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卒業式まで、あと十日を切った。
教室には、なんとも言えない“終わり”の気配が漂い始めていた。
カウントダウンのような日々。
黒板の隅に描かれた「卒業まであと〇日」の数字が、ひとつずつ減っていくたびに、胸がざわついた。
(……終わっちゃうんだ)
この場所でのすべてが、どこか夢のようだった。
仁と出会って、いろんなことがあって、何度も泣いて、でも立ち上がって。
信じることを覚えたのも、きっとこの教室だった。
「……ねぇ、仁くん」
放課後。帰り道の川沿いの歩道で、みなみはふと声をかけた。
「うん?」
「もしさ、未来が思った通りにならなかったら、怖いって思ったことある?」
仁は歩みを止めて、少し考えてから答えた。
「あるよ。ていうか、今もちょっと怖い」
「仁くんでも、そんなふうに思うんだ」
「当たり前だろ。……でも、それでも進もうって思えるのは、隣で歩いてくれる人がいるからだよ」
みなみの胸が、きゅっと熱くなった。
風が少し強くなり、前髪がふわりと揺れる。仁がそっと手で直してくれた。
「……あったかいね、仁くんの手」
「お前のほうが、冷たくなってるよ」
「うん。……ちょっとだけ、寂しくなってたのかも」
「じゃあ、もっとつないでようぜ。春まで、ずっと」
ふたりは黙って手をつないだまま、並んで歩いた。
次の日の放課後、教室には卒業式の準備で集まった生徒たちの声が響いていた。
みなみもその中にいた。
以前の自分なら、こうした“集団の中”にいることに緊張していたはずなのに、今はそれが自然に思えた。
「水瀬さん、こっち手伝ってー!」
「これ、あの席に置く花、足りるかな?」
そんな声をかけられるたびに、自分が「ここにいていい」と思える。
(あのとき、仁くんが守ってくれた居場所)
(今はもう、自分の足で立ってる)
ふと、仁が近づいてきて、みなみに声をかけた。
「そういえばさ、進学先のこと、家族には話した?」
「うん……やっと話せた。最初はまた怒鳴られるかと思ったけど、もう無言だった」
「無言か……」
「でも、それってたぶん、あの人なりの“認めた”ってことなのかもって思った」
「……すげぇな、お前。強くなった」
「そうかな?」
「うん。でも、変わらないとこもある。……その、不器用で、泣き虫で……可愛いとこ」
「仁くん……バカ……」
「はは、照れてんの?」
みなみは横を向いて笑った。
いつの間にか、仁の前では素直になれる自分がいた。
家に帰ると、リビングのテーブルに母が置いたままの書類があった。
そこには、「奨学金申請書」と書かれていた。
「……お母さん……」
みなみはそれを静かに手に取った。
何も言わなかった。けれど、心が少しだけ温かくなった。
ほんの少しだけど、母なりに“前に進もう”としてくれている気がした。
その夜、仁からメッセージが届いた。
「卒業式、泣くなよ」
「無理だよ、たぶん」
「俺も無理。絶対泣く」
「じゃあ、泣くときは一緒にいて」
「もちろん」
みなみはスマホを抱きしめ、目を閉じた。
この日々が、もうすぐ終わる。
けれど、それは「別れ」ではなく「始まり」なのだと、今なら思えた。
卒業式の練習の日、みなみは壇上から体育館を見下ろしながら、ふと呟いた。
「こんなにたくさんの人がいて、こんなにいろんな声があるのに……あの頃の私は、ずっと一人だと思ってた」
「でも、違った。ちゃんと、手を伸ばせば誰かがいてくれた」
その言葉に、後ろにいた仁が静かに返した。
「その“誰か”に、お前もなれよ」
「うん。……なるよ。絶対」
卒業式まで、あと6日。
桜のつぼみが少しずつ開き始めていた。
春は、すぐそこだった。
卒業式まで、あと5日。
教室では、卒業アルバムの配布が始まった。
「わー、懐かし〜!このときの写真、顔死んでる!」
「先生の寝癖やばくない!?」
「ねぇ、寄せ書き交換しようよ!」
あちこちで声が飛び交い、教室が一気に明るくなる。
みなみは少し戸惑いながら、手元のアルバムを開いた。
写真の中の自分は、どこかよそよそしく、笑顔がうすかった。
「でも、これが“本当の私”だったんだよね……」
ふと、隣の席に座っていた伊藤が声をかけてきた。
「ねぇ、水瀬、さ……寄せ書き、書いてもいい?」
みなみは驚いた表情を浮かべた。でも、すぐに優しく微笑んだ。
「うん。ありがとう」
「なんかさ、ちゃんと“ごめん”って言えてなかったなって。
あのとき、自分がどんだけ薄情だったか、思い知ったから……」
「……もう、いいよ。それより、こうして声かけてくれて、うれしい」
「泣くなよ?卒業式で顔ぐちゃぐちゃな水瀬、見たくないんだから」
「そっちこそね」
二人で笑い合った。
それだけで、確かに何かが“つながり直した”気がした。
放課後、仁と二人で帰る道。
太陽が少し傾いていて、影が長く伸びていた。
春の空気はまだ冷たかったけれど、心はあたたかかった。
「仁くん、私ね」
「ん?」
「大学生になったら、自分の部屋に観葉植物を置くのが夢なんだ」
「なんだそれ」
「癒されそうじゃない?あと、いつか仁くんの分も育ててみる」
仁はその言葉に少し驚いて、でもすぐに笑った。
「……それ、プロポーズか?」
「ばっ……違うし!」
「でも、悪くない」
「ちょっと、やめてよぉ……!」
顔を真っ赤にしながら笑うみなみに、仁はそっと呟いた。
「お前といると、未来のことを考えたくなる」
その言葉が、どこまでも優しく、心にしみた。
帰宅すると、母が夕食を作っていた。
キッチンから立ち上る湯気、炒め物の香り。
こんなに普通のことが、少し前までは“異常”だったなんて、信じられない。
「……あんた、これ好きだったでしょ。作っといた」
母が差し出した皿には、昔みなみが大好きだったチキン南蛮が乗っていた。
何も言わず、そっと差し出されたそれに、思わず喉がつまった。
「……うん、ありがとう」
短い言葉。けれど、その一言が、まるで何年分もの思いを含んでいた。
(これは、たぶん……お母さんなりの“ごめん”だ)
夜、机の上の卒業アルバムに目を落とす。
手書きで綴られたメッセージが、少しずつ増えていっていた。
「一緒に笑えるようになってよかった」
「これからも、自分らしく頑張って」
「またどこかで会おうね!」
その中に、仁の字を見つけた。
『俺が見てきた水瀬みなみは、ちゃんと前に進んでる。
どんな未来が来ても、お前なら大丈夫。
――また、笑って会おうぜ。仁』
その“また”が、“ずっと一緒にいる”という約束にも、“どこかですれ違う日”にも感じられた。
けれどどんな意味でも、みなみは“前を向いて会いに行ける自分”でいたいと思った。
卒業式まで、あと4日。
明日も、ちゃんと学校に行こう。
そして、ちゃんと“この日々”を抱きしめよう。
春は、もうすぐそこだ。