑張ろうよー」
嫌がっていたものの、観念して大人しく痛みに耐える雨君は可愛い過ぎて、押し倒したくなってしまう。
ついでにハサミで眉毛を整えた。ドライヤーで髪も乾かして上げる。野放しの天然パーマも、ブローして整髪料で整えてあげればカッコ良く仕上がる。
「・・・アスカちゃんの香り・・・」
雨君はそう呟いて、少し赤くなった。
「全部私のだから。洗濯洗剤もシャンプーも整髪料も」
私は、言いながらクローゼットからスーツを取り出してソファに置いた。そして冷蔵庫から林檎を取り出して皮を剥く。塩水にさっと浸けてガラスの器に乗せてフォークを刺してテーブルに置く。隣に麦茶も出した。
「遅番?」
シャツのボタンを止めてスーツのパンツを履きながら、雨君が聞いた。
「うん。遅番」
私は自分用のマグカップに注いだ麦茶を飲みながら答える。
「21時上がり?そうなら迎えに行く」
そう聞いて頂きますと手を合わせて、雨君は林檎を齧った。
「うん。ありがとう」
私はお礼を言いながら椅子に座って、林檎を食べる雨君を正面から見る。雨君はいつも食べる時に慌てがちだ。だから大抵口の端から食べている物がはみ出てしまう。
「本当はお店まで送りたいけど。昨日襲った奴来たら危ないじゃん」
まだ心配してくれてる。私はティッシュで雨君の口元を拭きながら笑い、ありがとうと言った。
「あれだけボコボコにしたら、普通もう来ないよ」
昨夜の様子を思い出して私は言った。
「そんなに凄かったの?『中の雨』」
「うん。殺しちゃうかと思った」
「ええ・・・、凄いな・・・」
殺さなくて良かった。と小声で呟く。そんな雨君が、私は可愛くて仕方が無かった。
仕事に向かう雨君を、ベランダから手を振って見送りながら、洗濯完了の合図を聞いた。
私は雨君の事が嫌いでは無い。とても可愛いし、世話を焼きたい気分になる。私の事が好きで、私を求めてくれるのも嬉しい。けれども、雨君の事が『好きなのか』と聞かれると、私は答えられなくなってしまう。
私は今年で22歳になる。まだ『恋』をした事が無い。
雨君とは付き合っている。でもそれは、雨君が私の事を好きだから。雨君が告白してくれて、私と一緒に居てくれるから。私は、それが嫌では無い。でも・・・。
私は、雨君を好きではない。
雨君の姿が見えなくなると、私は洗濯物を干した。雨君が着たままベッドに入ってシワシワになったスーツを、ショップバッグに入れてクリーニングに出す準備をする。雨君が食べた林檎のお皿と麦茶のグラスを片付ける。そして、メイクをしてテレビを付けた。ボンヤリと見詰める画面では、他国の戦争の様子を報道している。世界に広がる感染症の状況を伝えている。詐欺があり、事故があり、事件が発生して解決されて行く。
部屋の中にポツンと1人で居ると、世の中は、私が居なくても動いていくのだな、という事を強く感じた。
私は、雨君を好きではない。でも、1人では生きられない。
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