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「軽すぎる……?」
私は呆然と、柊が掲げたそのバッグを見つめた。
キャリーケースのサイズは中型。男性なら柊の言う通り最低でも三日。荷物の少ない男性なら一週間分の荷物が入っているはず。その重みを、このバッグは完全に失っているようだった。
「何を……馬鹿なことを。軽すぎるのがどうしたんだ。そんなことより、早く犯人を……!」
佐藤が叫ぶ。だが、その声からは先ほどまでの悲壮感が消え、代わりに隠しきれない焦燥が滲み出していた。
柊は冷ややかな視線を崩さず、クローゼットの方を指差した。
「さっき、僕はこのクローゼットの中が不自然だと言ったね。決め手はあの、ピンクのキャリーケースだ。中身は空だったが、半分開いたままだった」
「それがどうしたって言うんです」
食い下がる私を、柊は一瞥もせずに続けた。
「あの引き出しの中身、見たかい? 下着やブラウスが、畳まれもせずに突っ込まれていた。まるで、一度外に出したものを、慌てて戻したみたいにね。でも強盗じゃない。強盗ならわざわざ戻さない……佐藤さん、奥さんは今日、あなたが出張に出るのと入れ違いで、家を出るつもりだったんじゃないかな。実家にでも帰るために、荷物をまとめていたんだ」
佐藤の顔から、急速に血の気が引いていくのがわかった。
「あなたはそれを見つけた。あるいは、まとめられた荷物を見て、彼女が去ることを悟った。そして口論になり、カッとなって……そばにあった花瓶を手に取った」
「デタラメだ! 妄想を喋るな!」
「殺害後、あなたは強盗の仕業に見せかけるために部屋を荒らした。だが、彼女がまとめていた荷物をそのままにしておくわけにはいかない。家を出ようとしていたことがバレれば、真っ先に自分が疑われるからね。だからあなたは、彼女がバッグに詰めた衣類を、手当たり次第に引き出しへ押し戻した。そして、自分の返り血を浴びた服や、盗まれたことにしたい宝石類を、自分のキャリーケースに放り込んだんだ」
柊の言葉は、まるでその場を見てきたかのように正確で、容赦がなかった。
「宝石と薄い着替えだけなら、数キロもない。三日分の出張用具を取り出し、詰め替えた。……あなたは当初の予定通り出張に行ったふりをしないと怪しまれることを考え、一度は空港へ行ったはずだ。だが、中身がこれではチェックインもできなかっただろう? 証拠の類は全て、空港のゴミ箱にでも捨てたかな。今から調べれば、まだ残っているかもしれない」
「……ふざけるな」
佐藤の喉から、獣のような低い唸り声が漏れた。
「……偉そうにしやがって!」
次の瞬間、佐藤の表情が劇的に変わった。悲嘆に暮れる夫の仮面が剥がれ落ち、そこには剥き出しの殺意があった。
「貴様さえいなければッ!」
佐藤は手近にあった鑑識用の機材をなぎ倒し、柊に向かって突進。手にはいつのまにか床に転がっていた花瓶のガラス片が握られていた。
「危ない!」
叫ぶよりも早く、私の体が動いた。
柊は避ける素振りも見せず、ただ退屈そうに佐藤を見つめている。その無防備な背中を、佐藤の凶刃が狙う。
私はその間に割り込み、佐藤の右腕を掴んだ。柔道で叩き込まれた感触が、脳を介さず右手に伝わる。彼の突進する力をそのまま利用し、自らの重心を低く沈めた。
「はっ!」
鋭い気合とともに、彼の体を自分の腰に乗せる。鮮やかな大外刈り。タワーマンションの静かな空間に、肉体が絨毯に叩きつけられる鈍い音が響いた。
「……う、あ……」
床に這いつくばり、呻く佐藤の右腕を、私は迷わず背後に回して固めた。
「佐藤康介。殺人容疑、および傷害未遂で逮捕します」
カチリ、と手錠の冷たい音がリビングに響く。佐藤はもう、抵抗する気力を失ったのか、ただ荒い息を吐きながら床を見つめていた。
「お見事。なかなかのキレだね、刑事さん」
背後から、場にそぐわない軽やかな声がした。振り返ると、柊が何事もなかったかのようにコートの襟を整えている。
「……柊さん、でしたっけ。危なかったんですよ。もし私が間に合わなかったらどうするつもりだったんですか」
私が息を弾ませて抗議すると、彼は少しだけ口角を上げた。その瞳の奥には、やはり先ほどと同じ、深い夜のような闇が潜んでいる。
「君ならやると思ってたよ。正義感の強い新米刑事っていうのは、計算に入れやすい要素だからね」
そう言って、彼は私を追い越して玄関へと歩き出した。解決した事件にはもう興味がないと言わんばかりの、あまりにも淡白な後ろ姿。
「南葵です。柊さんの命の恩人の名前はね」
私は手首に残る佐藤の体温と、柊が残していった氷のような言葉の余韻に、立ち尽くしながらそう言った。