テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
二月十四日、土曜。一年二組の授業参観は、三時間目、十時四十分からだった。
教室の後ろに、母親と父親が三十人ほど、壁に沿って立っている。真尋は、入口に近い端に立った。紺のカーディガン。手提げの中に、家計簿の九冊目。
「今日は、『わたしのかぞく』の作文を、みんなに読んでもらいます」
担任が言って、一人目が立った。おとうさん、おかあさん、いもうと。おとうさんは、りょうりがとくいです。
結衣は、八人目だった。
教室の前に立って、原稿用紙を両手で持った。真尋のほうを、一度見た。それから、読んだ。
「わたしの、おかあさん」
声は、思ったより大きかった。
「おかあさんは、かけいぼを、つけます。まいばん、つけます。ひゃくえんも、まちがえません。おかあさんは、すうじが、すきです。わたしも、おこづかいちょうを、つけています。おかあさんと、おなじ、かきかたで、つけています」
教室の後ろで、誰かが小さく笑った。笑いの、声ではなかった。息が、漏れる音だった。
「おかあさんは、わたしが、なきそうなとき、てを、つないでくれます。わたしも、おかあさんが、なきそうなとき、てを、つなぎます。おわり」
結衣は、原稿用紙を下ろして、席に戻る。
担任が「はい、ありがとう」と言った。
後ろの壁の、母親たちの何人かが、真尋のほうを見る。真尋は、前を見ていた。目元を、一度、指で拭く。それだけだった。
教室の後ろの扉が開いたのは、九人目の子が読み始めたときだった。
恭平だった。スーツ。その後ろに、敏子。
恭平は、壁に沿って真尋の反対の端まで歩いて、立つ。敏子は、恭平の隣に立って、教室の前を見ている。真尋のほうは、見ない。
結衣は、席から、後ろを一度振り返った。恭平を見て、敏子を見て、前に戻る。
十人目が読み始めたとき、恭平のスーツのポケットで、スマホが光った。恭平はスマホを見て、画面を二度、指で押して、それから、後ろの扉から廊下に出ていく。
戻ってこなかった。
敏子は、一人で、残っている。
参観は、十一時二十五分に終わった。母親たちが、子どもたちのところへ行く。真尋は、結衣の席に行った。結衣は、原稿用紙を机に置いていた。
「読めた」
「読めた。すごいね」
「おばあちゃん、来てた」
「うん」
結衣は、敏子のほうを見なかった。敏子は、後ろの壁のところで、誰とも話さず、立っていた。それから、何も言わずに、廊下に出ていった。
廊下で、井口が待っていた。佳奈は教室で、結衣と話している。
「真尋さん。結衣ちゃんの作文、泣いちゃった」
「ありがとうございます」
井口は、声を落とした。
「それと。前に言った、ホームセンターの話。あれ、ちゃんと日付、分かるよ。十一月九日、日曜。佳奈の自転車を買った日だから。レシート、まだ取ってある。二時十分って、レシートに時刻も出てる」
真尋は、井口を見た。
「旦那さんと、若い子。ベビーベッドの、値札を見てた。あれ、人違いじゃないよね。この前、学童の門のところにいた子と、同じ髪だった」
井口は、見ていた。学童の門のことも。
「井口さん。お願いがあります」
「何」
「二十二日に、親戚の集まりがあります。そこで、その日付だけ、使わせてもらっていいですか。井口さんの名前は、出しません。十一月九日、二時十分、ホームセンター。それだけ」
井口は、少し考えてから、うなずいた。
「いいよ。レシートの写真、送る。名前は、出さなくていい。でも、要るなら、出していい」
「ありがとうございます」
井口は、真尋の腕を、一度、軽く叩いた。
教室に戻ろうとしたとき、担任が、廊下の先から真尋を呼んだ。
「篠原さん。少し、いいですか」
担任は、職員室の前まで真尋を連れていって、ファイルから紙を一枚、出した。
「これは、お母様は、ご存じですか」
真尋は、紙を見た。
『転校届』
『児童名 篠原結衣』『転校予定日 三月二十三日』『転校先』の欄に、隣の区の小学校の名前。義実家の学区の、小学校。
いちばん下。『保護者 篠原恭平』。恭平の字。
「先週、お父様が、お持ちになりました。三月に、お父様のご実家のほうへ転居されるので、と。お母様からは、何も伺っていなかったので、確かめさせてください。ご存じでしたか」
真尋は、紙から目を上げた。
「知りません」
「では」
「転校は、しません。結衣は、今、私と、この学区の家で暮らしています。監護しているのは、私です。父親とは、十二月から別居しています。この届は、私の知らないところで出されたものです」
担任は、ペンを持って、何かを書いた。
「分かりました。学校としては、お母様とお父様の両方に確認します。お母様から、弁護士の方の連絡先を」
「月曜に、弁護士から連絡させます。内藤先生、という方です」
担任は、うなずいた。真尋は、転校届の写真を撮った。『保護者 篠原恭平』の字が、画面に残った。
教室のほうから、結衣の声がした。
「お母さん」
結衣が、廊下の先で、原稿用紙を持って、手を振っていた。
「作文、どうだった」
草原草原(くさはらそうげん)

1,510
木風
791
都築七美
1,141
コメント
1件
いやもうもうもう……「ひゃくえんも、まちがえません」って、あの作文、心に沁みました。結衣ちゃんが教室の前で読んでいる声が聞こえてくるようで、真尋さんが後ろで指で目元を拭く場面、わたしももらい泣きしそうになりました……。そこからの転校届。恭平さんの字で書かれた「保護者」の文字を見たときの真尋さんの「知りません」の一言に、静かな怒りと決意が詰まっていて。結衣ちゃんが廊下の先で原稿用紙を持って手を振る最後のカット、その無邪気さがもう、胸にくるものがありました。続きが本当に気になります……!