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百貨店の高級なフレグランス売り場で嗅いだことのある、洗練された香りがした。だが今は、それに生臭い鉄の匂いが混ざり、胃の奥がせり上がるような不快なものに変わっている。
二十三階。窓の外には東京の夜景が広がり、成功者の証とも言えるこのタワーマンションの一室は、今や黄色い規制線で区切られ、無機質な鑑識官たちの足音に支配されていた。
リビングの中央、毛足の長い絨毯の上に、崩れた彫刻のような女の遺体があった。頭部は鈍器のようなものでひどく損壊している。傍らに転がっているのは、割れた大ぶりの花瓶だ。季節外れの向日葵が、飛び散った水と血に濡れて無様に横たわっていた。
「……ひどい」
思わず声が漏れた。私はハンカチで口元を押さえ、手帳を握る手に力を込めた。捜査一課に配属されてまだ間もない。凄惨な現場を生で見るのは初めてだ。写真ではなんども見たが、この過剰なまでの静寂と暴力の対比には、足がすくみそうになる。
「被害者は佐藤美奈子さん。一人でいたところを襲われたようです。物音を気にしたお隣さんから管理人さんへ、そして通報。室内は荒らされ、寝室の金庫も空。典型的な押し込み強盗の線が濃厚ですね。旦那さんは商社の出張で朝から不在でしたが、今こちらに向かっているそうです」
私は必死に声を整え、教育係である先輩刑事の小宮さんに報告をした。そんな私の背後で、一人の男がうろうろと歩き回っているのが視界に入る。グレーのコートを羽織り、焦点の定まらない瞳で部屋を眺めている男。明らかに刑事でも検視官でもない。
「ちょっと、あなた。何をしているんですか」
私は声を鋭くした。男は鑑識の邪魔になる位置で、あろうことかリビングの端にあるクローゼットへ歩み寄ろうとしていた。
「そこはまだ鑑識が終わっていません。そもそも、誰に許可を得て入ってきたんですか」
男は私を無視し、ハンカチ越しにクローゼットの扉を引いた。
「気にするな、南」
私を制したのは、小宮さんだった。彼はひどく疲れた顔で男を一瞥し、重い溜息をついた。
「彼は柊渡という……協力者だ。上層部からの許可は出ている」
「協力者? 警官でもなく?」
「詳しいことはまた話すが、とにかくそっとしておいて構わない」
小宮さんの言葉に、私は耳を疑った。聖域であるはずの捜査現場に一般人を立ち入らせるというのか。私の視線は自然と、軽蔑を含んだものになった。だが柊という男は、私の軽蔑など最初から存在しないかのように、クローゼットの中を覗き込んでいた。
クローゼットの中はドレスやブラウス、床に散乱したハイヒールが無造作に入れられていた。ピンクのキャリーケースは半開き。
「……ふむ」
柊は棚の引き出しも開け、中の下着や靴下を眺めている。一応彼はハンカチで取っ手を掴んでいるところを見ると、指紋などには気を払っているらしい。私は思わず彼の背後から覗き込んだ。中はぐちゃぐちゃで全く整理されていない。
「何を見ているんですか。犯人は金に困った強盗でしょう。宝石や現金を奪うために、よっぽど急いでいた。だからこれだけ中身がぶちまけられてる。それくらい、私にだってわかります」
「急いでいた、ね」
柊は散乱したブラウスを、指先で軽く突いた。
「君の目には、これが『必死に金を探した跡』に見えるのかい、刑事さん」
「……え? そうでしょう。これだけ荒らされていれば」
「本物の泥棒はもっと効率を求めるものだ。金庫の場所がわかっているなら、他の引き出し同様開きっぱなしにするだろう。でも引き出しもクローゼットも閉じられていた。」
「何をデタラメを……」
言い返そうとした瞬間、廊下から激しい足音と、男の叫び声が飛び込んできた。
「美奈子! 美奈子!」
ドカドカとリビングに踏み込んできたのは、仕立ての良いスーツを着た男だった。この家の主、佐藤康介だろう。出張先から急行したのか、右手には中型のキャリーケースをしっかりと握っている。
佐藤は遺体を見るなり、その場に膝をついた。
「ああ、なんてことだ……。美奈子、返事をしてくれ!」
彼は慟哭し、その場に崩れ落ちた。私はたまらず駆け寄り、彼の震える肩を抱いた。 「佐藤さん、しっかりしてください。私たちは必ず犯人を……」
佐藤は泣きじゃくりながら、隣に置いた自分のキャリーケースを、縋るように強く抱きしめた。その姿は、最愛の妻を失い、絶望の淵に立たされた夫そのものに見えた。
だが、その時だ。柊がゆっくりと、泣き崩れる佐藤に近づいていった。彼は無言のまま、佐藤が抱え込んでいるキャリーケースに、ひょいと手を触れた。
「……何をするんだ、あんたは」
「柊と言います。何日の出張の予定でしたか?」
佐藤が涙で濡れた顔を上げ、柊を鋭く睨む。私もまた、彼のあまりの無礼さに
「不謹慎ですよ!」
と声を荒らげようとした。しかし、柊は表情一つ変えず、佐藤のキャリーケースを指一本で軽く持ち上げようとした。そして、小さく、氷のように冷たく笑った。
「もういいですよ、佐藤さん。名演でした」
「……何だと?」
「出張、大変でしたね。キャリーケースのサイズ的に三日から一週間分の荷物が入る。でも不思議だな。出張に出かけるはずの商社マンのキャリーバッグにしては、あまりにも——」
柊はバッグの取っ手を掴み、事もなげに高く持ち上げて見せた。
「——軽すぎる」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
「中身はほぼ空ですね。元々は奥さんから奪った宝石と、血のついた着替えが入っていただけ。……刑事さん、犯人はこの人だ。今すぐ連れて行ったほうがいい」
柊は、先ほどまで泣き喚いていたはずの夫の、急激に冷め切っていく瞳を、まっすぐに見つめ返していた。