テラーノベル
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日曜の夜、恭平は十時前に帰ってきて、十一時には寝室の電気を消した。
真尋はリビングの灯りを一つだけにして、九冊目の家計簿を開いた。十月の最後のページは、給食費の端数で締めてある。その先は、十一月と十二月のぶんの白いページが続いて、いちばん最後に、何も罫のない一ページがある。九年間、どの一冊でも、そこには何も書いてこなかった。
真尋は赤ペンのキャップを外した。
書く前に、二つのことを考えた。
一つは結衣のこと。七歳で、七の段を言えて、恐竜の本を三冊借りて、両親が言い合うと鉛筆を止める子ども。この子に、何を見せるか。何を見せないか。
もう一つは、四百十二万円のこと。この家に入るはずだった金と、この家から出ていった金。真尋はそれを、一万円の端数まで言える。恭平は、たぶん一万円の端数まで言えない。言えないから、「俺の金だ」と言う。
真尋はペンの先を紙につけた。
『離婚する。一円残らず取り返す。』
日付を入れる。『11/2』。
書き終えてから、もう一度読む。字は震えていない。家計簿の字と同じ太さで、同じ大きさだ。
真尋は家計簿を閉じて、食器棚の下の段の、いちばん奥に入れた。
月曜は文化の日で、恭平は仕事。真尋は結衣と公園に行き、落ち葉を拾って帰った。火曜は恭平の休みで、昼前に「ゴルフの打ち合わせ」と言って出ていき、夜まで戻ってこない。
水曜の朝、真尋は事務所に着くと、所長室の扉を叩いた。
「所長。相談があります。仕事のあとで、お時間をいただけますか」
神谷は書類から目を上げた。
「業務のあとで。五時」
「はい」
扉を閉めて席に戻ると、大久保が湯呟みを持ったまま、こちらを見ていた。何も言わなかった。
丸正食品の社長が来たのは、十二時を少し回ったころだった。
六十近い、小さな人だった。応接の小部屋に入る前に、神谷が事務室の真ん中で足を止めた。
「社長。この件を見つけたのは、こちらの篠原です」
事務室の四人が、手を止めた。真尋は立った。
神谷は社長に向かって、淡々と話した。仕入れ先の一社だけ、消費税の端数が切り上げになっていたこと。その一社の伝票の枚数が去年の倍に増えていたこと。単価と数量を並べたら、同じ日に同じ品が二度仕入れられている月が、三年で十四か月あったこと。
「その伝票を切っていたのは、社長の弟さん。専務です」
「二十三円の差で止まったのは、篠原です。私は、二十三円では止まらなかった。この事務所で端数を読めるのは、篠原さんだけだ」
社長が真尋に向かって、深く頭を下げた。
「弟のことは、身内の恥です。でも、気づかんまま続いてたら、会社が持たんかった。ありがとうございました」
真尋は、頭を下げられるのに慣れていなかった。
「いえ。合わなかったので、合うまで調べただけです」
社長が顔を上げて、少し笑った。「合うまで調べる。それが、うちにはおらんかった」
神谷が応接に社長を案内して、扉が閉まった。
事務室が、少しのあいだ、静かだった。
大久保が湯呟みを置いて、真尋の机の横に来た。
「篠原さん。お茶、淹れるわ。新しいの」
二年半、「パートさん」だった。真尋は、はい、と言って座った。
向かいの若い職員の坪井が、小さく拍手の形に手を動かして、すぐやめた。
五時。真尋は所長室の扉を叩いた。
神谷は机の向かいの椅子を指した。真尋は手提げから家計簿の九冊目と、スマホを出した。
話す順番は、歩きながら決めてあった。日付の順に、紙のある順に。
十月二十七日の空いた行。十月三十一日の電話。はがきの住所。十一月一日の郵便受けの『篠原』。三冊の家計簿と通帳で出した四百十二万円の内訳。十月二十八日の、産婦人科の領収書。宛名の名前。
真尋は、写真を一枚ずつ神谷に見せた。神谷は、どの写真も三秒ずつ見た。眉は、一度も動かなかった。
「以上です」
「あなたは、どうしたい」
「離婚します」
神谷は何も言わなかった。真尋は続けた。
「でも、ただ別れるんじゃなくて。この四百十二万円を、一円残らず取り返したいんです。学資保険の百三十万円も、立替の九十七万円も。あの人は、たぶん一万円の端数も言えません。私は言えます。だから、取り返せると思うんです。でも、取り返す方法を、私は知りません。所長、数字の読み方を、教えてください。家の数字を、仕事の数字と同じように読む方法を」
神谷は胸ポケットから赤いボールペンを抜いて、机の上に置いた。真尋の側に、少し押した。
「証拠は、紙で残す。写真は紙に出す。日付を、全部書く。いつ、どこで、何を見たか。見た日の日付も書く。家計簿と同じだ」
「はい」
「保険の電話も、郵便受けも、領収書も、今日の話も。全部、日付をつけて一冊にする。相手が『そんな話は知らない』と言ったとき、紙が答える」
「はい」
「弁護士は、知り合いに当たる。離婚のことは私の仕事ではない。私は税だ。金の流れは、私が見る」
真尋は赤ペンを取った。神谷のものと同じ、安い、どこでも売っているボールペンだった。
「所長。これは」
「業務だ。顧問先の金の流れを読むのと同じことを、あなたの家の金でやる。それだけだ」
真尋は、少し間を置いて言った。
「数字は嘘をつかない」
#復讐
草原草原(くさはらそうげん)

1,510
木風
791
#サレ妻
都築七美
1,141
「嘘をつくのは、人だ」
神谷は書類に目を戻した。「帰りなさい。娘さんが待っている」
真尋は赤ペンを家計簿の九冊目に挟んで、所長室を出た。大久保が、湯呟みを洗いながら、何も聞かずに「お疲れさま」と言った。
家に着いたのは七時だった。
玄関を開けると、リビングに灯りがついていた。水曜は恭平の休みだ。
恭平はテーブルの上に、紙を何枚も広げていた。不動産の会社の名前の入ったクリアファイル、間取りの図、『査定のご案内』と書かれた封筒。恭平の会社、アルバ住宅の仲介部門の封筒もある。
結衣は学童から帰って、隣の和室でテレビを見ていた。
「おかえり」も言わずに、恭平は顔を上げた。
「結衣は俺が迎えた。学童に六時。お前が遅いからな」
「ありがとう」
「それより、この家、売るぞ」
真尋は、靴を脱ぎかけた足を止めた。
「来週、査定の人が来る。土曜の午後だ。掃除しとけ」
「売って、どうするの」
「どうするも何も、俺が決めることだ」
恭平は『査定のご案内』の封筒を、真尋のほうに向けて押した。
「売ったら、俺はもっと駅に近いところに移る。お前と結衣のことは、そのとき考える」
「結衣の学校は」
「転校くらいするだろ、小一なら」
真尋は玄関に立ったまま、手提げの持ち手を握った。中の家計簿の九冊目の、角が指に当たった。
和室で、結衣がテレビの音を小さくした。
恭平が腕を組んだ。
「言っとくけどな。お前の判子は要らない。この家は俺の名義だ。ローンも俺が払ってる。俺の家を、俺が売る。それだけだ」
真尋は靴を脱いで、玄関に上がった。
「ローンの残り、いくらか言える?」
「は?」
「二千八百九十万円。今月の返済のあとで。売る前に、その数字だけ覚えておいて」
恭平の腕が、組んだまま止まった。
「……査定は、土曜の午後だ」
コメント
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読んだよ…『一円残らず』第3話。家計簿九冊目に「離婚する。一円残らず取り返す」と書き込んだ真尋の静かな決意が、重くて美しすぎた……。数字で黙らせられる人って本当に強いと思う。家を売ると言い放つ恭平に、ローン残高を即答するところでグッときた。でも欲を言えば、結衣ちゃんの目線や感情をもう少しだけ読みたかったな。続き、気になって仕方ないよ。