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出立当日、ティアはトゥレムヴァニエール城の居住区域と政務区域の境目にある、中庭にいた。
庭師が丹念に整えた花壇には、移りゆく季節を感じ取り、いち早く花をつけるものと、春を惜しむかのように咲き続けるものが混ざり合っている。
生垣代わりに植えられたプリペットは白い小花が、そして庭を囲むように植えられたオリーブの木には白と黄色の花が瑞々しく咲いている。
中庭は、王族の居住区域でもあるため、ここまで馬車で移動することが可能で、また逆もしかり。
本日、ここには質素な馬車が停まっている。隣国に嫁ぐアジェーリアのために、用意されたものだ。
アジェーリアの嫁ぎ先は元敵国なので、この婚姻を良しとしない者も多くいる。そのため、安全性を考慮して目立たぬものを用意したのだ。
すべての準備は整っているが、主役であるアジェーリアは、まだ姿を現していない。
いつ現れるかは王女次第。見送りのために正装姿でいるバザロフは、ティアの両肩に手を置いた。
「ティア、一ヶ月半という長い旅になるが、気を付けて行ってくるんだぞ」
「……」
「旅先でも、しっかり食事を取るんだぞ。眠れなくても、身体をちゃんと休ませるんだぞ」
「……」
「安心しろ。儂も城からではあるが、道中危険が無いよう目を光らせておく」
「……」
「ティア、やっぱり……その……やめておくか?」
「は──」
思ってもないバザロフの申し出に、ティアは食い気味に頷こうとした。
けれどその途中で、ティアとバザロフの間に紅色のマントが入り込んだ。
「バザロフ様、当日にそのようなことを申されては困ります」
不機嫌を隠さないその声の持ち主は、ティアに背を向けているので、どんな顔をしているかわからない。
きっと、ご機嫌な顔だけはしていないはずだ。だって、向かいにいるバザロフが、苦虫を口に放り込まれたような顔をしているのだから。
「もう、今更後戻りはできないのです。腹を括ってください」
バザロフにきっぱりと言った紅色のマントを身につけた騎士──グレンシスは、振り返ってティアを見た。
「お前もだ。いい加減、腹をくくれ」
ティアは、最後の悪足搔きで首を横に振ってみたが、グレンシスはそれを黙殺した。
アジェーリアと対面したティアは、出立までの残りの日々を、ずっとロハン邸で与えられた部屋で、引きこもっていた。
出会って早々、投げ飛ばされたことは、極めてセンセーショナルな出来事で、しかも旅路の責任者はグレンシスだということを知ってしまい、ティアは混乱を極めた。
娼館からほとんど外にでないティアは、極度な人見知りでもある。
あんな出会い方をした、やんごとなき身分のお姫様に加えて、自分のことを嫌っている彼とひと月以上も一緒に過ごす。
ティアにとっては、死活問題だった。
しかしティアは、持ち前の物分かりの良さが邪魔して、嫌だと駄々をこねることも、諦めることも、開き直ることすらできず、完全に自分の殻に閉じこもってしまった。
連日、ベッドの上で掛布をかぶり、布の塊と化してしまったティアに、頭を抱えたのはロハン邸の使用人たちだった。
食欲をそそるスープでも、甘い焼き菓子の香りでも、ティアの身長と同じくらいの熊のぬいぐるみを持ってしても、ティアをベッドから出すことができず、使用人たちは大いに困った。
結局、出立当日にグレンシスから掛布を力任せにはぎ取られ、強制的連れてこられてしまった。
そういう訳でティアは、気持ちの切り替えもできないまま、この世の終わりのような表情をしている。
何となく視線を感じたティアは、そこに視線を向ける。ばっちりと、グレンシスと目が合ってしまった。
いい加減にしろ!そうグレンシスから、怒鳴りつけられると思い、ティアはカタカタと小刻みに震える。
その姿に良心が痛んだのか、グレンシスはティアに優しく問いかけた。
「出立まで、ほとんど時間はないが、何か希望があるなら叶えるぞ」
そんな提案をされても、できることなど皆無である。
しかし、空気的に要望を伝えなければいけない何かを感じて、ティアは要求を絞り出した。
「なら、銅貨をを……少し、分けて下さい」
「……は?か、金だと?」
「はい。少しでいいので……お願いします」
「お前、まさか途中で逃げる気か?」
「いいえ、違います。興味というのは、熱して冷めやすいものですから……殿下の気まぐれで、旅路の途中で放り出された時のために路銀が欲しいのです」
潤んだ目で訴えられたグレンシスは、何とも言えない顔をしている。
「ま、まぁ……アレだ。そうなった時は、こちらでなんとかしよう。だから、今は金は渡せない。その代わり、戻ってきたら銅貨じゃなく金貨を渡すことを約束しよう」
絶対に放り出さないという約束を貰えなかったティアの瞳に、絶望の色が灯る。
不憫すぎるその姿を直視できなかったのだろう。グレンシスは「すまん」と呟き、そっと目を逸らした。