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キッチンに閉じ込められて、3日目。
堀口ミノルは、男の生活リズムを把握した。
猟犬を連れて山に出るときと、夕方以外は外錠を閉めない。
門の前に完璧な忠誠心を備えた門番がいるからだ。
男は堀口にまったく興味を持っていなかった。
――イノシシを食ったことがあるか?
それがこれまでに交わした会話のすべてであり、以来男が話しかけてくることは一度もなかった。ただ堀口が軟禁されているキッチンで、黙々と料理をするだけだった。
面倒な荷物がひとつ増えた。その程度に感じていることを、もちろん堀口も勘づいている。
堀口を自由にすれば山を降りて警察に通報するだろうし、殺してしまっては事が大きくなる。面倒な人間を抱えてしまい、面倒なだけに後回しにしているのではないかと堀口は考えた。
しかし後回しなだけであり、もし何かが起これば決断は早いはず。堀口が激しい抵抗を試みようものなら、男は躊躇なくナイフを心臓に突き刺してくるだろう。
荷物はあくまで荷物であって、じっとしていなければならない。
下手に暴れれば、あっという間に命を消されてしまうのだ。
とにかく今は生かしてあるだけ。
それが男の心境であるのはほぼ間違いなかった。
男の無関心が自分を延命させている。
あれ以来一言も交わしていないため、自分はどうにかゴミとして存在できている。
ゴミのままでいなければ。
対話は危険であり、感情に訴えかけるなど絶対にあってはならない。
そう心の中で誓った。
椅子に縛りつけられたままで、できることなど何もなかった。
ただ肉体の回復のためだけの日々。
折れた肋骨の痛みによって呼吸は不規則で、ナイフで刺された背中が痛くて深い眠りにはつけない。
ただ椅子に座ったまま痛みをこらえる時間があまりにも長く、苦しかった。傷が永遠に治らないような気がして、次第に心が滅入っていく。
大企業の社員として意欲的に過ごした時間が、遠い昔のように感じられた。しそね町の人々のために走り回った日々もまた、実は存在しない夢であるかのようだった。
3日目になると、ようやく気を失ったように眠ることができた。
人体が持つ神秘的な力は、しっかりと堀口の体を正常な方向へと向かわせている。
精神と肉体はとうに限界をむかえていた。
だからこそ堀口は現在の環境を受け入れることができた。
それは非常用電源が作動したようだった。
今までとは異なる思考が堀口を支えていた。
放棄ではなく適応。
椅子に縛られた状態では自殺すらできない。今自分にできることは、脱出の方法を綿密に想像するだけだった。
環境への適応は、応用の土台となった。
時間が経つにつれ、頭の中に具体的な脱出方法が浮かびはじめた。
まずはロープを切るための道具が必要だった。
堀口は昨夜食べ終えた猪肉の骨を、椅子の下に置いた。そして体を持ち上げ、椅子の脚を使って骨を砕いた。
それを何度か繰り返すことで、先の尖った骨を作ることに成功した。
骨はそのまま冷蔵庫の下の隙間に隠しておいた。
男がロープを確認するのは、いつも朝食の直後。
一日一回きりのトイレの時間だ。
男は猟犬やふたつの目に食事を与え、最後に堀口のための猪肉を床に投げ捨てる。その後、本人も別の部屋に行って朝食を食べる。
食後再びキッチンに戻って皿洗いをしてから、堀口の綱をほどいてトイレへと連れて行く。
トイレへと移動するときに男を襲おうか、何度も考えてみた。しかしそれは絶対に不可能だった。
男は完全な臨戦態勢のまま、堀口のうしろについて歩く。少しでも怪しい行動をとれば、鋭いナイフが背中を破り心臓へと到達するだろう。
男のいない時間帯を狙わなければならなかった。
ロープを切って脱出することだけが、唯一の選択肢であった。
排便を終えて再び椅子に座らされる。
男は黙々と堀口の体を縛りつけ、それが終わるとキッチンから出ていく。
今朝もまた同じようにロープが体の自由を奪い、男は悠々とキッチンから姿を消した。
堀口は椅子ごと床に転がり、冷蔵庫へと這っていく。
今朝できた骨を口にくわえ、冷蔵庫の下に隠してある尖った骨を取り出す。
それから体の位置を入れ替え、縛られた後ろ手で尖った骨をつかんだ。そして骨の先鋭を使ってロープをガリガリと削りはじめた。
力でどうなる問題ではなかった。
ロープを構成する糸の一本一本を切っていく作業だ。
精神を蝕むような細かい動作の繰り返し。
すぐに全身が汗まみれになり、口がカラカラに乾いた。
堀口はただひたすら手に意識を集中させて、ロープに摩擦を加える。
――明日のトイレの時間までに、このロープを切らなければ殺される。
ゴミが主人を裏切るなどあってはならなかった。
ゴミに自主性など不要だ。ただその場所にじっとしているからこそ、捨てられずに残っているのだから。
ロープを切る作業は忍耐との戦いであり、また時間との戦いでもあった。
どれほどの時間、同じ動作を繰り返したろうか。
気づけば窓からの日差しが弱まりはじめていた。
内側の扉の錠を外す音が聞こえ、男がキッチンへと入ってきた。
男は床に倒れた堀口を横目で見た。その視線はやはりゴミを見るのと同じように蔑んだものだった。男は冷蔵庫を開け、イノシシの肉を取り出して火鉢に上げた。
堀口はロープの隙間に尖った骨を隠し、動かずにじっと待った。縛られた手首が見えないよう、壁を背にしたままで。
床に捨てられた猪肉と水皿。
堀口は家畜のように水を舐め、猪肉にむさぼりつく。
ロープを切るためのエネルギーを補給するためには必要な屈辱だった。
男は最後に自分の夕食をこしらえると、キッチンから出て行った。
ガリガリガリガリ――。
明かりが消えたキッチンには、骨とロープとの摩擦音だけが鳴っていた。