テラーノベル
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源一郎は床に座っている。
台所では、翠が棚からジギタリスを取り出し、怒りに任せて何包も茶に流し入れた。
「早く死んでもらわないとっ。もう、お金がないのよっ!」
正気とは思えない般若の表情で、何度もかき混ぜていた。
「あなたっ! お薬ですわ!」
盆を卓に叩き落とすような荒さで置いた。そして湯呑みを手にして屈むと、源一郎の口元まで持っていく。
源一郎が虚ろな目でそれを見ているが、手を出そうとしない。
翠は苛立ちが隠し切れなくなり、いきなり源一郎の後頭部を押さえ、茶を強引に飲ませようとした。
「やめろっ!!」
しゃっと障子が滑った。
そこには、将臣、凪が立っていた。その顔には、怒りが溢れている。
「な、なんなのよ。あんたたちっ!! 帰ったんじゃなかったの⁈」
翠は驚いて、膝をつけたまま後へ退く。
部屋に入った将臣が、強引に翠の手から湯呑みを奪い取った。
中を覗くと、白濁した液が揺れていた。
「……これはまた、えらい量を入れたものだ。義父上を──殺す気か?」
鋭い眼差しが翠を射抜いた。
翠が息を詰める。
「な、何をおっしゃっているの。これは医者から処方されたお薬ですよ!! その薬を奪うなんて、お父様を殺す気なのは、あなたの方よっ!!」
将臣に向けた翠の指は、わかりやすいほど震えていた。
凪がすうっと前へ出る。その手には破かれた薬包紙や、見たことのないお薬の束。
「処方されている喘息のお薬をなぜ、屑籠に捨てていたのですか?」
「へ?」
間抜けな翠の声が虚しく響く。
「そして、この薬包紙……クラフト紙に英字が書かれています。これは、西洋の薬ですね?」
凪が翠の目の前に突きつけ、訊ねる。
「薬をすり替えて、一体、父上に何をしようとしていたのですか?」
翠の顎がガチガチと震え出す。しかし、彼女はまだ諦めない。
「か、勘違いしないでほしいわっ。西洋のこの薬は、効果が強いの。だからこっそり、足していたのよ!」
「ほう。では、これが『ジギタリス』であると知っていたのですね」
将臣の冷徹な指摘に、翠の息が止まる。
「これは、扱いを知らぬ者が使えば、猛毒になり得る」
翠の目が泳ぐ。それでも、しらじらしく言葉を吐き捨てた。
「さあ……どうかしら。俊朗から『心臓によく効く薬』としか聞いてないから」
「母さん……嘘だろう……?」
すると、突然、障子の影から虚な目をした俊朗が現れた。
「俊朗! なっ、なぜここにっ!!」
翠が目を剥いて驚いた。
「頼まれてたそのジギタリスを、届けに来たんだよっっ!!」
俊朗は持っていた紙袋を、勢いよく翠へ投げつけた。袋の口から、西洋の包装紙に包まれた薬が、何包も散らばった。
「俺は、この薬は効果はあるけど危険な薬だって教えただろう⁈ 素人が勝手に飲ませていい薬じゃない! まさかお義父上に飲ませていただなんて……っ」
「俊朗さんっ、違うのっ。誤解よっ!」
翠はズルズルと俊朗まで這うように近づく。
「──殺人未遂だぞっ!!」
俊朗の指摘に、翠の顔から血の気が一気に引いた。
「僕は関係ないからなっ⁈ 母さんが勝手にやったことだ!!」
すぐさま踵を返そうとしたが、翠がその足に必死にしがみついた。
「俊朗っ! 見捨てないで! 借金があって仕方なくやったことなの!!」
しかし、俊朗は汚物でも見るように翠を睨み、縋るその腕を強引に振り払い、出ていってしまった。
打ちひしがれた翠は、畳の上にうずくまり、咽び泣いていた。
それを見ていた源一郎が小さくため息をつき、重たい身体を起こした。そして、筆机から一通の封書を取り出した。
そして、翠の細い肩にそっと手を置いた。
「翠。これを」
厚みのある封書を見た途端、泣き腫らした翠の目がニヤリと笑った。
「……ようやく援助していただけるの?」
奪うように源一郎の手から封書を奪い取った。そして、驚愕の目で翠は叫んだ。
「り、離縁状っ⁉︎」
「そうだ。今すぐ、ここから出ていけ」
源一郎は顔色ひとつ変えずに命じた。
髪を振り乱した翠は三つ指をつき、必死に土下座する。
「あなたっ、お願い! 一度だけっ! 一度だけ許してっ!!」
「こんなことをして……許せるはず、ないでしょう」
凪が低い声で翠を睨んだ。
「俊朗とあなたに捨てられたら、私、どうやって生きていけばいいの?」
「あの……お取り込み中、失礼します。翠様、お客様です」
「千代っ!! こんな時にふざけないで──あ……っ」
言葉の勢いが一瞬で消え去った。
千代の後ろから、柄の悪い二人組が顔を見せた。体格のいい開襟シャツ姿の男と、痩身だが眼差しが鋭い着物姿の男だった。
着物の男が、一枚の用紙をひらひらさせている。
「今日の返済分を受け取りにきましたよ。桐谷 翠さん」
皆の前に突き出されたのは、借用証書だった。そこには、高額な借入金額と翠の署名が記されている。
翠が弾かれたように立ち上がった。
「あっそのっ……今日はまだっ準備が……」
額に脂汗を流し一歩二歩と後退すると、脱兎のごとく奥の部屋から廊下へと逃げ出していった。
「おいっ逃げるなっ!!」
男二人も、慌ててその後を追いかけていった。
嵐の静けさに、皆が顔を見合わせた。
同時に息を深く吐いて肩の力が抜けた。
「ごほっごほっ」
源一郎がよろめくと、将臣と凪が一斉に腕を伸ばし支えた。
「父上。ようやく、本当に休めますね」
「助けていただき、なんと礼をしたらいいのか……。凪、安藤殿……本当にありがとう」
涙が溢れそうになり、ふと将臣と目が合った。
彼はまた、自分にしか見せない優しい笑顔を浮かべてくれていた。
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