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グレンシスが、ティアから目を反らした途端、王族居住区域からコツコツとヒールの音が響いてきた。
そこにいた者全員が、音の方に目を向ける。音の主が誰かと気付いた途端、庭の空気が一変した。
アーチ形の入り口から姿を現したのは、落ち着いたブラウングリーンのドレスを身にまとった美女と、地味なドレスを着た中年の女性。
第四王女アジェーリアと、その侍女ノハエだった。
ゆっくりとこちらに近づく王女、にティアを含めた全員が最上の礼を執る。
「待たせたか?」
ティア達の前に立ったアジェーリアは、少し眉を上げてそう言った。その口調は、待たせたとしても謝る気はない不遜なもの。
輿入れというには地味で、装飾がほとんどない簡素なドレスを纏っていても、身体から滲み出る気品は隠しようがない。
「いいえ、めっそうもございません」
決められた台詞を口にするかのようにバザロフが首を横に振ると、アジェーリアに向かって膝を付く。
「アジェーリア様の輝かしい門出を心よりお祝い申し上げます。他国へ嫁がれても、このバザロフ、王女に幸多からんことをいつまでもお祈り申し上げます」
口にする言葉はありきたりなものだったけれど、バザロフの声音には、これまで二人が過ごした二人だけにしかわからない年月の重みがあった。
向ける視線は、マダムローズに対するものでも、ティアに対するものでもない。主君と家臣の深い信頼関係からくるものだった。
アジェーリアは、ゆったりとバザロフに微笑みかける。
「バザロフ、ぬしから剣の指導が受けられぬのは、名残惜しい。じゃが、安心せい。住まう国が変われど、鍛錬は怠らない」
自信満々に言い切ったアジェーリアに、バザロフはさすがに顔色を変えた。
「恐れ多いお言葉を頂き、恐悦至極でございます。ですが……いえ……どうか、鍛錬という日課はこの国に置いていかれて下さい。バザロフの最後のお願いでございます」
懇願にも近いバザロフのその言葉に、アジェーリアは頷く代わりに、鼻で笑った。
「聞けぬ願いじゃ。……が、道中、検討してやろう」
「恐れ入ります」
深々と頭を下げるバザロフに、アジェーリアは膝を折り手を伸ばす。その手は、バザロフの肩で止まった。
「ぬしも気付けば、老体じゃな。達者で暮らせ。お前の訃報など、当分の間は受け取りたくはない」
「はい。善処致します」
苦笑を浮かべたバザロフにアジェーリアは軽く肩を叩き、そのまま腕を取り立ち上がらせる。
そして、くるりとその藍色の瞳をグレンシスに向けた。
「出立できるか?」
「王女の声ひとつで、いつでも」
グレンシスの返事に鷹揚と頷いたアジェーリアは、今度は身体ごと向きを変えた。ティアと向き合う形となる。
「ティア、あれ以来、わらわの元に来てくれず寂しかったぞ。じゃが、もう逃げられるとは思うでないぞ」
「っ……!」
怯え、涙目になったティアに、アジェーリアは猫のように目を細めて、ティアの頬をすっと撫でる。
それから、軽い足取りで既に用意されている馬車へと足を向けた。
長年仕えてくれた侍女にも、騎士団総括にも振り返ることなく。
「ティア、王女を待たせてはいけない。行くぞ」
グレンシスも王女の後を追うべく、馬車へと身体を向ける。その拍子に、ふわりと深紅のマントがひるがえる。
内側の服装は、宮廷で仕える時のものではない。
動きやすさと丈夫さを重視した、所謂、遠征服。足元も、普段のすっきりとしたデザインのブーツではなく、歩きやすさだけに重点を置いた編み上げのもの。
同じようにティアも、くるみのボタンだけが装飾品と呼べる地味な焦げ茶色のドレスに、ブーツを履かされている。
手には旅行にしては小さな鞄。この中には、マダムローズから送られてきた少しばかりの身の回り品が入っているが、お金は入ってない。
そう。どれだけ悪足掻きをしようとも、これは決定事項で、覆すことはできないのだ。
ティアは覚悟を決めるために、大きく息を吸って、吐く。
グレンシスはその間、寛大にも急かすことはしなかった。足を止めて、ティアが追いつくのを待っている。
「お、お待たせ……しました……」
不安と覚悟が混ざったティアと並んだのを機に、グレンシスも歩き出す。
馬車に乗り込むまでの間、ティアが3回、バザロフを振り返ったことに、グレンシスは咎めることはせず、気付かないふりをした。
どこまでも澄み渡る青空の下、王都は見渡す限り、いつも通りの賑わいをみせていた。
第四王女の輿入れは国民には伏せてある。これまで王女が嫁ぐ際には、大々的に公示をして、街を上げて祝うのが通例とされてきたのに。
急に決まったことだし、この旅路が危険を伴うから仕方ないのかもしれないが、なんでも寂しいのではないかとティアは思う。
娼館で育ったティアは、祭りや催事に足を向けたことは一度しかない。
たった一度だけのそれは、第二王女レシャンテのお輿入れを祝うものだった。
その時のパレードの先頭がバザロフだったこともあり、珍しいことにマダムローズがティアを連れて見に行ったのだ。
一度だけ目にしたお祭りは、ティアに高揚感を与えるものだった。
窓の外では、第二王女レシャンテの結婚を讃えるための布が、建物や橋や屋台の柱のあちこちに飾られて、風に揺らめいていた。
水色のお仕着せを身にまとった少女達が花びらを詰めた籠を持ち、歌いながら馬車道にまき散らし、見物人たちも胸や髪に挿し、それらが更に街を彩っていた。
踊りを披露する年頃の娘たちがいて、手を叩きながら喜び、同じようにタップを踏む男性たちがいた。
ティアはマダムローズの手を握りしめながら、何度も『すごい』と呟き、食い入るように街を眺めていたのを覚えている。
それなのに第四王女の輿入れは、祝いの声一つない、とても寂しいもの。
(それで……いいのかな?)
身分の高い者は総じて自尊心が強く、必要以上に特別扱いを求めるものだと、ティアは思い込んでいる。
アジェーリアは、王女だ。当然、身分は高い。いや、最上の位の人間だから、自尊心は雲よりも上にあっても、おかしくはない。
それに王女は和睦のために、婚姻する。国民を護るための、人身御供といっても過言ではない。
それなのに祝福の一つも受けず、自国を去ることに不満はないのだろうか。
ワガママで、気まぐれで、気難しい王女は今、何を思っているのだろう。
ティアはついさっきまで怯えていたことも忘れ、向かいの席に座る王女をじっと見つめる。
そうすればアジェーリアは、まるでティアの心を見透かしたかのように、口の端を片方だけ持ち上げて笑った。
「良いのじゃ。とても、良い眺めじゃ」
アジェーリアはティアにそう言うと、今度は窓に映る街を見つめて同じ言葉を繰り返した。
王女の輿入れなど知らない街の住民は、忙しなく歩道を歩き、市場で買い物を楽しみ、子供がはしゃぎ回り───いつもと変わらない日常を、過ごしていた。