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禁煙は想像以上に苦痛だった。
とにかく口さみしい。
ヘビースモーカーではないし、案外簡単にやめられるものだと思っていたが、甘かった。
気を紛らわすため、デスクワークを避けた。
正直に言えば、那須川が気になった。
体調は良くなっただろうか?
企画課に那須川の姿はなかった。
あれ……?
『九時に印刷所です』
昨夜の那須川の言葉を思い出した。
腕時計に目をやる。
九時四十八分。
そろそろ来るかな……。
「おはようございます」
背後から元気に声を掛けられ、振り向いた。
「おはよう」
那須川のチームの広川。社会人三か月のピカピカの新人。一回りも年が離れているのに、一丁前に女の顔で俺を見る。
「槇田部長、素敵なネクタイですね」と言った広川は、腕にハードカバーのファイルを握りしめていた。
資料室から戻ったらしく、沖が呆れ顔で広川を見ている。
「ありがとう。そのファイルは?」
「沖さんに頼まれたんです」
「じゃあ、早く届けて」
「はいっ。あれ? 部長、唇切れてますよ?」
広川がまじまじと俺の顔を見る。
「ああ……」と言って、俺は傷を指でなぞった。
部屋の隅に、那須川の姿が見えた。
顔色は良さそうだ。
挨拶しながらデスクに向かう那須川と目が合った。
「猫に噛まれたんだ」
那須川が立ち止まった。
「部長、猫飼ってるんですか? どんな猫です?」
「すげー可愛いの。やんちゃで媚びないところがたまんない」
那須川がパッと目を逸らした。
さすがにわかったらしい。
自分のことだと。
「那須川、昨日の報告」
俺は返事を待たずに自分のデスクに戻った。
俺はイベント企画部のフロアに個室を持っている。資料室の隣。
一分ほどしてドアが二度、ノックされた。
「入れ」
「失礼します」
那須川が入ってきた。
「体調はどうだ?」
「おかげさまで、大丈夫です。報告とは——」
「口実だ」と言って、俺は立ち上がった。
「は?」
「お前を呼ぶ口実だよ」
「部長、昨日から——」
俺は那須川の腰を抱き寄せた。顔をそむけ、唇を守ろうとする彼女の顎を持ち上げ、躊躇うことなく唇を重ねた。
「やっ——」
逃げようと彼女が力を込めれば込めるほど、俺はきつく抱き締めた。
「ぶちょ——」
息苦しさに僅かに開いた唇の隙間に、舌をねじ込む。
「んっ……」
甲高く甘い声が、俺の理性を打ち砕く。
自分はもっと我慢強い人間だと思っていた。我儘なことはわかっていたが、朝のオフィスで部下に欲情するほど自制心のない人間だとは、知らなかった。
今すぐ抱きたい——。
舌を絡ませたまま、ジャケットのボタンを外し、シャツ越しに彼女の胸に触れた時、デスクの電話が鳴った。内線。
俺は仕方なく那須川に思いっきり酸素を吸い込む自由を与えた。彼女の腰を抱いたまま、受話器に手を伸ばす。
「はい」
『営業の林です』
営業部部長で、黛の上司。
「お疲れさまです」
「お疲れ。昨日の会議で——」
那須川は必死で俺の腕から逃げようともがいていた。電話越しにはわからないように、声を出さずに。
その姿が可愛くて堪らなかった。
受話器を耳に当てたまま、再び彼女の唇を味わう。
那須川の唇の甘さと、就業時間内のオフィスであるスリルに、足の間が疼く。
「わかりました。次の会議までにまとめます」
俺は受話器を置いた。
それでも、那須川を放さない。
「部長! 何考えて——っ」
「疼くんだよ。猫に噛まれた傷」
「そんなの——」
「煙草吸えなくて口さみしいし」
「え?」
那須川の首筋にキスをして、腰を抱く腕をゆっくりと下ろす。滑らかな曲線。
彼女がスカートを穿いていたら、間違いなくめくり上げていた。
「やめ……て!」
「挑発したのはお前だろ」
「なん……で——?」
「あんなキスされて、我慢できるかよ」
俺への仕返しのつもりだったのだろう。
思い通りにならない女に欲求不満を募らせればいいと、それくらいの気持ちだったのだろう。
残念ながら、それは成功した。
目を閉じると思い出す、那須川の唇の感触と、舌の甘さ、抱き締めた温もり。俺はひとり寝の夜を、煙草で気を紛らわすことも出来ず、悶えた。
「あれはっ——」
「俺がお前の欲しい男の条件に合ってたら、俺のモンになんの?」
「え……?」
「煙草臭くなくて、女を見下したりしない、地位と財産のある男……だっけ?」
まつ毛が重なるほど近くで、見つめ合った。
「ほん……き……ですか?」
「禁煙するほどには」
「一回ヤりたいだけでしょ」
那須川が真っ直ぐ俺を見て、言った。
彼女に睨まれると、ゾクゾクする。
今すぐ、めちゃくちゃに抱きたい。
俺を欲しがらせたい。
「一回で満足できる気がしねぇな」
「何回だろうと、遊ばれて捨てられるに変わりないじゃないですか」
「お互いに楽しめればいいだろ?」
「私は楽しめません!」
那須川が思いっきり俺を突き飛ばした。乱れたジャケットを整える。
「大体、仕事中にする話ですか!」
「じゃあ、仕事の後に話そうぜ」
「嫌です!」
那須川は呼吸を整え、部屋を出て行った。
キスに応えてたこと、気づいてんのか?
煙草が吸えない口さみしさは忘れていた。
代わりに、那須川に触れたい衝動が増した。