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自分でも驚きだ。
那須川の感触に、身動きできなかった。
セックスを無理強いするつもりはなかったが、もう少し押してみるつもりだったのに。
いや、どう考えても無理だな……。
『ぶっちゃけヤりたい』なんて、最低だろ。
真剣に告白して振られたらと思うと、怖かった。
それにしても、言い方ってもんが——。
俺は那須川が残して行った梅サワーの缶を持ち上げた。半分ほど残っている。
俺はぬるくなったそれを飲み干した。
ポケットから煙草を出し、テーブルの上の灰皿の蓋を取った。一本を咥え、火をつける。
深く深くニコチンを吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
『ビールと煙草の味のキスなんて、感じない』
那須川の言葉を思い出した。
煙草やめたら……抱かせてくれんのかな……。
我ながら女々しいと思う。
茶化した言い方をしてしまったけれど、那須川に興味があるのは事実だった。
那須川は優秀な部下だ。
その部下に触れたいと思うようになったのは、三か月ほど前から。
「俺は、本当は君が好きなんだよ」
営業部部長補佐の黛が那須川にそう囁いているのを聞いてしまった。
黛は上司に取り入るのが上手く、実力に伴わない出世を続けていた。女性関係の噂は絶えず、それが原因で退職する女性も多いと聞いた。
「君が俺のものなっていれば、こんなことにはならなかったのにねぇ?」
黛がそう言って那須川の肩に手を置いた瞬間、パシッといい音をさせて、彼女がその手を振り払った。
「私はあなたのものにはならないし、桜も渡さない!」
桜……?
「その強がりがいつまで続くか楽しみだよ」
黛がいやらしい笑みを浮かべる。
「俺はどちらが妻でどちらが愛人でも構わないよ?」
「思い通りにはさせない」
那須川がキッと黛を睨みつける。
その横顔に、俺は全身の毛が逆立つのを感じた。
「思い通りになってるんだよ? 君の妹は俺の腕の中で可愛い声で啼くんだから」
黛……、噂以上の下衆だな。
黛が去った後、那須川は目に涙を浮かべ、けれどそれを流すことはなかった。
デスクに戻った彼女はいつも通りの表情で、いつも通りに仕事をこなした。
怒りや憎しみに気丈に耐える姿を、美しいと思った。
あれから、俺は無意識に那須川を目で追うようになっていた。
そして、触れたいと思うようになった。
くそっ!
もっとスマートに口説くつもりだったのに——。
朝から様子のおかしい那須川が気になって、仕事どころじゃなかった。出勤前にカフェで見かけた彼女は、無理にサンドイッチを口に押し込んでいるようだった。会議でもいつも通りに見えて、表情が硬かった。すぐにでも早退させたかったのに、打ち合わせだのトラブルだの会議だので、結局この時間になった。
あれだけ美味そうにうどん食ってたんだから、大丈夫か。
口を尖らせて麺に息を吹きかけ、ちゅるちゅると音を立てて吸い込む那須川を思い出して、顔が緩む。
可愛かったな……。
女を可愛いと思うのは、久し振りだった。最近、付き合いのあった女たちは皆、どうすれば自分を美しく魅せられるかを心得ていて、言動全てが計算づくのように感じた。
それでも良かった。
自分をより良く魅せたいと思うのは、当たり前の感情だ。
那須川は違うか……。
いや、俺に良く魅せる必要がないからか……?
キスの反応は良かったと思う。
応えるとまではいかなくても、拒絶もされなかった。
唇……柔らかかったな……。
思春期の男子みたいな感想に、自分でも恥ずかしくなる。
三十五にもなって……何やってんだ……。
短くなった煙草を咥え、吸い込む。
『ビールと煙草の味のキスなんて、感じない』
煙草、やめるか……。
最後になるであろう煙草を灰皿に押し付け、蓋をした。