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#探偵
橘靖竜
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紗良にゃん
47
38
如月 未澄斗
216
ガリガリガリガリ――。
夜のあいだ、作業は休みなく続けられた。
死と直結しているだけに、ひと時の猶予もなかった。
暗く長い夜を越え、空がわずかに明るくなりはじめたころ、ようやくロープの1本を切ることに成功した。
残るは1本。
ほぼ20時間を費やして、ようやくロープの1本が切れただけだった。
絶望が堀口を襲いはじめる。
残る時間に休まず手を動かしたとしても、もう1本を切るには到底間に合わない。
建物全体が、徐々に朝の光に染まりはじめていた。
全身は汗で濡れている。
死という未来が、刻一刻と近づいていた。
朝食を終えてトイレの時間になれば、男に気づかれる。
堀口の人生は、その瞬間に終わりを告げるのだ。
焦りと恐怖と痛みが、堀口を混乱させた。
しかし他に方法はない。
ここまで来て、後戻りなどできなかった。
堀口は歯を食いしばり、ひたすら作業を続けた。
ガチャ、ガチャ。
内扉の錠前を外す音が聞こえた。
しばらくして外側の扉も開き、男が入ってくる。
男のうしろには、猟犬がいた。
相変わらず鋭い目で、堀口を見ている。
ロープは、まだ半分も削れていない。
キッチンに入った男は、いつものように黙々と料理をはじめた。
堀口は男の動きを確認しながら、手首を動かし続ける。
火鉢の上で最初の肉が焼けると、男は外へ猪肉を放り投げた。
腹を空かせた猟犬が、キュンキュンと喉を鳴らし、肉が冷めるのを待っている。
男はさらに肉を焼き、最後に堀口の目の前へ肉塊を投げ捨てた。
それからキッチンの明かりを消し、外側の扉を内側から施錠して、内扉から出ていった。
——あと30分でトイレの時間……。
残るロープを切り終えるには、途方もなく短い猶予だった。
堀口は床に転がる猪肉を口にくわえた。
そしてムカデのように這い、外側の扉へ近づいていく。
扉の前まで行くと、全力で上半身を持ち上げた。
歯で鍵のつまみを回し、顎を使って扉を押し開ける。
扉の外では、肉を食い終えた猟犬が名残惜しそうに骨を舐めていた。
しかし扉が開き、堀口が姿を現すと、猟犬はすぐに鋭く尖った歯を見せた。
堀口は体を反転させ、猟犬に背を向けた。
縛られた両手には、猪肉の塊がある。
堀口はその肉を、手首のロープに押しつけた。
「頼む……。食べてくれ」
動物が持つ本能的欲求。
堀口はそこにすべてを賭けた。
犬は痩せている。
いくら猟犬であっても、専門機関で訓練を受けたわけではない。
どこかひとつでいい。
欲求の穴をこじ開けることができれば。
命懸けの取引だった。
猟犬が飼い主への忠誠を優先すれば、背を向けた堀口の命は瞬時に断たれる。
首根っこに噛みつかれ、動脈からおびただしい血を噴き出して死ぬだけだ。
「肉を……肉を食べてくれ」
押し寄せる恐怖の中で、堀口は肉を握った手首を猟犬へ向けた。
グルルルルル――。
猟犬が、欲望のまま、手首とロープに絡んだ猪肉へ食らいついた。
堀口のまいた餌にかかったのだ。
「うぐっ……!」
手首がちぎれるほどの痛みが走った。
皮膚が裂け、血がにじむ。
少しでも噛みどころがずれれば、肉ではなく手首を持っていかれる。
しかし堀口は動かなかった。
興奮した猟犬を刺激してはならない。
石になり、食事の邪魔をしない。
それだけが脱出口を開く方法だった。
バチッ……!
猟犬の鋭い歯が、手首を縛る最後のロープを引きちぎった。
堀口はすぐに上半身を起こした。
隠し持っていた尖った骨を握り、猟犬の顔へ突き出す。
骨の先が、眼球に食い込んだ。
その感触に、全身の毛が逆立つ。
キャン!
猟犬は悲鳴を上げて後方へ下がった。
しばらくもがき、やがてその場に倒れ込んだ。
堀口は震える手で、上半身を縛るロープをほどきはじめた。
両手さえ自由になれば、あとは服を脱ぐように抜け出せた。
猟犬が再び襲ってこないかを確認しながら、冷蔵庫を開けた。
必要な物をかき集め、服の中へと隠した。
「ここから逃げなければ」
膝に手を当て、立ち上がろうとした。
しかし両足に、強いしびれと痛みが走った。
長く同じ姿勢で縛られていたせいで、体がこわばって、足に力が入らない。
血流が戻っていく感覚とともに、頭がくらくらした。
まるで誰かに殴られたように、バランス感覚を失う。
堀口はその場でうめき声を上げた。
長時間の拘束で、足が使いものにならなくなることはある程度予想していた。
はじめてトイレへ連れて行かれたときも、容易に立ち上がれなかったからだ。
だからこそ椅子に縛られながらも、血が足に流れるように少しずつ姿勢を変え続けてきた。
しかし昨日は、ロープを切ることに全神経を集中させた。
ほとんど体を動かせなかった。
その結果、今になって立ち上がれなくなってしまった。
自らの落ち度に血の気が引く。
しかし、時間はもう残っていない。
——男が来る。
堀口は無理やり立ち上がろうとした。
しかし両足が思うように動いてくれない。
「ナイフならまだマシだ。奴はおそらく、猟銃を持ってくる……」
現実は、想像よりも悪い方へと進んでいた。
扉の外でうめいていた猟犬は、いつのまにか動かなくなっている。
いずれ男はその異変に気づくだろう。
そして犯人である自分を、ためらいなく殺す。
「あいつと戦うしかない」
生き残るためには、男を排除するしかなかった。
自分だけではない。
ここに閉じ込められたふたつの目の持ち主を救うためにも、男を止めなければならない。
堀口は結局、逃走ではなく抵抗を選んだ。
自由になった手で外側の扉を閉め、内側から鍵をかける。
それから床を這って内扉へ向かい、そちらにも鍵をかけた。
とにかく両足が回復するまで、男を中へ入れてはならない。
体が正常に戻ってから戦うことだけが、万にひとつでも勝利を手にする方法だった。
堀口は扉に寄りかかって座り、両足をもみながら回復を促した。
「やってくれたな、このクソが!」
猟犬の異変を確認した男の叫びが、廃工場全体を揺らした。
怒りにまかせて、すぐにキッチンへ攻め込んでくるかもしれない。
堀口は痛みが癒えるより先に立ち上がり、戦闘態勢を取った。
すりガラスの向こうに、男の姿が映った。
尖った猪骨を握る右手が震えた。
「覚悟しておけよ。このクソが」
男はその一言を残した。
そしてキッチンには入らず、外側から錠をかけ、どこかへ立ち去った。
突然の静寂が訪れる。
心臓の音だけが、暗いキッチンの中で躍動していた。
一瞬たりとも緊張を緩めることはできない。
男がいつ攻め込んでくるかわからないため、警戒態勢を解くなどあってはならなかった。
やがて、再びすりガラスに男の姿が映った。
その瞬間、窓から光が消えた。
続いて、ハンマーで何かを打ちつける音が聞こえる。
木の板で、窓を塞いでいるのだ。
男はひとつの窓を塞ぐと、続いて別の窓の前に現れた。
また光が消える。
再びハンマーの音が鳴り響く。
そうしてキッチンは、完全な闇の中へ沈んだ。
まるで視力を失ったように、景色が消えた。
堀口は四方を警戒しながら内扉へ近づき、電気のスイッチを押した。
しかし部屋が明るくなることはなかった。
「電気を止められた……」
太陽の光が世界を照らす早朝に、堀口は光を失った。
猟銃を使った狙撃の可能性もある。
窓側に近づくことはできない。
警戒態勢を解かないまま、じっと待つしかなかった。
5分。
10分。
15分。
1時間――。
まさか、このまま飢え死にさせるつもりか。
堀口はようやく床に座り、これから訪れるだろう状況を整理しはじめた。
喉は乾ききっていて、両手がぶるぶると震えていた。
これからどうなるのか、いくら考えても答えは見つからない。
男は結局、この世から消えたように二度と姿を現さなかった。
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