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「もう我慢の限界! 離婚する!」

「はん! ふざけてろ。出来もしないくせに!」

奈緒の三下り半に、史博はまったく堪えていないようだった。

無力で稼ぎもない女に何ができる?

本気でそう思っているのだ。

そこには、奈緒の気持ちを推し量る気も反省して行動を改める気も、微塵も感じられなかった。

(馬鹿にして!)


奈緒は手早く荷物をまとめると、六花を連れて部屋を飛び出した。

出来るわけがないと高を括っている史博は、止める素振りもみせず、スマホを弄っている。

その神経も理解できないが、Gランクの男なら、そんなモノかと思った。


(寒っ…)

外に出ると刺すような冷たい風が襲ってきた。

史博に対する今の気持ちを表しているかのように、体温を奪っていく。


2月の夜。

しんと静まり返った寒い世界に、絶望にも似た不安を覚えた。

早く温かいところへ行かないと、六花も可哀想だ。

それでもあの家で史博に窒息死させられるよりマシだろうが。


(どこに行けばいいんだろ…)

怒りに任せて家を飛び出した奈緒だったが、すぐに途方に暮れてしまった。

薄暗いベッドタウンの夜。

どこへでも行けるはずなのに、どこにも行けなような陰鬱な陰が落ちている。

こんな時に頼れるような仲の良い友達はいなかった。

結婚して専業主婦になったことで、仕事をしている友達とは疎遠になったし、相談に乗ってくれそうな親友は遠くにいる。

もしかしたら匿ってくれる友人はいるかもしれないが、平日の深夜に赤子連れで、仕事をしている友人の家に厄介になるのは忍びなかった。

それに、奈緒は本気だった。

本気で離婚するつもりだから、友人宅に匿ってもらうのは痴話喧嘩の範疇に思えて、抵抗があった。


(やっぱり実家しかないよね…?)

抱っこ紐の中で、すやすやと眠る六花を見る。

(早く暖かい場所へ移動しないと)

奈緒はかじかんできた手でスマホを操作する。

「もしもし、お母さん? 今から帰ってもいい?」

優しい声は期待していなかった。

それでも返ってきた声は、想像以上に冷たいものだった。

「はぁ? 今何時だと思ってるの?」

そんな時間だからこそ、異変を感じ取ってほしい。

「史博さんと喧嘩した。離婚するつもり」

「馬鹿言わないの! 冷静になりなさい。風の音がうるさいんだけど?」

「外にいるの。六花もいるから」

「馬鹿なの!? 六花が可哀想でしょ? 史博さんに謝って、許してもらいなさい!」

「なんで!? 悪いのは向こうなのに!」

「それが母親の仕事なの!」

話が通じないと思った。

いや、昔から母の小夜子には、そんな部分があった。

思い込みが強く、人の話は聞かないくせに、不満と文句ばかりは多い。

「とにかく、あんたは養ってもらってる立場なんだから、史博さんにもっと感謝しなさい!」


「くしゅん!」

六花がくしゃみをする。

体が小さい赤ちゃんは、大人よりも体温の低下が激しいと聞いたことがある。

ここで無駄な電話をしている場合ではなかった。

「…わかった」

短く答えて電話を切った。

わかったのは、母親は頼りにならないという事実だ。


近くのホテルを調べたが、どこも満室だった。

漫画喫茶は近くにあるが、六花が夜泣きしたらと思うと、トラブルになりそうで怖かった。

奈緒は仕方なく、ファミリーレストランに向かった。

客は少なく、すぐに席に着くことができた。

(まだ寝てくれている…。ごめんね。今だけ我慢してね)


注文をして六花の様子を眺めていると、70歳くらいの男性が奈緒の顔をまじまじと覗き込んできた。

(え? なに?)

奈緒は男性を見ないよう目を逸らしていた。

奈緒の人生おいて、こんなにまじまじと知らない人から見つめられた経験はない。

恐怖が心臓を締め付けてくる。

「……」

奈緒が無視を決め込んでも、男性は無言で見つめ続けていた。

「お客様。ほかのお客様のご迷惑ですから」

状況に気づいた店員が男性に話しかける。男性は店員に促されながら席に戻った。

その間、男性は一言も言葉を発しなかった。


「ぎゃはははははは!」

突如、大きな笑い声が聞こえて、奈緒はびくりとした。

右奥のテーブル席で若い男女が騒いでいた。

全員が髪を染めていて、大人よりも一回り小さい。明らかに未成年だ。

高校生よりも幼い感じがするので、もしかしたら中学生かもしれない。

(こんな夜遅くに…)

中学生だとしても、恐怖のほうが勝った。

深夜にファミレスで騒いでいる髪を染めた中学生が、まともなはずがない。


奈緒は異邦人だった。

本来であれば家で六花と寝ている時間。

いつもの自分と違うことをしているから、いつもの自分とは違う人種と出会ってしまう。

日常とは違う、異質な空気。

けれども今は、奈緒もここの住人なのだ。

(どうして私、ここにいるんだろ?)

涙が、流れ落ちてきそうになる。


『出来もしないくせに!』

史博の小馬鹿にしたような言葉が思い出される。

行く当てのない主婦は、どんな理不尽なことをされても、我慢するしかないのだろうか?

(でも、戻りたくはない。男性レベルG。あんなゴミと一緒にいたら、絶対に不幸になる)


ふと、誰かの視線に気づいた。

先ほどの高齢男性が再び奈緒の顔をじろりと見つめていた。

(ひっ! なんなの!)

ぞわりと寒気が襲ってくる。

「赤ちゃんおるな。おっぱい吸わせんのか?」

どういう意図で言ったのか、ニヤリともせず、無表情のまま問うてきた。

カマキリだった。

男性の顔はカマキリを彷彿とさせ、無表情に頭を傾けながら、得物を狙うかのように、じっとこちらを見つめている。


そのときだ。

男性の上に例のステータス画面が表示された。


男性ランク:G

経済力:G

成功:G

人望:G

育児力:E

家庭力:F

モラル:E

人間力:E


(男性ランクG? この人も史博さんと同じレベルなの?)

奈緒は愕然とした。

生理的嫌悪感を覚える男性。

そのランクが史博と同じなのだ。同レベルの存在。

そんな人物と自分は結婚していたのか…。

急速に心が冷えていくのを覚えた。

「お客様」

再び店員が注意する。

「あの女、おっぱいやらかんかったぞ。人攫いじゃないのか?」

店員は苦笑いしながら、男性を席へ誘導しようとした。


(あっ!)

奈緒は心の中で驚きの声をあげた。

店員の上にも、同じようにステータスが表示されたのだ。


男性ランク:D

経済力:E

成功:E

人望:D

育児力:D

家庭力:C

モラル:B

人間力:C


(やっぱり幻覚じゃない! ステータスが見える!?)

最初は史博、次にカマキリ男性。

怒りや恐怖のほうが勝っていたため、深く考えることはなかったが、よくよく考えれば不思議な現象だった。

奈緒は遠くで騒いでいる中学生たちを見た。

しかし、こちらはステータスが表示されない。

(駄目だ。違いはなんだろう…。あっ!)

中学生のひとりが席を立って、奈緒の前を通った。

一瞬だけだが、ステータスのようなものが彼の頭上に浮かんだのだ。

(距離が関係するのかな?)

そのときだ。

「アイツ、そろそろシメますか? 人数揃えますよ?」

入口からひと際大きい声が聞こえてきた。

ガタイの良い私服の男性に、水商売風の女性。

そして、へりくだった態度で話しかける背広の青年。髪の色は金髪だった。

雰囲気がすでに、堅気のそれではない。

「いらっしゃいませ」

そんな相手にも、店員は恐れることなく接客をする。

「つーか、赤ちゃんいんだけど?」

水商売風の女性が、舌打ちするように言った。

「おい、うるさくしたら10秒以内に黙らせろ。いいな」

私服の男性に言われ、店員は困ったような態度を見せた。

2度もカマキリ男から救ってくれた店員さん。

これ以上、迷惑はかけたくなかった。

彼らが席についたタイミングで、奈緒は席を立った。


寒くて暗い街並み。

ときおり猛スピードで車が走り抜けていく。

(どこへ行こう…?)

深い絶望だけがあった。

「ふぇ~ん! ふぇ~ん!」

六花が泣き出した。慌てて宥める。

「六花、いい子だね。さっきはよく我慢してくれたね」

奈緒は優しく六花をあやした。

ときおり車の音がするとはいえ、深夜の住宅街で赤子の鳴き声は迷惑だろう。

独りでは何もできない赤ちゃんが、周囲に助けを呼ぶためのか弱い声。

けれども世間は、それを迷惑で不快なものだと感じている。

どうしたら、いいのだろう?

何が六花にとって幸せなのだろう?

「六花泣かないで…。ママのほうが泣きそうだよ」

思わず弱音が漏れてしまう。

(どうしたらいい? どうやったら六花は幸せになれるの?)

自分が我慢して、史博に頭を下げれば、それですべてが解決するのだろうか?



ガチャ。

出来るだけ静かにドアを開ける。

奈緒は史博の家に戻っていた。

寝室からは史博の盛大なイビキが聞こえてきている。

六花の鳴き声がうるさいからと、寝室は史博が占領していた。

(心配で眠れないとかないんだ…)

起きていたら、それはそれで嫌だったが、堂々と寝られている事実に、奈緒は複雑な気持ちになる。

泣き止んで再び眠りついていた六花を、布団の上に寝かせた。

愛らしい寝顔だった。

ようやく温かい場所で寝せることができた。

この家に戻ってきたことで…。

(ごめんね、六花。無力なママで…)



奈緒はなかなか寝付くことができなかった。

頭の奥底で、緊張の糸が張りつめている。

それでも明け方になり、ようやく睡魔が襲ってきた。

「おい、起きろよ!」

そのときだ。

史博の不機嫌な声で、びくりとなって目が覚めた。

「何ぼーっとしてんだよ。使えねえなぁ」

史博の見下すような顔が頭上にあった。

時計を見ると、朝になっていた。

短い間だったが眠っていたようだ。

「早く朝飯作れよ。会社に遅刻するだろうが」

史博は苛立たしげに言うと、ソファに座ってスマホゲームをはじめた。

(家を出て行った妻に最初にかける言葉がそれなの…?)

ショックで動く気さえも起きない。

それなのに奈緒の体は、まるでロボットのように、染みついた動作を開始する。

(ごめん、とか言わないんだ…)

たとえ嘘でも、そう言ってもらえれば、少しは気持ちが楽になる気がした。

「そういや、ごめんなさいは?」

聞き間違いかと思った。

けれども確かにそれは、スマホを弄る史博の口から発せられたものだった。

「なに黙ってんの? 謝罪しろよ。もちろん土下座でな。俺に迷惑かけておいて、謝ることもできないの?」

あり得ないと思った。

どこをどう解釈したら、そんな思考に行きつくのか?

「謝るの? …私が?」

「当然だろ? たった数時間の家出で理解したろ? どっちが正しいかって」

奈緒は反論できなかった。

モラハラに暴力に不倫に子供への虐待。

悪いのは史博のほうだ。

しかし、数時間の家出で理解した。

自分はそんなGランクのクズ男からも逃げることができないのだと。

けれども、だからと言って、史博が正しいわけではない。

それだけは絶対にあり得ない。


「どうした? 謝れよ。そしたら許してやるよ」

「許すって何? そんなに――お金を稼いでいるほうが偉いの?」

「当たり前だろが? じゃあ、なんで戻ってきたんだよ!?」

ここでようやく史博が、こちらを振り向いた。

「……」

奈緒は痛いくらいに拳を握りしめる。

理不尽な要求。

お金は力だ。

だけど、力があれば他人の意思をも自由にできるというのであれば、それは横暴だ。クズの所業だ。

「生きていけないからだろ? いい加減、自分の立場ってもんを理解しろよ!」

黙っている奈緒に、「勝ち」を確信した史博が言い放つ。

「いつも言ってるだろ? 『文句があるなら俺より稼いでみろよ』」


奈緒の中で、何かが切れた。

辛うじて残っていた人としての矜持が、叫びをあげる。

「そしたら離婚してくれるの?」

しばらく間があった。

予想外の返答だったのだろう。

「は? 何言ってんの?」

「だから、史博さんより稼いだら…」

「馬鹿か! 聞こえているよ! 無理だって意味だよ!」

バンバンとソファを叩きながら、言葉を続ける。

「主婦ごときに仕事ができるわけねえだろ! 掃除、洗濯、子育て! 普通の人間なら1時間で終わるような簡単なことを、大変とかほざく無能にはなっ! 調子に乗んな!」

「そんなの分からないじゃん!」

「ああ、そうか。女を使うんだな?」

史博がわざとらしく呆れた態度で言った。

「はぁ~。楽でいいよなぁ、女はよぉ。だから、そんな馬鹿な考えを持つんだ」

「…なっ!」

「いざとなったら水商売かパパ活か? どのみち男に金をせがむしかない寄生虫が! 仕事舐めんじゃねえぞ!」

しばらく静寂が降りた。

「…分かった」

奈緒はようやく理解した。

たとえ生活できなくとも、失くしてはいけない大切なモノがあることに。

「やっと分かったか」

クズ男は、やれやれという態度で答えた。

「じゃあ、私が普通の仕事であんたよりも稼いだら、離婚して!」

史博が呆気にとられた顔をする。

「ううん、それだけじゃない! 今までのモラハラを土下座して謝って!!」

文句があるなら俺より稼いでみろと言われたので、離婚して仕事をしたら億万長者になりました

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