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■第3話「名もなき少年」
その少年には、名前がなかった。
いや、かつてはあったのかもしれない。ただ思い出せない。誰にも呼ばれていない気がする。
目を覚ました場所は、見知らぬ書庫だった。
広大で、静かで、なのに不安になるほど温かい。風は吹かないはずなのに、ページがめくれる音が遠くで響いている。壁のない空間に、浮かぶように本棚が並び、書物が自律的に移動していた。上も下も曖昧で、まるで重力が夢の中にあるかのようだ。
「また、ひとりで歩いてますね」
不意に声がして、彼はそちらを振り返る。そこに立っていたのは、ブックレイ。淡い赤磁色の装束をまとい、顔は平坦で、表情はない。ただ、目だけが静かに“物語の綴じ目”のように揺れていた。
「君に足りないのは、“名前”ですね」
少年は黙ってうなずく。年齢は十四ほど。細身で、深い灰色のシャツとジャケットを着ている。短く刈り込んだ前髪の下に、少しだけ睨むような鋭さを湛えた瞳。だがその表情には、長い間誰にも呼ばれなかったような、かすかな寂しさが滲んでいた。
ブックレイが差し出したのは、一冊の本。
「この物語では、“名前を持たない者は存在できない”。君は登場人物のひとりとして入り、名を得るか、それとも……消えるか」
少年は本を受け取る。表紙に自分の姿が描かれていた。けれどその下には、空欄のまま名前だけが印刷されていた。
「夢みたいだ」と、彼は思った。
だが夢にしては、重力がやけに静かだった。
本のページが風もなくめくられる。その一瞬で、彼の足元が光に変わる。
名を探す旅が、始まる。
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