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#探偵
橘靖竜
4,950
紗良にゃん
47
38
山奥の廃工場――。
キッチンに閉じ込められて、3日目。
堀口は、男の生活リズムを把握していた。
男が猟犬を連れて山に出る時間、そして夕方以降。
この時だけ、外側の扉には錠がかけられる。
それ以外の時間、外錠は閉められない。
扉の前に、完璧な忠誠心を備えた3匹の門番がいるからだ。
そして男は、堀口にまったく興味を持っていない。
——イノシシを食ったことがあるか?
それが、これまでに交わした会話のすべてだった。
以来、男が堀口に話しかけてくることは一度もない。
堀口が軟禁されているキッチンで、黙々と料理をするだけだった。
面倒な荷物がひとつ増えた。
男はその程度にしか感じていない。
もちろん、堀口もそれには勘づいていた。
堀口を自由にすれば、山を降りて警察に通報する。
殺してしまえば、事が大きくなる。
面倒な人間を抱えてしまい、面倒だから後回しにしているのではないか。
しかしもし何かが起これば、後回しではなくなる。もっとも早い決断により、男はためらわずナイフを心臓に突き刺すだろう。
荷物は、あくまで荷物でいなければならない。
じっとしていなければならない。
下手に暴れれば、あっという間に命を消される。
とにかく今は、生かしてあるだけ。
それが男の心境であることは、ほぼ間違いなかった。
男の無関心が、自分を延命させている。
あれ以来ひと言も交わしていないからこそ、どうにかゴミとして存在できている。
ゴミのままでいなければならない。
対話は危険だ。
感情に訴えかけるなど、絶対にしてはならない。
堀口は心の中でそう誓った。
しかし椅子に縛りつけられたまま、できることなど何もなかった。
ただ肉体を回復させるためだけの日々。
折れた肋骨の痛みによって、呼吸は不規則だった。
ナイフで刺された背中が痛みで、深い眠りにはつけない。
椅子に座ったまま痛みをこらえる時間が、永遠のように長い。
むしろ傷が悪化しているような気がして、次第に心が滅入っていった。
大企業の社員として意欲的に過ごした時間が、遠い昔のように感じられた。
しそね町の人々のために走り回った日々もまた、実は存在しない夢だったかのように思えた。
3日目になると、ようやく気を失うように眠れる時間ができた。
堀口の体は、まだ死ぬ方向へは進んでいなかった。
ゆっくりと、しかし確実に、正常な方向へと戻そうとしている。
精神と肉体は、とっくに限界を迎えていた。
だからこそ堀口は、現在の環境を受け入れることができた。
それは非常用電源が作動したようだった。
今までとは異なる思考が、堀口を支えている。
放棄ではなく、適応。
椅子に縛られた状態では、自殺すらできない。
今の自分にできることは、脱出の方法を綿密に想像することだけだった。
環境への適応は、応用の土台となった。
時間が経つにつれ、頭の中に具体的な脱出方法が浮かびはじめていく。
まず必要なのは、ロープを切るための道具だ。
堀口は昨夜食べ終えた猪肉の骨を、椅子の下に残しておいた。
男が去ったあと、椅子の脚で何度も押しつけて骨を砕き、先の尖った欠片を作ることに成功した。
骨は、冷蔵庫の下に隠しておいた。
男が椅子のロープを確認するのは、いつも朝食の直後。
1日1回きりのトイレの時間だ。
男は猟犬と、閉じ込められた隣の部屋の人間に食事を与える。
最後に堀口のための猪肉を床に投げ捨てる。
その後、自分も別の部屋で朝食を食べる。
食後に再びキッチンへ戻り、皿を洗う。
それから堀口のロープをほどき、トイレへ連れて行く。
トイレへ向かうタイミングで男を襲えないか。
堀口は何度も考えた。
しかしそれは絶対に不可能だった。
男は完全な臨戦態勢のまま、堀口の後ろについて歩く。
少しでも怪しい動きを見せれば、鋭いナイフが心臓を貫くだろう。
つまり、男がいない時間帯を狙うしかなかった。
ロープを切って脱出する。
それだけが、唯一の選択肢だった。
排便を終えると、堀口は再び椅子に座らされた。
男は黙々と堀口の体を縛りつける。
それが終わると、キッチンから出ていった。
今朝もまた、同じだった。
ロープが体の自由を奪い、男は悠々と姿を消した。
堀口は椅子ごと床に転がった。
肋骨に激痛が走る。
それでも歯を食いしばり、冷蔵庫へと這っていく。
冷蔵庫の下に隠してある骨の欠片を、口で引き寄せた。
それから体の位置を少しずつ入れ替え、縛られた後ろ手で尖った骨をつかむ。
骨の先をロープに当て、ガリガリと削りはじめた。
力でどうにかなる問題ではなかった。
ロープを構成する糸の1本1本を、少しずつ切っていく作業だ。
精神を蝕むような、細かい動作の繰り返し。
すぐに全身が汗まみれになった。
口がカラカラに乾く。
背中の傷が熱を持ち、折れた肋骨が呼吸のたびに軋んだ。
それでも堀口は、ただひたすら手先に意識を集中させた。
骨とロープの間に、摩擦を生む。
ほんのわずかでもいい。
繊維を削る。
1本でも多く、切る。
——明日のトイレの時間までに、このロープを切らなければ……
私は殺される。
ゴミに自主性など不要。
ゴミが主人を裏切るなど、あってはならなかった。
ただその場所にじっとしているからこそ、捨てられずに残ることができた。
ロープを切る作業は、忍耐との戦いだった。
また時間との戦いでもあった。
どれほど同じ動作を繰り返しただろうか。
気づけば、窓から差し込む日差しが弱まりはじめていた。
内側の扉の錠が外れる音がした。
男がキッチンへ入ってくる。
男は床に倒れた堀口を横目で見た。
その視線はやはり、ゴミを見るものだった。
男は冷蔵庫を開け、イノシシの肉を取り出して火鉢に置いた。
堀口はロープの隙間に尖った骨を隠し、動かずにじっと待った。
縛られた手首が見えないように、壁を背にしたままで。
やがて、床に猪肉と水皿が置かれた。
堀口は家畜のように水を舐め、猪肉にむさぼりつく。
ロープを切る力を得るための、必要不可欠な屈辱だった。
男は最後に自分の夕食をこしらえると、キッチンから出ていった。
ガリガリガリガリ――。
明かりの消えたキッチンに、骨とロープがこすれる音が鳴り続ける。
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