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「おーい、司!製氷入るからもう上がれ!」
「はいっ」
今日は週に二度の貸切練習の日。アイスダンスにとってリンクを広々と使っての曲かけはとても貴重だ。洸平くんのカップルの後に俺と瞳さんが曲かけをしてまた他のカップルにとぐるぐる交代しながらやって皆休憩している間もひとり滑っていたらいつの間にか製氷の時間まで滑ってしまっていた。リンクサイドに戻って待ちわびていた皆に頭を下げならブレードにカバーをつける。
「司くん集中すると周り見えなくなるんだから」
「はい、水。ちょっとは休まないと膝を悪くするよ」
「うん。ごめん、水ありがとう」
洸平から水を受け取って一口飲むとジュナくんがタイミングを見計らってタックルしてきた。やめてよと腕を回して首を絞めてやる。タップしてきているが無視だ。わかっててやってるんだから。
「この後うちに来るでしょ?お母さんが司くんにご飯食べさせたいってうるさいのよ」
「そんなこの前もお邪魔したばかりなのに悪いよ」
「ちょ、つーくん、ギブギブ」
「気にするな。お前は沢山食って肥えろ。まだ俺が決めた体重まで増えてないだろ」
「っていうかもしかしてまた痩せた?司くん運動量とカロリーの摂取量合ってないよ。実家から米届いたから今度うちでもごはんね、はい!決定!」
「もー洸平くんまで……でもありがとう。じゃあ今日は高峰家にお世話になります!」
「つーくん!!ごめん!!僕が悪かったから!!」
「「 ジュナくんうるさいよ」」
「「ジュナうるさい」」
「何ここの人たち僕に優しくない!」
ギャンっとなったジュナくんを解放して入念にストレッチをする。十三でスケートを辞め二十歳になるまでその間全く氷の上にいなかった俺の体はスケートの過酷な練習についていけなかった。足も腰も背中もなにもかも固くて柔軟だけは氷を降りても欠かさずやっていたのに想像よりも固くなってしまっていてこれじゃあ怪我を悪戯に増やすだけだと最初は陸トレばかりの日々。最近ようやっとスケーティングが昔のようにできるようになった。
「じゃあまた明日」
「バイバーイ」
駅に向かう洸平くんとジュナくんと別れて俺は匠先生の運転する車に瞳さんと乗り込んだ。スマホを見ればそこには慎一郎さんからのメッセージが届いていた。
慎一郎さんはスケートを辞めてしまった俺のことを何かと気にかけてくれていた。そして彼からの手紙を一年に一度渡し来ていた。慎一郎さんは手紙については何も言わない。ただ渡すだけ。応えない俺を責めも頼みもしない。本当に優しい人。
「お」
「なにどうしたの?」
「慎一郎さんから動画届いていて、ほら」
「あら、理凰くん?かわいい〜」
「うん、かわいい〜ちまちま歩いてる」
慎一郎さんは22でフィギュア女子シングルのエイヴァ選手と結婚した。エイヴァ選手はジャンプよりも演技派で彼女のプログラムは皆がうっとりとため息をつくほどに美しいもののあれば、明るく元気で手拍子で会場が盛り上がるものもあったり、エキシビションでは男装して三銃士のダルタニアンをやったりとその表現力の幅の広さが人気の選手で今でも数多くのファンがいる。結婚後エイヴァ選手は引退して24の時に理凰くんが生まれた。名古屋に居た頃何度か遊びに行ったんだけどブルーアイズでめちゃかわで、赤ちゃんはどこもかしもちっちゃくてメロメロ。昔、弟の誠や健もこんな風にちっちゃかったなーって思い出した。理凰くんは頭がいいのか記憶力がいいのか未だに遊んだ俺のことを覚えてて「つー!」と電話越しではあるが呼んでくれる。また一緒に遊びたいなぁ。
「慎一郎くんももうしっかりお父さんだな」
「ほんと素敵な家族ですよね」
クラブは違えど同じ名古屋でスケートしていたことと純くん繋がりでまるで兄のように接してくれていた偉大なる先輩。最初のオリンピックは選ばれて惜しくも表彰台には行かなかった、二度目は怪我で代表入が出来なかった。けれど復帰した今、これまで以上のプログラムでたくさんの人が心を奪われSNSでは三度目のオリンピックは期待していると応援の声が多い。きっと彼にとって最後のオリンピックになる。そして俺にとっても最後のチャンスだ。
『司くん、これを』
スケートを辞めてからそう言って慎一郎さんが渡してくるのは純くんからの手紙だ。彼の手紙はどれも丁寧でかしこまってて初めてもらって読んだ時は驚いた。そして毎年チケットを渡される。慎一郎さんはチケットのことは知っているのかわからない。先輩を郵便屋さんにさせておいて俺はなにひとつ手紙のことについて彼には言わなかった。彼もまた聞かなかった。
携帯にメールが届いてこの日遊べない?と来るだけでそれは一年に何度もある。その中の一日だけ別れ際にはい、と渡されるのだ。
内容を知れば会いに行ってあげてと言われたかったのかもしれない。言われてじゃあ行くのかと思えばわからない。多分行かなかっただろう。だって俺はスケートを捨てたから。一度もあれから氷の上にいなかったから。きっとこのまま俺は陸の上で遠い眩しい氷の世界を眺めるだけなんだ。そう思っていた。
でもオリンピックだからといつか一緒にオリンピックに行こうねと約束していたあの地に違う形ではあるが俺は見に行った。それに気になったのだ。いつも丁寧な彼の手紙は一文字も乱れはなかった。けれどオリンピック前にくれた手紙には黒く塗りつぶされたあとがあって気になって現地に行った。
そして純くんの命を燃やす演技を見たのだ。命を体を心を燃やし全てを出し切るその姿。美しい四回転ジャンプ。滑らかなスケーティング。繰り出される激しいスピン。音楽の一音一音に重なる指先の演技。猛禽類を思わせる彼の鋭くも美しい瞳のジャッジアピール。
美しい顏が微笑み手を差し伸べてきたとき魅了されその手をとりたくなった。
ああ!俺を望んでいる!彼が!絶対王者が俺を、自分を求めている!!
そんな錯覚をあの会場にいる、いや演技を見ていた誰もが思っただろう。伸ばした手は空をかいて触れることはなく、彼は颯爽と氷の上をかけていった。夢の時間はおしまい。鐘はなりもう舞踏会の扉は閉ざされ魔法はとけてしまった。
今の俺では彼の前に現れる資格なんてないんだ。わかっていたのに知っていたのに今更そんなことがつらく思えて。
帰国してすぐに匠先生に会いに行った。
また俺を氷上に立たせてください、と。
突然現れた俺に匠先生は驚くことをせず、リンクに乗せてくれた。けれど最後に滑った時から更に背は伸びていてジャンプは一回転しか跳べなかった。転んだ冷たい氷の感触がこんなにも痛いだなんて忘れていた。
『正直その状態ならシングルはもう無理だ。よしんば飛べたとしても故障する可能性が高いしお前のことだ生半可な結果は嫌だろう?なら──アイスダンスに賭けてみないか。瞳のパートナーがいなくてな、お前なら瞳とやれるだろ』
俺は頷くことしかできなかった。純くんと同じシングルがよかったけどこれは俺の罰だから、滑るだけならできたのにそれだけじゃ虚しいからと変なプライドで逃げた俺のせい。だから仕方ないんだ。例え望まれなくても俺はもう。
「……純くん、どこにいるの」
あなたに俺を見てほしい。
「純くん……」
「久しぶり慎一郎くん」
数年ぶりに会った年下の親友はひどくやせ細っていた。指までも細くそれだけで彼が食事を全く摂ってないだろうことが窺い知れる。ミルクを落としたような肌の白さは更に際立ち青くさえあった。
「どこにいたの?僕何度も君と連絡を取ろうとしたのに」
「……ロシア、カナダあとどこかな。あちこち」
「日本にはいつから?」
「本当についさっきだよ。オリンピック今回は出るの?」
「全日本の結果次第かな。エイヴァには理凰を任せきりにしちゃうけどがんばって行きたい。これがきっと最後だから」
エイヴァが聞けば「なんでそんな事言うのハニー!私は平気よ!」と怒ってしまうだろうが今母の家へ行く準備で追われているから聞かれていないだろう。
「前回君はスケートを犠牲にして家族をとったからもう出ないのかと思った」
「……」
幼い頃から純くんが言う【犠牲】。これに僕は返す言葉がない。事実彼は犠牲を払ってオリンピック金メダリストといういちばんの勝利をもぎ取ったのだから。でも、でもね純くん。僕は君が【犠牲】というものとは別に大事なものがあるとわかっていることを僕はわかっているよ。
「司くんには会えたかい?」
「……あの日、来てくれてた」
「うん、僕も観客席に司くんがいるのを見たよ」
「ずっと……会いたかった」
「うん」
知っている。だって司くんへのラブレターを僕は毎年届けたのだから。内容は知らない。純くんも司くんも何も言わないから。だから聞かなかった。これはふたりの問題だから。ふたりで解決した方がいいと思ったんだ。
「氷の上はいつも冷たくて痛かった」
長いまつ毛が影を落とす。痩せたせいか眼孔の窪みが深くなってより影を深くさせる。
「司くんと出会って少しだけ変わった。変わらず冷たくて痛かったけどこの冷たさも痛みも司くんも感じていると思うと……熱がほのかに灯った。僕の中にこんな熱があるなんて知らなかったよ。……僕は色んなものが足りてないから」
昔、純くんにスケートが好きかと聞いたことがある。彼は周りが止めなければずっと氷の上に居続けたから。寒くても疲れてもずっと滑っていたいぐらい好きなのだろうと思って。少し戸惑ったあとにわからないと純くんは言った。でも司くんと出会ってからしばらくして純くんが教えてくれた。今はスケートが好きだよって。それをわかるようになったのは司くんの存在なんだろう。
「司くんといたいと思った。彼が僕を見ているとひとりじゃないと思えたから……司くんが僕に勝った時嬉しくて……そして初めて悔しかった。次は負けない、また僕を見せてやるんだって」
細い指先がお昼寝中の息子のふわふわの前髪を梳く。その柔らかさに触れたからか少しだけ純くんの眦が優しく見えた。君は自分が色んなものを欠如していると言うけどそんなことはない。表に出したり自分自身が気づいたりしていないだけだ。
「それなのに、司くんは、僕から離れた……氷の上で生きていたいって言ってたのに」
子供の僕らではどうしようもできない理由。大人になったからって簡単に解決できるものでもない。頭でわかっていても心がついていけない。ただでさえ純くんにとって司くんは特別だったから。
「でもねいなくなって気づいたこともある。前に慎一郎くん聞いたよね、スケート好きなんだねって。僕がなんて返したか覚えている?」
「うん……でも司くんと出会って君はスケートが好きなんだって自覚した」
「そう、司くんが感情を教えてくれた。あの頬にあたる冷たい風の衝動にちゃんと名前をくれた。でも司くんがいなくなったときよりスケートに没頭できた。だから気づいた。あれは犠牲だったって」
ああ、そうか。純くんは司くんも焚べてしまったのか。司くんへ募っていた特別な感情も焚べてあのとき君は最高の演技をしてよだかの星のように燃え尽きてしまったんだね。
「あのとき引退なんて考えてなかった。ずっと司くんを大会に呼んだのは僕を見てまた滑りたいって思わせるためだった。でももうその必要はない。ひとりでいいから。もう彼と滑りたいって思わなくなった」
「──じゃあ、司くんが復帰したことはもうどうでもいい?」
「え」
きらり、と金の瞳に光がさす。さっきまで暗く光がなかった瞳に。なにが、もういいだ。全くもって焚べれてなんかない。いや、確かにあの時は焚べていたのかもしれない。そして火は消えてしまったと思っていたんだろう。そんなわけがない。君がこんなにも言葉を尽くして話したいことがスケート以外であるものか。
「アイスダンスの選手として復帰してる。全日本の大会に今度出るよ」
「……なんで」
「なんでって君が火をつけたんじゃないか」
「行って見ておいで。君がつけた火を」
「司くん」
「……じゅ、んくん」
「可哀想だね。慰めてあげる」
そう言って十年以上ぶりに貪った友人の唇は涙しょっぱかった。
慎一郎くんに教えられて全日本の会場である横浜のアイスリンクにやってきた。アイスダンスはシングルやペアほど認知度はなく会場に足を運ぶ人は生粋のスケートオタクばかりだと前に元コーチの高峰先生が言っていたのを覚えている。だから僕の顔ももしかしたら普段よりかはバレやすいかとサングラスと帽子を被り夜鷹純であることを隠して入場した。パンフレットを受け取り参加者のページを見るとそこには高峰嬢と司の名前。懐かしい名前を指でなぞる。昔、君の名前を覚えれなくて何度もこれなんて読むのと聞いたっけ。覚えれない言えないのはムカつくから頑張って司くんの名前を覚えた。高峰嬢は覚えただろうか。あの人僕より長く司くんといたくせにいつまでたっても明浦路が言えなかったな。
今日はアイスダンスとペアの初日。客はまばらだが何人かがひとつかのバナーを持っているのが目に入った。アイスダンスとペアはカップルの名前が愛称になる。
『もし俺と純くんならつかじゅんかな?』
『は?じゅんつかでしょ。僕が司くんをリフトするんだから』
『えー?俺の方がリフト向いていると思うな!』
なんてくだらないことを話したっけ。近年海外では同性でのカップルを組んで大会があったりするという。男同士のペアと女同士のペアではバフォーマンスの差が出る気がするがそれはどう採点していくのだろう。今度映像を取り寄せよう。
演技が始まる。どうやら司くんたちは一番滑走のようだ。ショートダンスの今季の課題はミッドナイトブルース。ストリート・ダンス・リズム、ジャズ、レゲエ、ブルースのなかからふたつ選んで踊る。流れてきた曲はシャギーのBoombastic。定番の曲だ。テンポのいいリズムで一気に観客の手拍子で盛り上がる。高峰嬢もだが司くんも表情管理は高い。溌剌としたふたりの笑顔はかなり加点がつくだろう。リフト、ステップシークエンス、スピンどれも申し分ない。
「ああ……良いな」
もうひとつはジャズCheek to Cheek 。ピアノのみでしっとりとムーディに踊る。さっきまでの溌剌とした笑顔と打って変わって流し目とゼロ距離に寄せられた体と顔に見る人たちはため息を零した。相変わらず人を陥落させるのが上手い。普段の天真爛漫な本人とちがい危うい色気を出す司くんを僕は十数年前焚き付けられ見事熱を浮かせられた側だ。ずくりと腹の底から熱が疼く。白いシャツを引き裂き細い腰を抱き寄せ組み伏せたい衝動に駆られる。そうやって男も女も魅了させる。彼こそが魔性の名に相応しい。
2分50秒の演技は終わりあっという間だ。スピードのあるステップシークエンス、息のあったツイヅル、キレのあるスピン、リフトは加点が付いただろう。客もスタンディングオベーションで拍手がすごい。一番目ということもあってこれが基準になる。
久しぶりの司くんのスケートに鼻の奥がツンとした。何でだろう。もういいって思ったのに。あの時の初恋もスケートへの思いももう十分燃やし尽くしたと思ったのに、なんで今更。
「……どうしてもっと早く、戻ってきてくれなかったの」
司くんがスケートをやめた日からずっと僕は冷たい氷の上で君を待っていたのに。シングルじゃなくてもいい、ペアでもアイスダンスでもいい。戻ってきてほしかった。僕がいるうちに。そうしたら僕はまだ。
──帰ろう。この後まだ演技はあるがそんな気分ではなくなった。明日も来るつもりでチケットはとってあるがそれももういい。また焦がれてしまうだけだ。帰ろう。また海外にでも行こうか。そういえばエージェントから手紙がいくつか来ているから読んでどうするか決めて欲しいと言われていたな。それだけこなしてまたロシアでもアイスランドでも行こう。冷たい寒い場所にいれば例え滑らなくても冷たい風を頬に受けているだけでいい。
「純くんっ」
低い声。知らない声。でもわかる。司くんの声。声変わりがなかなかこなくていつまでも女の子と変わらない高い声の司くん。低くなってる。そりゃそうだ。背だってあんなに高くなった。ああ、司くんだ。
振り向けば司くんが衣装のままそこにいた。汗だくで相変わらず代謝がいいのがわかる。体つきが全然違う。丸かった頬はなくなって顎がしっかりしている。首も太くて喉仏が見えた。しっかりした肩幅と長い腕。あの腕に高峰嬢はしっかりとホールドされていたのか。背がある分ひょろりとして見える。白のブラウスにカマーバンドで細い腰がより強調されてカッコイイのにどこか儚げで。すらりと伸びる長い足。
「……久しぶり」
「……うん」
沈黙が二人を包む。何を話せばいいのかわからない。出てきたのは久しぶり、うん、のこれだけ。言いたいことがあった。聞きたいことがあった。どうして俺に会わずに辞めたの、どうして教えてくれなかったの、どうして返事をくれなかったの、どうして最後だけ来たの、どうしてまた戻ってきたの、どうして、どうして。
「……」
何も言えずにいると司くんがここにいるの事がバレたのか周りからヒソヒソと僕らに注目する声がしてきた。このままだと夜鷹純がいるとバレてしまう。話したいことはある。でも今ではないしさっかまでそれさえももういいやと思っていた。
「……ごめん、もう行く」
「あ……明日も見に来て……必ず金メダルとるから!」
「……」
司くんの声に返事をすることなく会場を逃げるように後にした。はぁはぁと気づけば息が上がっている。全力疾走だなんて久しぶりだ。トレーニングもせず食事もほとんど摂らずにいたためこの体はひどく脆弱になっている。
「はぁ……はぁ、はぁ……つかさ、つかさくん、だった」
あの日僕を超えた司くん。あの日熱に浮かされて幼い体を触りあった熱が蘇る。震えるほどに司くんの熱を思い出す。触れたい。キスしたい。抱きしめたい。あのときのように彼を組み敷きたい。体温は高いままだろう。でも今の彼の熱を知らない。僕に熱を与えて。僕の熱も君に与えたい。抱きたい。あの頃思ったでも出来なかったことをしたい。彼の中に入りたい。ひとつになりたい。今度こそ。
今度こそ。
「司、好き……僕のものになって……」
蹲って零れた浅ましい欲望に僕はただただ寒くて寒くて震える体を抱きしめた。この抱きしめる手が司くんのものだったらいいのに。
言われた通り次の日も彼を見に来た。昨日はやはり彼らが一位で終わったようで順番はいちばん最後だ。席に向う前に一服したくて数少ない喫煙所に行くとそこにいたのはかつての恩師、高峰先生。向こうも僕に気づいたのか不躾に指をさして口をパクパク動かしている。
「ご無沙汰してます」
「……本当にそうだよ、バカタレ」
煙草を取り出し吸おうとすると視線が突き刺さってなにごとかと見ればなんとも言えない顔をしていた。見覚えのある顔だ。慎一郎くんの前でも吸ってそんな顔をされたよ。
「司くん、戻ってきたんですね」
「おう。見てたか」
「はい」
「……話をしたのか」
「少しだけ。挨拶程度です。今日も来てくれと言われたので」
「……そうか」
眉をグッと寄せ苦虫を噛み潰したような顔を見せる高峰先生に首を傾げる。愛娘が一位になっているのにずいぶん嬉しくなさそうだ。
「どうしました」
「……昨日あの後司が慌てて帰っていったんだ。アイツ今な支援してくれる人がいてなその人の家に居候している。息子のように面倒を見てくれててな……あいつからもよく話に聞いてていい人たちなんだ」
「そう」
「でもその支援者の奥さんが昨夜亡くなったそうだ」
「え」
「体が弱くて入退院を繰り返しているとは聞いていたがな……タイミング悪い……今日来たが目が真っ赤に腫れてて練習は問題なかったんだが」
「……あの子がなにも思わずにいるわけがない」
「ああ……」
「なんで傍にいないんです」
「できるだけいてやろうとしたさ。でもあいつ『気を遣わず吸ってきたらどうですか』って俺を追いやったんだよ……そこまで言われて傍にいるのもあいつに変なプレッシャー与えるだろ……なぁ、純」
「……なんですか」
「この大会が終わったらお前あいつのコーチにならないか。あいつをまたシングルの選手に戻してやってくれ」
「……でも、僕はもう」
「現役を辞めただけだろ、お前がスケートから離れられるわけが無ねぇんだ。お前も司も氷の上で生きて死ぬ生き物だろ。だったら」
吐き出した煙からメンソールのにおいがする。自分が吸うものと違う煙。こんなに煙たかっただろうか。
「心中しちまえ。お前らふたりはお互いがお似合いなんだからよ」
心中。その言葉が酷くストンと胸の奥に落ちた。そうか。それはいいな。
「うん、それいいね。僕は司くんと生きて死にたい」
高峰先生と別れ観客席に向かう。昨日より観客たちの熱がある。あちこちで昨日の演技を見ただろう人たちが司くんたちの話をしている。
「瞳ちゃんすごかったね〜」
「今のシーズンで引退って言ってたけどこれならオリンピック行けるんじゃない?今まで一番いいよ」
「相手の司くんだっけ?すごい上手いよね、初めて見るけどシングルとかやってた人?」
「ノービスまでやってたらしいよ。スケオタのちゃんねるであの夜鷹純が一度だけ負けた相手って書いてあった」
「え!?なにそれ!?」
聞き耳を立ててしまった内容に自分まで行くとは思わなかった。そうあの一度だけ。あの一度だけ僕は敗北した。それ以降誰にも負けていない。ノービスAの最後の金メダルだけ僕は取り損ねた。記者やファンの中には僕の最大で唯一の汚点というが僕はそうは思わない。あれは僕が初めて認めた相手。負けたことの悔しさも勝ちたいと思わせたことも怒りも悲しみも歓びも全てあそこから始まってあそこで終わったのだ。
だから司くん。はやく、もっと高いところに。こんな所で終わらないで。必ず勝って。君こそ金メダルがふさわしいのだから。
試合が始まる。昨日の順位の下から呼ばれて演技を終えていく。そして最後の一組、ひとつかがリンクへとあがる。今までにない拍手のなか司くんの表情を見ると高峰先生が泣き腫らし酷い顔と言っていたがそんなものはカケラもない。衣装は昨日と打って変わってスパンコールがこれでもかとあしらわれた赤を基調とした揃いのドレスコード。曲はカルメン。アイスダンスでは意外と少ない楽曲だ。情熱的に踊りステップを踏み美しいシンクロを見せていくふたりに手拍子が止まらない。最初のリフト。
「キャア!」
「………っ」
バン、と大きな音ともに高峰嬢が氷の上に叩きつけられた。司くんも同様に氷の上に転がっている。リフトを失敗した。司くんよりも氷の上に投げ出された高峰嬢の方が震えながらも先に立ち上がる。司くんは呆然と氷の上に伏したままだ。きっと信じられないのだろう。こんな失敗を大事な大舞台でするなんて。失敗をしてしまうと体は硬直してしまう。そこからすぐに立ち直せるかが選手としての経験がものを言う。だが司くんは長く競技を離れていたし元々大会に多く出ていたわけではない。リカバリーを少しでも早くしなければいけないのに本来なら自分がパートナーに駆け寄らないといけないのにできない。
「……ここまでか」
色んなものが悪く重なった。パートナー最後の大舞台。一位のプレッシャー。懇意していた人の直前の死。どこかが崩れていた。それに気づかなかったことが最悪の形で現れた。
そのあと何とか持ち直し滑りきるが一位になるのは無理どころか表彰台にすら司くんたちは上ることはできなかった。 運が悪かった。才能があってもそれを証明できなければないのと同じ。運も味方につけないと一流のアスリートとは言えない。今思えば明浦路司には運がない。生まれてきた家が貧しかった。フィギュアスケートを知ったのが遅かった。せっかく結果を出せたのに続けられなかった。そしてやっと戻ってこれたのに支援者と心の支えを失った。
「可哀想な司くん」
きっと泣いている。君の涙を誰も拭うことはできないだろう。だから。僕が。
「可哀想だね、慰めてあげる」
関係者しか入れない場所を夜鷹は我が物顔で闊歩する。呼び止められるなんてことはない。サングラスを外しその顔を見せつければ周りは驚きつつも夜鷹に声をかけるなんてことはしない。出来るはずもない。アイスダンス男子の控え室に辿り着くとそこには高峰が居た。まさかここに来るとは思っていなかったのかギョッとした顔をして「純、お前っ」と声を上げたがそんなもの夜鷹は気にしない。視線をやって「中?」と聞いた。
「おい……純ちょっと待て確かに俺はお前に頼みはしたが」
「連れてくね」
「おいっ!」
ドアを開ければ数人に慰められる司がいた。衣装をまだ脱いでいない。きっと泣きじゃくっていたのだろう。群がる男を押しのけ可哀想な男を見下ろした。
「司くん」
「……じゅ、んくん」
琥珀の瞳が涙に溢れて滲んでいる。舐めたらまるで琥珀糖のようで甘そうだと泣いていることよりもそんな感想を抱く。
「可哀想だね、慰めてあげようか」
腕を掴んで引っ張りあげる。背が伸びたのに司は思ったより軽かった。そのまま引きずるように連れていこうとすると司はちょっと待ってと夜鷹を制した。戸惑う司に我に返った周りにいた──鴨川洸平と白鳥珠那が夜鷹の行く手を阻む。
「久しぶり、夜鷹くん。って言っても覚えているかな?」
「……」
「コウは覚えていなくてもさすがに僕は覚えているでしょ?同じシングルの選手」
「邪魔、どいて」
「……覚えてマセン、と」
「司くんをどこに連れて行くつもり?元クラブメイトでも勝手なことは」
「──君は、何」
「え?」
猛禽類の鷹を思わせる鋭い瞳が洸平を射抜く。鋭い眼光にビクリと肩が揺れた。怖気付いてはいけない。傷心の弟分を好き勝手されるのは先輩として友人として守らなければならない、でも。
夜鷹の視線が首にかかったままの銀メダルを捕らえる。
「どんなに才能があっても証明しなければそれは意味は無い。でも」
冷たい、冷たい眼。この眼に見つめられて抗える人なんていないだろう。
「例え証明して見せても心に残るものが無ければその首にかかったものは重さを成さない──君の演技は正直、もう──忘れた」
「……っ!」
堪らず洸平は胸ぐらを掴むがそんな事で動じる夜鷹ではない。さめざめと洸平を見下すだけだ。
「離せ、邪魔しないで」
夜鷹の言葉と気迫にそれ以上誰も何も言えない。何より司が振り払う素振りを見せないのだ。離れた洸平に夜鷹は一瞥もすること無く司を連れて控え室から出ていく。最後の砦、高峰はふたりを見るが不覚ため息をつくとそのまま去っていくふたりの背中を見送った。その後控え室にやってきた瞳に事の顛末を話すと何やってるの!と叱責されるがもうどうしようもない。夜鷹に割って入るなんてことは誰にも無理なのだ。
司は夜鷹の手を見つめる。皮の手袋越しに感じる夜鷹の体温。どのくらいぶりだろうか。最後夜鷹に触れた時ひどく熱かったのを覚えている。
「じゅんくん」
呼びかけるが返事は返ってこない。代わりにタクシーに乗り込むと夜鷹は運転手にホテルの名前を言う。司でも知っている横浜で一番高級なホテルだ。一番グレードの低い部屋だって司には逆立ちしたって払えないほどに高い。
「手、離してよ」
「だめ」
「ここまで来たら逃げたりしないよ」
「どうだか。居なくなるかもしれない」
「……」
過去のことを言われているのだろう。確かに司は夜鷹に何も言わずスケートを辞めた。携帯だって番号を変えて夜鷹の連絡を取れないようにした。氷の上を降りたふたりを繋いだのは夜鷹から鴗鳥を介して渡された手紙だけだ。その手紙だってずっと返事をすることも会いに行くこともしなかった。最後だけとオリンピックだけ会いに行って、それだけ。
「……」
沈黙が二人の中に流れる。タクシーはすぐにホテルに着いて手を掴まれたまま中へ入っていきエレベーターに乗った瞬間。
「んっ」
壁に押し付けられ唇を塞がれた。柔らかな薄い唇が司の少しカサついた厚みのある唇に触れる。密着する体の熱に夜鷹が興奮しているのを知った。夜鷹の体温にぞくりと背中に甘い刺激が走る。力を入れてないと立てれなくなってしまうほどだ。
「あ、や……」
「受け入れて。あの頃の時みたいに」
「……っ」
「司、僕はずっと君を想っていたよ。君は?」
「あっ」
するりと夜鷹の手が司の股間を撫でた。それだけでビクンと震えて夜鷹の手のひらに伝わってくる。手のひらの下で熱くなっていく。それは夜鷹も同じで。
「あ、じゅん、くん……やだっ」
「僕と同じ」
触ってみて、と耳元で囁き司の手を己の欲の中心へと当てる。黒のスラックスを押し上げる夜鷹の熱に司は「ひ」と小さく息を飲み生娘のように震えた。
「抱きたい」
「……っ」
「慰めさせて」
伝う涙を舌でぬぐってもう一度口付けたその時、チン、とエレベーターが止まった。夜鷹の借りている部屋の階についたのだ。手を掴み足元の覚束無い司を強引に引っ張り部屋まで連れて行く。カードキーを乱雑にかざし、慌ただしく中へと入る。ベッドへと一直線に向かう。広い部屋は快適だが遠いベッドに舌打ちが出てくる。すぐにでも司を押し倒し身包みを剥ぎ肌を合わせたいのに。
「ま、待って純くんっ、俺」
「なに、今更」
「ちが、その、汗くさいから」
さっきまで演技をしていた司は代謝いいこともあってか汗をしっとりとかいている。首筋に鼻先を埋めれば汗の匂いが香水と混ざって大人の男の匂いがした。幼い頃の甘いお菓子のようなにおいじゃない。それはきっと夜鷹もだろう。あの頃吸ってなかった煙草のにおいはきっと司も気づいている。
「うん汗臭い」
「ひどい!そういうけど純くんだってこれタバコのにおいだよね!?もしかして吸って」
「香水のにおいもする」
「え、あ、うんつけてるけど」
「お互い知らないにおいになってる」
当然だ。あのころは二人ともまだ中学生で香水もタバコも知らない歳だった。長い間離れていたことで覚えていたにおいももう幻想にしかすぎない。
「さびしい」
「……じゃあ、一緒に風呂入ろうよ。知らないにおい全部落としてさ」
司の方から夜鷹の頬に触れる大きくなった手。柔らかさより硬さのほうが先に感じる。でも熱は変わらず高くて夜鷹の体温をぬるくさせた。
「相変わらず体温低いね」
「うん……僕、君の高い体温が好きだったみたい」
「俺も純くんの冷たい肌好きだよ。俺と手を握ると混ざってくのわかって」
「うん」
鼻先が触れて息が重なる。満たされていくなにかと熱がまだ足りないと暴れる。
「つかさ、もっと」
「じゅんくん、もっと」
お互い同時に強請る声を出して見合って笑う。そのまま何度も口づけながら広いバスルームへと向かう。触れ合っていなければ死んでしまうんじゃないかと思うほどに離れられなかった。お互いの服を脱がせ合う時もそこかしこに唇が触れた。
「薄い」
「……司くんも人の事言えないよ」
「俺は筋肉まだあるよ、でも純くん」
うっすらと肋が浮いている夜鷹の脇の下を触ればぞわりと甘い痺れが走る。好きな子に触れてもらえるだけでこんなに気持ちいいのかと夜鷹は漏れそうになる吐息を堪えて司の割れている腹筋を仕返しとばかりに指でなぞった。
「あ、ん……」
「びんかん、立ってる」
「純くんだって」
下着も脱いで生まれたままの姿になればそれこそあの時と違うお互いの体。司はその体躯にあったモノが腹に付きそうな程に勃起しているし夜鷹も薄い色のソレが血管が浮き出るほどに硬く張りつめている。
「あれから誰かとした?」
「してない……ねぇ、引かない?」
「ん?」
「君のことを思い出してひとりでしてた……昨日だって……」
シャワーの熱い湯を浴びながら体を擦り合わせる。互いの欲望が擦れあって甘い声がお互いから溢れた。
「俺も、俺も純くんを思い出してしてた……あのときはできなかったけどここを、さわって……」
そう言って後ろを向いて尻を突き出した司はここ、と指を狭間に沿わせた。ごくりと喉を鳴らして尻たぶを左右に開けば司の秘所が見えた。そこは慎ましげに閉じておらずふっくらと卑猥な色をしていた。性的なことに疎い夜鷹だってわかる。これは排泄器としてだけでない、性器として使われていた場所だと。
「本当にひとりで?他の人に触らせてたんじゃないの?じゃなきゃこんなに」
「他の人なんて知らないってば……俺のそこ変?」
自分のそんなところなんて見れないからわからないと言う司だが相手がいるのではと疑ってしまうほどに扇情的で夜鷹は脳がゆだってしまったのではと思うほどクラクラした。こんないやらしい穴が自分を思ってつくられたなんて。
「つかさっ」
「あっ」
たまらず覆い被さるが潤いもなくも拡げたりもしていない場所はいくらなんでも入るわけはなくふっくらした箇所を擦り付けるだけだ。だがそれだけでも二人の熱は上がっていく。
「つかさ、好き、好きだ、ずっと……っ」
「ああっ、俺もっ、俺もずっとっ」
二人に降り注ぐシャワーがぬるく感じるほどに互いを求め合うだけの熱が欲が膨らんでいく。傍から見れば滑稽だろう。セックスなんて呼べない。交尾の猿真似のようななにひとつ繋がれていない無駄な迸り。それでも互いの熱だけが心地よく求め求められるあの日の続きを大人になってみっともなく不器用に続けるふたりには何よりも大事なものに思えた。
「つかさ、つかさ……!」
「じゅん、じゅん、もう、ああっ」
「──ッ」
弾けた熱は互いの肌を汚す暇もなくシャワーに流され排水溝へと吸い込まれていく。乱れた息を整えるのも惜しい程に零れた吐息も流れた涙も全て互いのものだとふたりはいつまでも抱きしめあった。
あの頃の幼いふたりのつづきがここにあった。
月日は流れ八年後、名古屋の邦和スケートリンクに夜鷹は居た。リンクには夜鷹ひとりではない。長い黒髪をたなびかせ少女がジャンプを跳ぶ。三回転アクセルだ。
「うん、アクセルはもう大丈夫だね。次コンビネーション、見て」
「はい」
そう言うと三回転ルッツ、三回転ループを跳んで見せる。高くまた幅のあるジャンプに着氷は軽やかだ。息を飲みけれどその美しさをただ見るだけではない。どうやって跳んだのか、腕の開き、着氷のタイミングをつぶさに観察し自分のものにする。
「見た?やって」
「はい」
夜鷹の指導に言葉はいらない。それ以上何も言わない。静かにブレードが氷を削る音だけがその場を制していた。
「純くーーーーん!!光さーーーーん!!一旦きゅーーけーーーーい!!」
「……喧しいのが来たね」
「行きましょコーチ、待たせるともっと大きい声で呼ばれますよ」
リンクにやってきた司の大声に呆れる2人。けれど従わなければ聞こえてないのかなとまた大声で呼ぶからふたりは渋々リンクサイドへと向かった。
「ふたりしかいないんだからそんな声張らなくても聞こえるよ」
「そう?ふたりとも集中すると俺の声聞こえないじゃん。はい、暖かいお茶と軽食の焼き芋!こっちで食べよう」
「焼き芋……いいにおい。これ作ったんですか?」
「うん。純くんがお芋取り寄せてくれたやつをオーブンで焼いてきた。しっとりほくほくでおいしいよ」
「いただきます」
糖分と食物繊維を取れてなおかつカロリーは抑えられると司が用意してくれた焼き芋に齧り付く。しっとりとした蜜がたっぷりのさつまいもは焼いただけなのに十分なスイーツだ。成長期で背が伸び始める光に食べることを遠ざけさせないための司の工夫は上手くいっているようで今のところ光が食事を拒否するようなことはない。まだまだこれから思春期にも入るし気をつけていかなければならないが娘のような存在である光が健やかに成長していく様子は見ていて心がホカホカてしてくる。
「純くんも食べる?」
「いらない」
「たまには食べなきゃいけませんよ、コーチ」
「タンパク質ならさっき摂ったし食物繊維はドリンクで補ってる」
「もー食育!光さんの前ではちゃんとして!」
「司がその分すればいい。光、食べ物に関しては僕ではなく司の言うことを聞けばいい」
「わかってます。司さん明日お弁当サンドイッチがいいです」
「サンドイッチ?いいよ。具は何かリクエストある?卵もハムも野菜もあるよ。あ、鯖サンドとかどう?」
「さば?お魚の?おいしいんですかそれ」
「前にねお昼にカフェで食べておいしかったんだよ。レシピ調べるからそれでもいい?」
「……お弁当にしたら臭わないか?」
「確かに臭いそう。鯖サンドは別の機会に。厚焼き玉子のサンドイッチがいいです。あとレタスたっぷりの」
「そう?じゃあそっちにするね」
あれから夜鷹と司は恋人になった。というか周りが特に慎一郎がもうそりゃあがんばったのだ。夜鷹が司を連れ去ったあの日直ぐに残された瞳たちは慎一郎に連絡を取り慎一郎はおそらく夜鷹が使っているだろうホテルを割り当て次の日ロビーで張っていた。なかなか出てこないふたりにごうを煮やして部屋に突撃したらあの後盛り上がりに盛り上がってイチャイチャラブラブしていたふたりが出てきた。皆に心配かけてと下着一丁で慎一郎に怒られもうここまでいったらちゃんとお付き合いするってことなんだよね!?と言われたまらずセックスはしたが付き合うということが頭になかったふたりは首をかしげた。そこからもう慎一郎に更に怒られ「君たちのことに口を出さないと思っていたけどもう無理だ口を出させてもらうよ!ちゃんと恋人になりなさい!というか結婚しなさい!中途半端にしたってふたりにいいことなんてないんだから!」と言われた。日本で同性婚はできないよ、という声は慎一郎には届かずあれよあれよという間に両家に挨拶、少し日をおいて司は世話になっていた加護親子に喪中にも関わらずこんなことになってしまいと言うとふたりは泣いて喜び司の幸せを祝ってくれた。
司はアイスダンスからシングルに転向し高峰の元でスケートを続けている。今年はオリンピックが開催され来年は冬季オリンピックだ。司はその前にある全日本で台乗りしなければ代表選手に選ばれない瀬戸際、なのに関わらず本人は練習そっちのけで光のサポートに回ってしまっているが平穏で平和で幸せな毎日を送っている。夜鷹は日々幸せだ。大好きな司とスケートをしながら狼嵜家から引き取った光を育て、三人家族のように暮らしている。月並みだが日々が幸せで溢れている。引退してから毎日が鬱屈としていたのが嘘みたいだ。ずっと、ずっとこの幸せが続けばいい。そう心から思っていた。
「司、家事なら家政婦に任せればいいから練習を優先して」
「それはそうですけど、あ。」
そう言えばと司が思い出したように言う。
「あ、そのことなんだけど俺コーチになります!」
「は?」
「へ?」
「ルクス東山のコーチになるって決めた!俺は結束いのりさんのコーチになって彼女を金メダルがとれる選手にしてみせる!」
はああ!?と珍しく声を荒らげるふたりに司はいのりについて話し始める。やれ氷への執着がすごいだ勇気ある少女でスケートもすごく上手いと大絶賛。そんなもの夜鷹には知ったこっちゃない。オリンピックはどうするつもりだと今にもブチ切れそうだ。
そしてリンクに響き渡る物が壊れる音。その日夜鷹のスマホとリンクの休憩室の長椅子がひとつべこべこになった。
まだまだ波乱は続くようだ。
Fin…?