ガリガリガリガリ――。
夜中のあいだ、作業は休みなく続けられた。
死と直結するだけに一時の猶予もない。
暗く長い夜を超え、空がわずかに明らみはじめた頃になって、ようやくロープの一本を切ることに成功した。
残るは一本。
ほぼ20時間を費やして、ようやくロープの一本が切れたにすぎない。
絶望が堀口を襲いはじめた。
残る時間に休まず手を動かしたとしても、残る一本を切るには到底間に合わない。
徐々に建物全体が明るく染まりはじめる。
全身が汗で濡れていた。
死という未来が刻一刻と近づいている。
朝食を終えてトイレの時間になれば、男に気づかれるだろう。
堀口の人生はその瞬間に終わりを告げるのだ。
焦りと恐怖と痛みが、堀口を混乱させた。
しかし他に方法はなかった。ここまできて後戻りはできない。
堀口は歯を食いしばり、ひたすら作業を続けた。
ガチャ、ガチャ。
内扉の錠前を外す音が聞こえた。
しばらくして外側の扉も開かれ、男が入ってくる。
男のうしろには、猟犬が相変わらず鋭い目で堀口を見ていた。
ロープはまだ半分も解けてはいない。
キッチンに入った男が、いつものように黙々と料理をはじめる。
堀口は男の動きを常に確認しながら、手首を動かし続けた。
火鉢の上で最初の肉が焼けると、男は外に猪肉を放り投げた。腹を空かせた猟犬が、キュンキュンと喉を鳴らし、肉が冷めるのを待っている。
男はさらに肉を焼き終え、最後に堀口の目の前に肉塊を投げ捨てた。それからキッチンの明かりを消し、外の扉の鍵を閉めてから、内側の扉から出ていった。
――あと30分でトイレの時間……。
残るロープを切り終えるには、途方もなく短い猶予だ。
堀口は床に転がる猪肉を口にくわえた。
そしてムカデのように這って、外側の扉へと近づいていく。
外扉の前まで行くと、全力で上半身を持ち上げた。
歯でドアノブの鍵を回し、顎を使って扉を開けた。
扉の外では肉を食い終えた猟犬が、名残惜しそうに骨を舐めていた。しかし扉が開き堀口が姿を現すと、猟犬は鋭く尖った歯を見せた。
堀口は体を反転させ、猟犬に背を向けた。
縛られた両手は、猪肉の塊を握っている。
「頼む……。食べてくれ」
堀口は、動物がもつ本能的欲求にすべてを賭けた。
猟犬は痩せ細っている。
それにいくら猟犬であっても、専門機関で訓練を受けたわけではない。
どこかひとつでいい。
猟犬がもつ欲求の穴をこじ開けることができれば……。
命懸けの取引だった。
猟犬が飼い主への忠誠心を発揮すれば、背を向けた堀口の命は瞬時に断たれるだろう。首根っこに噛みつかれ、動脈からおびただしい血が噴き出て絶命するだけだ。
「肉を……肉を食べてくれ」
押し寄せる恐怖の中で、堀口は肉をもつ手首を猟犬に向けた。
グルルルルル――。
猟犬がついに、堀口のまいた餌にかかった。
猟犬は欲望のままに、手首とロープにからまった猪肉を食べはじめた。
手首がちぎれるほどの痛みが走った。
皮膚が裂け、出血多量で死ぬこともありえる場面だった。
しかし堀口は動かなかった。
興奮した猟犬を挑発してはならない。
ただ石になり食事の邪魔をしないことで、脱出口を開くことができるのだから。
バチッ……!
猟犬の鋭い歯が、手首を縛る最後のロープを引きちぎった。
堀口はすぐ上半身を起こし、手に隠しもった骨で猟犬の目に一撃を加えた。
尖った骨が眼球内部へと食い込む感触に全身の毛が逆立った。
キャン!
犬は悲鳴を上げて後方へと下がり、しばらくもがいてからその場に倒れた。
堀口は上半身を縛るロープをほどきはじめた。
両手さえ自由になれば、あとは服を脱ぐように簡単に脱出できた。
猟犬が再び襲ってこないか確認しながら、次に冷蔵庫を開けて必要な物を服の中に隠した。
「ここから逃げなければ」
膝に手を当てて立ち上がろうとした。
しかし堀口の両足に強い衝撃が走った。
長く同じ姿勢で縛られていたため、体がこわばって立ち上がることができなかった。
エコノミークラス症候群だ。
血が急激に足へと流れ込み、頭がくらくらして動けない。まるで誰かに殴られたようにバランス感覚を失い、その場でうめき声をあげた。
エコノミークラス症候群になることは、ある程度予想していた。
トイレにはじめて行った際に症状がひどく、容易に立ち上がれなかったからだ。だからこそ椅子に縛られながらも、血が足に流れるよう常に姿勢を変え続けてきた。
しかし昨日はロープを切ることに全神経を集中させた。
そのためほとんど体を動かすことができず、結局立ち上がることができなくなった。
自らの落ち度に血の気が引く思いだったが、時間はもう残っていない
……男がくる!
堀口は無理やりに立ち上がろうとした。だが両足が思うように動いてくれない。
「ナイフならまだマシ。おそらく猟銃を持ってくるだろう……」
現実は想像よりも悪い方へと進んでいた。
扉の外でうめいていた猟犬は、いつのまにか死体になっていた。いずれ猟犬の死に男は気づき、その犯人である自分を躊躇なく殺すだろう。
「あいつと戦うしかない」
生き残るためには、男を排除するしかなかった。
自分だけでなく、ここに閉じ込められたふたつの目を救うためには、あの男を殺すしかない。
堀口は結局、逃走ではなく「抵抗」を選択した。
自由になった手で扉を閉め、内側から鍵をかけた。それから床を這って内側の扉の鍵も閉めた。
とにかく両足が回復するまで、男を中に入れてはならない。
体が正常に戻ってから男と戦うことだけが、万に一つでも勝利を手にする方法だった。
堀口は扉に寄りかかって座り、両足をもみながら回復を促した。
「やってくれたな、このクソが!」
猟犬の死を確認した男の叫びが、廃工場全体を揺らした。
怒りにまかせて、すぐにキッチンに攻め込んでくるかもしれない。
堀口は痛みが癒えるより先に立ち上がり、戦闘態勢を取った。
すりガラスの外扉に男の姿が映った。
尖った猪骨を握る右手が震えた。
「覚悟しておけよ、このクソが」
男はその一言を残し、キッチンには入らず外錠を閉めてどこかへと立ち去った。
突然の静寂が訪れた。
心臓の音だけが、静けさの中で躍動していた。
一瞬たりとも緊張を緩めることができなかった。
男がいつ攻め込んでくるかもわからない状況の中、警戒態勢を解くなどあってはならない。
再びすりガラスに男の姿が映った。
その瞬間、窓から光が消えた。
続いてハンマーで扉を叩く音が聞こえる。
木の板を使って、窓を完全に塞ごうとしているのだ。
男はひとつの窓を塞ぐと、続いて別の窓の前に姿を現した。
窓から光が消え、再びハンマーの音が鳴り響いた。
そうしてキッチンは完全な闇の中へと沈んだ。
まるで視力を失ったように景色が消えた。
堀口は四方を警戒しながら内側の扉に近づき電気を点けた。しかし部屋が明るくなることはなかった。
「電気をとめられた……」
太陽の光が世界を照らす早朝に、堀口は光を失った。
猟銃を使った狙撃の可能性もあるため、窓側に近づくことはできない。
警戒態勢を解かないまま、じっと待つしかない。
5分……10分……15分……60分……。
まさか、このまま飢え死にさせるつもりか!?
堀口はようやく床に座り、これから訪れるだろう状況を整理しはじめた。
喉は乾ききっていて、両手がぶるぶると震えている。
これからどうなるのか、いくら考えても答えが見つからない。
男は結局、この世から消えたように二度と姿を現さなかった。
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