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奈緒は玄関のドアが開く音で目を醒ました。
(やばっ! 寝てた!?)
慌てて起き上がり、隣で眠る六花の存在に気づく。
愛らしい寝顔。ぴくぴくと動く小さな手。
思わず幸せな気持ちになったが、この後に起こるだろう辛い現実のとの落差に、胸が苦しくなった。
六花を起こさないようにしながら、奈緒は部屋を出た。玄関で靴を脱ぐ夫の史博が、露骨に嫌な顔をする。
「寝てたのか?」
「うん、ごめん。六花を寝かしつけてたらそのまま…」
「主婦はお気楽だなぁ。で? 俺の飯は?」
今まで寝ていたのだ。準備ができているはずがない。史博は分かっていて質問しているのだ。
「ごめん。まだだけど…」
「…ふざけんな。こっちは仕事して腹を空かせてるんだぞ?」
吐き捨てるように言う。
「ごめんね。すぐ作るから」
「ったく、使えねぇ女」
ズキンと胸の奥が痛む。
仕事の大変さも分かる。夕食の準備ができていなかったのは自分の落ち度だ。
けれど自分もサボっていたわけではない。生後8ヶ月の手のかかる時期。夜泣きも酷く、ほとんど眠れていない。
きついのはお互い様なのに、どうしてこう一方的なのだろう?
奈緒が料理をしている間、史博はソファで横になり、スマホでゲームをしていた。
こちらを気遣う様子は一切ない。
「できたよ」
テーブルに料理を並べ、史博に声をかける。
「……なんだよ、これ」
史博が不満げな声を漏らす。
「ええと…、普通にハンバーグだけど?」
意味が分からず、奈緒はそのまま答えた。
「お前、ふざけんなよ!」
急な怒声に奈緒はびくりと体が震えた。
「ハンバーグなら昼にも食べたよ! なんで夜も同じもん出すんだよ!?」
昼食は外回りもあるからと、史博は自分で外食している。当然、奈緒が食事の内容を知っているはずがない。
「ごめん。だって、そんなの知らなかったし…」
「知らないじゃねえだろ!? 聞けよ、そんなの! あり得ねえだろ!」
「ごめん」
確かに確認しなかったのは奈緒の落ち度かもしれない。
だけど以前、「何が食べたい」と聞いたところ、「そんなのは自分で考えろ。こっちは仕事で疲れてんだ!」と怒られたことがあった。
それ以来聞いていない。聞ける空気ではない。
理不尽な思いはあるが、奈緒は謝るしかなった。下手に反論すると、史博は何倍も怒った。
反論すること、それ自体が彼の中で許せない行為なのだ。
火に油を注ぐだけ。何を言っても無駄なのだ。
当の昔に諦めている。
少しでも怒りを和らげるために、従順に謝ることが最善手だった。
「で? どうすんだよ、これ」
史博がハンバーグを指さしながら、睨みつけてくる。
「…作り直すよ」
「はぁ? 馬鹿じゃねえの!? そんなもったいないことできるか」
「だって…昼も食べたんでしょ?」
「だから、なんでそれで作り直すことになるんだよ? 常識で考えろ、常識で!!」
「うん…。そうだね」
胸が痛い。事あるごとに自分が否定される。
「で? どうすんだよ、これ?」
質問の意味が本気でわからなかった。
「どうって…、食べるんじゃないの?」
「当たり前だろ? さっきからそう言ってんじゃん!!」
(どういうこと? どうしたらいいの?)
奈緒は漆黒の海に落ちていくような気持ちになった。
足掻いても足掻いても苦しい事ばかり。
史博が納得する唯一の小さな答えを見つけ出さない限り、陸に上がることもできない。
奈緒の気持ちをまったく理解しようとしない癖に、自分の気持ちは理解できて当然だと思っている。
「チッ! ほんと、気が利かねえな! ナイフとフォークだよ!! 俺はハンバーグを箸で食べない主義なの!」
そうだったと思い出す。
同時に、信じられないとも思った。
一言いえば済むのに、そっちのほうが食器棚に近いのに、しかも話に脈絡もない。
けど、言うだけ無駄だ。言えば激昂するのは目に見えている。
史博とは喧嘩したいわけじゃない。
「そうだったね。ごめん」
奈緒はナイフとフォークを取ってきて史博に手渡した。
「ドレッシング」
史博が短く言う。ドレッシングをサラダにかけるのは奈緒の仕事だ。
「かけすぎるなよ」
「うん」
「ビール。泡立てすぎんなよ」
ビールを注ぐのも奈緒の役目だ。夫に手酌をさせる妻は出来損ないらしい。
「テレビ」
慌ててリモコンを捜すも近くにない。
身を乗り出して捜すと、史博の横に落ちていた。
「そこにあるよ」
「だから?」
不機嫌に返された。地雷を踏む前に、立ち上がってリモコンを取り、テレビをつける。
史博が好きそうな番組に、言われずとも変えた。
「ふぇえええええええん!!」
食事をしていると、隣から六花の泣き声が聞こえてきた。
(ああ、起きたかぁ。昼間は病院だったから睡眠のリズムが狂ってるかも)
「静かにさせろよ。テレビ聞こえねえだろ!」
史博が苛立たしげに言った。
「うん。ごめん」
(自分の娘なのに、そんな言い方……)
何よりもその事実が残念だった。
仕事で疲れているかもしれないが、テレビを見る余裕があるのなら、少しでも良いから六花に接してほしかった。
奈緒は自分の食事も途中のまま、ハイハイで廊下に這い出してきた娘を寝室へ連れ戻し、寝かしつけようとする。
生後8カ月。好奇心旺盛で、片時も目が離せない時期だ。
(やっぱり、すぐに寝てくれないか。ちょっと疲れさせないと……)
奈緒は六花を抱いて居間に戻ってきた。
先に食事を終えた史博は、ソファに寝転がって再びゲームをしている。
テーブルの上にはすっかり冷めただろう自分の夕食と、史博の食器が残っている。
「ねえ? 少しの間でいいから、六花を見てて」
せめて自分が食事をする間くらい、相手をしてほしいと思った。
「はぁ? なんで俺が? お前の仕事だろ?」
…仕事。
父親が子供の相手をするのは仕事なのだろうか?
どうしてスマホゲームと同じように、息抜きと感じてくれないのか?
「うん、でも。たまには構ってあげてよ。可愛いよ」
「いやいや。俺さ、仕事で疲れてんの。お前と違って金を稼いできてんだよ。誰のおかげで生活できてると思ってんの? 感謝の気持ちの足りなくね?」
スマホのゲームから目を話すことなく言い放つ。
「うん、そうだね。ごめん」
お金は大事だ。史博が仕事を頑張っているから、自分も六花も生活できている。
しかし、結婚を期に仕事を辞めろと強く言ってきたのは史博だった。
もしも仕事を続けていれば、こんな一方的な関係にはならなかったのだろうか。
「…風呂」
史博が短く、風呂に入りたいと言ってきた。
当然、湯舟を掃除をするのも湯を張るのも奈緒の仕事だ。
「あ、うん。ご飯食べたらね」
「はぁ? 今すぐやれよ! 飯なんて風呂ためている間に食えるだろ!? 要領悪いなぁ」
「…そうだね」
奈緒は立ちあがって風呂場に向かった。
ちらりと六花の姿を見る。正直不安だったが、さすがに危険はないだろうと自分を納得させた。
(おもちゃに夢中だし。史博さんもいるから、大丈夫だよね?)
ガシャン!!
浴槽の壁を洗っていると、居間のほうから大きな音が聞こえてきた。
「ふぇええええええん!!」
続いて六花の泣き声。
ざわざわとした不安が胸を締め付けてくる。
「どうしたの!?」
奈緒は濡れた手足を拭うこともなく、急いで居間に飛び込んだ。
食器棚の前でひっくり返っている六花の姿があった。周囲には割れたコップが散らばっていた。
おそらくは動いているうちに食器棚にぶつかり、コップを落としてしまったのだろう。
「六花!! 怪我はない!? 大丈夫!?」
「おい! なにやってんだよ! まったく!! コップを割りやがって!」
さすがに奈緒もカチンときた。
「コップの心配!? 六花が怪我してるかもって思わないの!?」
「つーか、なにキレてんの? 子供から目を離したお前が悪いじゃん」
奈緒は眩暈を覚えた。本気で言ってるのだろうか?
「目を離したって…。私はお風呂の掃除をしてたの!!」
「だから何だよ!? どんな理由があれ、一瞬たりとも目を離すな! ちょっと目を離した隙に事故は起こるんだよ!」
「だったら史博さんが見ててよ! 私は部屋にいなかったんだから!!」
「ふざけんな! 子供の面倒を見るのは母親の仕事だろ? 俺は外でちゃんと稼いで父親の仕事をしている! 文句があるなら俺より稼いで来いよ!!」
「もう嫌だぁ! こんな家!!」
奈緒は絶叫していた。
今まで耐えてきた感情が一気に爆発した。涙が止めどなく溢れてくる。
「何で泣いてんだよ? おまえは嫁なんだから、俺がストレスなく過ごせる家を作るのが仕事だろ? 自分の仕事をしろよ! 一銭にもならない仕事をな!!」
いつからだろうか?
幸せだったはずの史博との結婚は地獄でしかなかった。
自分ひとりだったら、とっくの昔に離婚していただろう。
だけど、六花がいる。
一歳未満の娘をかかえて、まともな仕事ができるわけがない。
娘のためにも、この地獄のような生活にしがみ付くしかなかった。
史博は自分の部屋のベッドの上で、イビキをかいて寝ていた。
晩酌で軽くお酒に酔って、スマホでゲームをして、動画を見て笑う。
そして朝までぐっすりと眠るのだ。
(冷めてる・・・)
部屋を掃除して、六花を寝かしつけ、居間に戻ったころには、すっかり料理は冷めていた。
だけど、お腹は空いている。
美味しくはないけど、食べるしかない。
生きるために…。
***
その日は六花の予防接種のため、朝から病院へ向かう予定だった。
朝6時に起き、洗濯をしてから、史博の朝食と着替えの準備を済ませる。
史博を送り出してから六花と自分の外出の準備をし、家を出た。
(駅に来るの久しぶり。通勤時間だから人が多いなぁ)
「チッ、邪魔くせえ」
乗車するための列に並んでいると、サラリーマン風の男性が舌打ちしてきた。
いや、彼だけではない。周囲からも似たような声が漏れ聞こえてくる。
「通勤時間にベビーカーとかあり得ないだろ」
「空気読んでほしいよ、まったく」
「こっちは仕事なんだぞ。迷惑だって気づけ」
(私だって好きでこの時間にいるじゃないのに…)
予約していた注射の日は、史博が風邪をひいたため行けなかったのだ。
病気で寝込んでいる夫を看病しない妻を、史博は絶対に許さなかった。
赤ちゃんの注射の再予約なんて簡単に取れるものではない。時間が開けば注射の意味もなくなってしまう。
必死に捜して、ようやく見つけた小さな空き枠だった。
奈緒は肩身の狭い思いから、電車を一本遅らせることにした。まだ少し余裕はある。
次の電車も人は多かったが、なんとか乗り込むスペースはあった。けれど、なかなか動きださない。
ややあって、『信号機が故障したため、しばらく停車します』とのアナウンスが流れてきた。
(うそ? こんなときに…)
「ふぎゃああああああ!」
さらには、六花までぐずりだした。
「チッ! うるせーなぁ」
「電車の中でわざわざ泣かせんじゃねえよ」
不機嫌な態度を隠すことなく、苛立ちをぶつけてくる。
「す、すみません」
奈緒は祈るような気持ちで、六花をあやす。
「おーよしよし。どうしたの? もう少し我慢してね」
優しい口調で話しかけた。
ここで不安や怒りの感情を滲ませたら意味がない。赤ちゃんは母親の感情に敏感だ。
「何が、よしよしだ。ちゃんと叱れよ」
鋭い言葉のナイフが胸に突き刺さる。
(叱れば、余計泣くだけじゃない!)
奈緒は目の前が真っ暗になった。赤ちゃんを叱っても逆効果になることくらい、理解できそうなものだ。
世間はこんなにも無関心で無知なのだろうか?
(お願いだから泣き止んで!)
消え去りたいと思った。
冷たい視線にこれ以上耐えられる気がしない。
***
奈緒はベビーカーを押しながら、小走りで受付に走り寄った。
「先ほど遅れるって電話した高橋です」
「ああ。今日はもう無理です」
「え? でも、さっき電話じゃ…」
「急患が入ったんですよ。諦めてください」
「じゃあ、それが終わった後でも!」
「予約で埋まっています」
強い口調で言われ、奈緒は気勢を削がれた。
「…わかりました。次はいつが空いてますか?」
「2か月後なら空いてますけど?」
奈緒は答える気力さえ無くなっていた。
***
病院を出て、しばらく歩いていると雨が降ってきた。
(最悪だ。傘…持ってきてない)
幸いにもベビーカーにはレインカバーがついていたので、六花が濡れることはない。
雨除けになる建物のある場所まで、のろのろと移動する。
奈緒はすべてが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
(何やってんだろ…、私…)
注射を打つことはできず、無駄に怒鳴られて、嫌な気持ちになって、雨に濡れている。
「うぐっ…、ぐすっ…」
溜まっていた何かが、涙となってあふれてきた。
涙だけは温かい。
(私…なんて惨めなんだろう)
「あの、どうされました? 具合でも悪いんですか?」
不意に声をかけられた。
ドキッとして顔をあげる。
優しげな青年が、目の前に立っていた。
彼の大きな傘が、斜めに入り込んできていた雨から、奈緒が濡れるのを防いでいてくれる。
綺麗で整った顔だと思った。
気品と包容力に満ちていて、どこぞの王子と名乗られても信じてしまいそうだった。
「大丈夫ですか?」
もう一度、声をかけられた。
久しぶりに人の声を聞いた気がした。
「あ、いえ。大丈夫です」
奈緒は慌てて涙を拭った。
「あ、そうか。『大丈夫ですか』と聞くのは駄目でしたね」
「え?」
「多くの人は『大丈夫ですか?』と聞くと、『大丈夫です』と答えるそうです。たとえ、そうでなくとも」
奈緒はどきりとした。
確かにそうかもしれない。
いったい、何が大丈夫なのだろう?
「傘は持っていますか?」
「え? いや…。でも大丈夫です」
「あと3時間ほど雨は止まないらしいです。レインカバーの中でも長い間いると風邪をひくかもしれません」
「…あ」
奈緒は自分のことに目一杯で、六花を気遣う余裕がなかったことに気づく。
風邪の心配もあるが、食事やオムツの問題もある。ここでずっと雨宿りしている訳にはいかない。
「これを使ってください」
青年が傘を差しだしてきた。
骨組みがしっかりとした上品な傘。決して安物ではないだろう。
「え? でも…」
「僕は車なんで大丈夫です」
青年の後ろには、高級そうな車が止まっていた。
(あれって、ランボルギーニ? お金持ちなんだ)
「それに傘は人に貸すもんですよ。傘だけに傘なきゃ」
「ぷっ、なんですか、それ…」
お金持ちでイケメンの青年、それとオヤジギャグが微妙にマッチしてツボに入った。
「じゃあ、使ってくださいね」
青年はベビーカーのフレームに傘をかけると、走って車に乗り込んでしまった。
有無を言わせぬ強引な行為に戸惑いもしたが、それ以上に諦めがついて、素直に傘を使おうという気になる。
もしかしたら、わざと強引な行動をとったのかもしれない。
車が走り去る瞬間、運転席に乗るもう一人の男性を見えた。切れ長の瞳に、整った顔。先ほどの青年とは違い、少し怖い感じがした。
(…たぶん、この傘はくれたんだ)
返してもらうつもりなら、連絡先の交換や落ち合う約束をするだろう。それをしなかったという事は、そういう事なのだ。
****
(世の中にはあんな人もいるんだ…)
青年の傘で雨を凌ぎながら、奈緒は彼のことを思い出していた。
(優しくてイケメンでお金持ち。精神的にも余裕がある感じだし…。凄い人なんだろうな)
おそらくは住む世界が違う人間。
もう二度と会うことはないだろう。
「え?」
奈緒は思わず足を止めた。
反対側の歩道に、ふと見知った顔を見かけたのだ。
史博だった。
夫の隣には若い女性の姿があった。
ひとつの傘の下、二人は恋人のように仲睦まじく歩いていた。
*****
「ただいま。ふぃ、やっぱ接待は疲れるわ」
アルコールで顔を赤くした史博が帰ってきた。接待と言っているが、本当のところはどうなのか。
「史博さん!」
「な、なんだよ…」
奈緒の剣幕に、史博は若干たじろいだ。
「これってどういうこと!? 誰なの!?」
奈緒はスマホを向けて、昼間撮った史博の浮気写真を見せつける。
史博は一瞬驚いた様子だったが、すぐに怒りを顔に滲ませた。
「は!? おまえ、なんで勝手に撮ってんだよ! キモッ!! ストーカーじゃん!!」
「私は六花の病院に行ってたの! 何度か言ったけど知らないよね!? これって浮気だよね?」
「…だったらなんだよ?」
「…は!?」
予想外の態度に、頭が真っ白になる。
「浮気くらいで、ちっせえ女! 俺は会社でもストレス溜まってて、家でもストレスが溜まってんだ!! 浮気くらいでギャオンするんじゃねえ!!」
「開き直って! みっともない!!」
「仕事してねえ奴には分からねえよ!!」
仕事仕事仕事。
何かあると、伝家の宝刀のように、その単語を口にする。
結婚を機に仕事を辞めさせたのは史博だ。
反論できる力を奪ったのは史博だ。
それなのに!
「謝る事すらできないの!?」
「だから仕事もしてない奴に言われたくねえよ! 文句があるなら俺より稼いでこいよ!!」
「もういい! お義母さんに言うから!!」
「ふぎゃあああああ!!」
いつの間にか六花が泣いていた。頭の片隅でその事実を認識したけども、今は怒りのほうが勝っていた。
スマホを操作して、史博の母親に電話をかけようとする。
「おい、待てよ!」
史博が腕を掴んで制止してくる。
「離せ!! 馬鹿!! なにが仕事よ! 大した稼ぎじゃないくせに!!」
バシッ!!
横顔に衝撃が走った。
殴られたのだと、遅れて理解する。
「ふざけんな! 何様だ!! お前に仕事の何がわかる!? 1円も稼いでいないくせに!! 誰のお陰で生活できてると思ってるんだ!!」
史博が叫びながら、拳を振るってくる。痛みが頭から思考を奪っていく。
「痛い! やめて! 六花の前なのに!」
「子供をダシにすんな!」
「ふぎゃああああああ!!」
「うるせぇ!」
次の瞬間、史博は六花の元へ駆け寄り、乱暴に手で六花の口を押さえつけた。
泣き声が口の中でくぐもる。
窒息するんじゃないかと思った。
「子供になんてことするの!」
タックルするようにして、必死に史博から六花を取り返した。
「子供子供うるせえ! 俺のほうが大事だろうがぁ!!」
ゲシ!
史博の足が、奈緒の頭を蹴りつけた。
何度も何度も、激しく踏みつけてくる。
ぐらりと視界が歪んだ。
殺されるかもしれない。そう思った。
ふと、昼間の青年の優しい顔が思い出された。
同じ人間なのに、どうしてこんなにも違うのだろうか?
どうして自分は、こんな底辺で、殺されそうになっているのだろうか?
「―たく、ふざけやがって。女なんて男が守ってやらなきゃ生きていけないくせに。なんで偉そうなんだよ。俺より稼いでから文句を言えよ」
(なんでこんな人と結婚したんだろ…)
(六花にも乱暴して…許せない)
(え? なに…!?)
チカチカとする視界の向こう、史博の頭の上に、何か画面のようなものが浮かんでいた。
ゲームでいうステータスのような表示。
男性ランク:G
経済力:E
家庭力:G
育児力:G
(男性ランク…G? Gってなに? ゴミってこと?)
疑問よりも先に、絶望が思考を染め上げた。
(家庭力と育児力もGって…。この人と一緒に居たら、六花も私も幸せにならない)
奈緒の中で何かが吹っ切れる。
子供のために我慢してきた。
だけど、それが却って六花を不幸にするのなら――
「別れよう。もう我慢の限界」
「はぁ? お前、何言って…」
「離婚しようって言ってるの!!」
「おいおい、これだから馬鹿女は…」
史博は両掌を上に向けて、小馬鹿にするみたいに言った。
「感情でしか考えられない馬鹿なのか? 生活はどうすんだよ? 金は? 体でも売るってか? ははっ、考えてものを喋れ」
「何を言われても私の意志は変わらない。お金なんてなくってもね! あんたと一緒にいるよりはずっとずっと幸せよ!!」